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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
15章 生傷
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境界線の攻防

結局あのあとも、いくつか試してみた。

けれど結果は同じだった。――守ることに意識を集中すると、力そのものを保てなくなる。


やはり、力と意識は密接につながっている。

答えは理屈の中ではなく、彼女の心の奥――深層、心理、その無意識にある。

つまり、心が張りつめたままではだめなのだ。


もっと気軽に。

もっと、自由に。

そうでなければ、リシェリアの力はのびやかに流れ出てこない。


……それが難しいのも知っている。


嵐の夜、あの時――

彼女は俺に本気で怒った。

それまで一度も見せたことのない、氷のような拒絶だった。


冷気が走り、周囲の空気が凍りついた。

鉄の鎧に氷紋が浮かび、息をするたびに胸甲の内側で白い霧が漏れた。

彼女の怒りが、力そのものに変わっていたのだ。


いつも誰にでも穏やかで、何をされても受け入れてしまう、あのリシェリアが――。


いや、違う。

何でも受け入れてしまうからこそ、危うい。

それでは守れない。

拒むことを、学ばせなければならない。

そのためには、彼女自身が“拒む”という感覚を取り戻す必要がある。


……だから、舞台は特別礼拝室にした。

グラントとの婚約によって、リシェリアだけが使用を許された私室のような礼拝の空間。

静謐で、神域に近い清冽な場所。

ここなら、彼女の力を余計な干渉なく測れる。


開始早々、前置きは抜きだ。

もう理屈ではなく、感覚で掴んでもらうしかない。


「リシェリア、お疲れ様。こっちに」


扉が静かに閉まる音。

俺はいつもの挨拶を省き、彼女が入ってくるなり長椅子を指した。

彼女の細い肩が一瞬こわばるのが見えた。


「え……あの。ちょっと早くないでしょうか?」


戸惑いの声。

いつもなら少し雑談を交わして、気をほぐしてから始める。

それを省いたせいだ。


「早くて困ることはないと思うけど。長ければ長いほど癒される。――俺が」


冗談めかして言いながら、少しずつ距離を詰める。

安心させるように微笑んで。

ゆっくりと、一歩一歩にじり寄る。


「それはそうでしょうけど……そもそも全快以上になるものではないですよ」


リシェリアは苦笑して、わずかに腰を引いた。

体を預けることをためらっている。


「気持ちの問題だから。――さあ」


俺が促すと、彼女はため息をついた。


「はあ……」と小さく吐く息が、首筋を撫でていく。

それからおずおずと、襟元を緩め、背中をわずかに晒した。

月光のような肌がのぞく。


その白さに、喉が鳴る。


毎回、思う。

ほんの少しうなじを見せるだけで、どうしてこんなに淫靡に見えるのか。

その首筋に、唇を落としたらどんな味がするのだろう――。


……落ち着け。


口づけなどしたら、もう戻れない。

ここは神の場で、俺は祭祀官だ。

それでも、ほんの一瞬、彼女の体温に触れるたび、理性が溶けそうになる。


「ふう。さて、今日はまた、防護についてやってみようか」


俺は軽く息を整え、彼女を後ろから抱く。

聖痕の位置――うなじの少し下あたりに顔を寄せた。

髪の間からかすかに香る草花の香。


ただそれだけで、心が解けていく。

あまりにも癒される。

静寂の中で鼓動が一つになる感覚。


ああ、このまま一生ここにいられたら――そんな愚かな考えが頭をよぎる。


「え、この姿勢で……私は公務の後で、さらにそんな話がはじまるんですか……」


信じられないというような声。

少し困ったように眉を下げている。

確かに、休息の時間を奪うのは申し訳ない。


「うん。ここでしかできないことを、実験してみようと思って」


そう言いながら、俺は彼女の肩越しに視線を落とす。

聖痕が、淡く光を帯びていた。

その光が、俺の指先にまで伝わってくる気がした。


「ところで――」


少し間を置いて、わざと軽い調子で言う。


「リシェリア。婚約者のいる女性が、婚約者ではない男と密室で。こんな姿勢でいるのは……非常にまずくないかな」


「えっ…………」


リシェリアが固まった。

肩がぴくりと跳ね、背筋がこわばるのが分かる。


……可愛いな。


この反応を見るのは、きっと俺だけだ。

誰にでも穏やかで、清らかに振る舞う聖女が、こんなふうに目を泳がせて動揺するなんて。


「ほら。体は固めてもいいけど、思考は固まらないで」


「えっ、えっ。……そうですよ。良くないです、離してください」


