守るための研鑽
グラントと婚約しようが、日常の責務と鍛錬は進まなければならない。
彼女が誰の隣に立とうと、守るべきものの本質は変わらない。
今、目下のところやらなければならないのは――リシェリア自身の自衛だ。
彼女の力は世界を癒すほどに強いが、それゆえに脆い。外的な攻撃よりも、内からの崩れに脅かされる。
だからこそ、教えなければならない。
力の扱い方を。
危険に対する本能を。
「自分で防護できない危うさは――嵐の時に、痛いほど分かったね」
口にした言葉は静かだったが、重く響いた。
「はい……」
リシェリアの返事は、風の端に消えるほど小さい。
実際に傷を負ったのはセランだ。
けれど、リシェリアもその痛みを自分の体に刻みつけている。
あの時、泣き腫らした目を俺は見た。
誰も見ていない場所で、己の無力を噛み締めていた。
「克服しよう」
そう言うと、彼女は肩を竦めるようにして小さくなった。
「リシェリアが防護を完全に習得してセランを安心させることが出来れば。もうあいつも無茶をしなくてよくなる。そのうえ、無茶をしたってそれごと君が守ってしまえる」
まあ、リシェリアが必要としなくても、あいつは来られる時にはこれまで通り庇いに来るだろう。
そんな確信はある。
陽の光が障子越しに淡く差し込み、彼女の髪がその光を受けて銀に揺れた。
「そう、ですね。はい。頑張ります」
指先を重ねるようにして、彼女は裾を握りしめている。
――守られるばかりではいられないと、理解しているのだろう。
それでも、彼女の中にはまだ恐れが残っている。
俺は息を吸い、静かにその様子を見つめた。
「防護は難しくないとされているが、もちろん出来ない人はいる。力の使い方は、人それぞれだから」
穏やかな声で言いながら、俺は自分の手元の茶杯を見つめた。
……俺は本当に、知覚しかできない。
霊質を操る感覚がない。
見えないものを視ることができても、その手に形を掴めない。
けれど――今は違う。
リシェリアが“通して”くれたおかげで、感知の精度は飛躍的に上がった。彼女を経由すれば、俺のような半端者でも、世界の流れに触れることすらできた。
まるで、彼女が俺と世界を接続してくれたようだった。
……生憎、何度か体験したところで、自分だけで繋がることはできていないが。
「リシェリアは出来る。何故なら、既に使ってるから」
俺は茶杯を指で弾きながら続けた。
防護の基本――“固める”ということ。
それは、彼女が無意識のうちに日常的に使っている技術だ。
だから、アスティも勘違いしたのだ。
実際は、もっと身近で、もっと本能的な防護だ。
リシェリアは恐る恐る頷いた。
その頷きが、柔らかな髪をわずかに揺らす。
光の帯が髪に絡み、銀の糸のように瞬いた。
「まずは基本」
俺は茶杯を手に取った。
「その茶杯自体を固めて」
物の形に合わせて膜を張る。
まずは形のあるものを、形のまま守る練習だ。
「はい」
リシェリアは息を整え、手をかざした。
わずかな空気のうねり。
周囲が静まり返る。
彼女の力が、茶杯の輪郭をなぞるように薄く重なっていくのが分かった。
俺はそれを見届けてから、茶杯を指先で弾いた。
軽く宙を舞った茶杯が、少し高い位置から机に落ちる。
時が一瞬止まったように、音が消えた。
割れない。
跳ねて、転がるだけ。
机の上で、ころん、と茶杯が跳ねて止まった。
ヘンリクが珍しく息を呑む声を聞いた。
……ああ、あの茶器、高価なやつだった。驚かせてすまない。
とにかく、ここまでは良い。
俺は転がった茶杯を拾い、改めて茶を注がせた。
湯気が細く立ちのぼり、淡い香りが空気に混じる。
縁近くまで満たされた茶杯を、彼女の前に置く。
「次は、その茶杯に蓋をしてみよう」
俺は静かに言った。
蓋――つまり、物体の輪郭を拡張して、見えない膜を張ること。
想像しやすくするために、わかりやすい言葉を与える。
「はい」
か細い返事。
彼女が目を閉じ、手のひらをわずかにかざす。
空気が震え、杯の上に薄膜のような気配が走った。