少し正気を取り戻したらしい。それでも、声が裏返っている。


「嫌だ」


短く、即答する。


本当に、離れたくはなかった。

彼女の髪が肩に触れるたび、理性が軋む。

清らかな空気の中で、俺だけが濁っている。


「え……」


リシェリアが身をよじろうとする。

だが、俺はそう簡単には逃がさない。

武人ではないが、華奢な少女ひとりを引き留めるくらいはできる。


「ほら。リシェリア、どうする?」


まだ硬直している彼女の背を、軽く押し寄せるように抱き締める。

薄衣越しに感じる温もりが、危ういほど近い。


「早くしないと」


耳元で囁く。

息が触れて、彼女の体がびくりと揺れた。


「ど、どうして……?」


困惑の色が混じる声。

俺の言っていることと、やっていることが矛盾している――そう思っているのだろう。


仕方ない。助け舟を出してやる。


「防護の練習だって言ったはずだよ。自分に膜を張ってみたらどうだろう? ……あるいは、服を一枚着ることを想像するんだ。内側から、厚着してごらん」


「な、なるほど……」


唸るように言って、彼女の意識が切り替わる。

次の瞬間、ぴたりと空気の流れが変わった。

あたたかなものが、俺の腕の中でゆるやかに広がる。


「いいね。手応えがある」


「や、やった!」


リシェリアが嬉しそうに声をあげる。

息が弾んで、言葉が少し崩れる。

いつもより幼くて、愛らしい。


少しずつ、腕の中に距離ができていく。

指二本ぶんほどの隙間。

なるほど、確かに防護が働いている。


「よく出来たね」


そう言いながら、耳にそっと息を吹きかけてみる。


「ひぁっ!」


跳ねるような悲鳴。

同時に、隙間が消えた。

すかさず抱き込む。


「な、何するんですか! とけちゃいましたよ!」


「防護、出来たじゃないか。また練習していこう」


そうして感情を露わにする顔も、嫌いじゃない。

頬を紅潮させ、眉を寄せる。

理性を試されているのは、むしろ俺の方だ。


「それはそうと、カイル。わかっていたんなら、この“癒し”の体勢……やめましょう」


「嫌だ。グラント当人がいいと言ったんだから、問題ないはずだ」


「グラント様の意図と違うと思うんです」


「リシェリアがそう思うのなら、防護で拒んでくれ」


「そ、それとこれは話が違いませんか……」


「どう違うのか、言語化してほしい」


彼女の唇が、答えに迷うように震えた。

俺はそれを見つめながら――今日も、足掻く。

一分でも長く、この温もりに触れていられるように。


たとえ、リシェリアが防護を完全に会得してしまったとしても。

その力が、俺を拒むために使われるようになったとしても。


それでも、彼女のそばにいるこの時間だけは――誰にも譲れない。


それにしても――。

リシェリアを抱いたまま、胸の奥に小さな刺のようなものが残った。


どうにも釈然としない。


……セランだったら。

きっと、同じことをしてもリシェリアは平然としている。


あいつがリシェリアを抱き上げる姿を、俺は何度か見ている。

庭で転びかけた彼女を軽々と抱き止め、そのまま何事もなかったように土埃を払ってやる姿を。

手の甲で髪を整えたり、額を指でつついて笑い合ったり、あまりにも自然にやってのける。


……なんだろうな。あの余裕。


思わず、抱き込む手に力がこもった。


「……っ」


リシェリアの体がびくりと震え、息を詰めたように身を固くする。

耳の先が、ほんのり赤い。


先ほどの「婚約者がいるのに」という揺さぶりが、まだ効いているのかもしれない。


――……。


いや。いやいや。

これでいい。これでいこう。


あの空気は、せいぜい兄、いや弟だ。

あれは家族的な関係で、恋愛関係にあるような熱はリシェリアにはない。

だが俺との間にある空気は違う。


頬を赤らめたり、視線を逸らしたり、少し嫌そうに見えたりするのも――俺を“意識してる”証拠だ。


触れても気にも留められない男より、隣にいるだけで心拍を乱せる男でいたい。

そう思うと、ほんの少し勝ち誇った気分になる。


……そうだな。次は質のいい精油でも買ってこよう。

保湿と称して、土仕事で荒れたリシェリアの手に塗り込むんだ。

労わるふりをして、掌と掌を絡める。

少しずつ距離を詰めながら、癒しの触れ方を教える。


防護で完全に拒まれる前の勝負だ。

いや、いっそ覚えられなくてもいい。


“役得”――なんて言葉を、聖女の隣で使うのは罰当たりだが。

この攻防、続ける価値がある。


楽しみ方を無限に考えて、彼女が心から“気軽に”力を使えるようになるその日まで――俺は徹底抗戦を貫く。


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