俺は確認もせず、茶杯をそっと傾けた。
縁いっぱいまで満たされた茶が、溢れそうで溢れない。
液面が揺れても、表面張力のような見えない力がそれを受け止めていた。
「よし」
短く頷く。
彼女の指先が、ほっと緩むのが見えた。
「次は人体。まずは俺の手、固めてみて。……いや、守ってくれ」
「……はい」
小さな声。
彼女の指がためらいながら、俺の手の上にかざされる。
次の瞬間――じわりと、あたたかい何かに包まれた。
熱すぎず、冷たくもない。
まるで革手袋のように、指の動きが少しだけ制限される。
皮膚の表面に、柔らかな圧が宿った。
「いいぞ、そのまま」
俺は、さっきの茶杯を手に取る。
茶はまだ熱を持っていた。
わずかな湯気が立ち昇る。
そのまま、そっと手の上に落とす。
「あ」
ばしゃん。
茶が跳ねた。
「っあつ! あー!」
熱い。
いや、熱いより先に驚きのほうが勝った。
蓋されていたはずなのに熱い茶が貫通し、俺はあまりの熱さに茶器ごと取り落とす。
防護はすべて消え、茶器は手の甲に鈍く直撃した。
跳ね返った茶杯がころころと転がっていく。転がって壁の端にカツンと音がした。
粉々に割れなかったのが、唯一の救いだった。
「すみません! すみません!」
リシェリアが慌てて駆け寄り、両手を俺の手に重ねた。
彼女の掌から、すぐに柔らかな光が溢れ出す。
冷たく、けれど温もりを含んだ癒しの波が、火照りを静めていく。
その光が消えた時、手の赤みはもうなかった。
「くそ、熱かった……。あれ? 防護らしきものがどこにかかっていたんだ?」
液体を止めた蓋。茶器への保護、俺の手。熱も衝撃も全てそのままだった。
掌を軽く振りながら言うと、リシェリアは眉を寄せ、申し訳なさそうに俯いた。
「えっとすみません……。何がするか予測できていないと……できなくて。まず、液体は当たっても痛くないでしょう? 落とす動作を見た時にもう、そういう保護を考えていませんでした。そしたらその後は単純に集中が切れました」
拾われてきた茶器を、ひびがないか念入りに裏返しながら言う。
「防護だけじゃないんですけど……。何をするのが正解かわからないと、難しいです。……すみません。火傷させてしまって」
――そうか。
そうなるのか。
「大丈夫だ。どこに問題があるのか知りたかったから、わざと複雑にしたんだ。気に病まなくていい」
今回の失点は、俺の茶器の扱いでヘンリクの肝を冷やしたことだけだ。
茶杯に蓋をすれば液体すら堰き止められるのに、曖昧に守ってくれと言えば、何から守るのかを見失う。
だが、問題点はより明らかになった。
リシェリアは曖昧さに弱い。
防護もそうだ。
反して、言葉を変えれば使いこなすことができる。
この性質を、わざわざ変えた方がいいのだろうか。
俺が常にそばにいて、彼女の意思が介在しなくていいほど細かく指定することさえできるならば――どんなことだってやってのけるのに。
ラトリエで大容量の水分を制御し、嵐を消したように。
セランの命を微細で繊細な動作で繋いだように。
もし、例えば。
大樹の霊的構造を完全に解明して、どう治すか俺が指示することができたなら。
すぐにでも癒しを終えられる。
もっと欲張れば、大樹の生命を永遠にすることもできるんじゃないのか。
……。
リシェリアの異能が、あらためて恐ろしいと思った。
もしこのことを誰かに、彼女の真髄を知られれば。
リシェリアを操り人形にすることができれば。
相当なことができてしまう。
例えば、侵略。
国家転覆。
自然破壊。
禁忌とされるようなこと。
俺は息を吐く。
それをさせないための今だ。
自分の判断と力で立てるようにしなければ、彼女を泣かせることになる。
立ち戻ろう。
「正解は、“正解なんてない”という答えになるね。時々で答えは違う」
彼女の集中が一瞬途切れたのは、曖昧な言葉のせいなのだろう。
「そんな」
不安に眉を顰めるリシェリアに、安心を与えることを忘れてはいけない。
「もちろん最適解はある。より良い答えを状況から探すことが必要だ」
そもそも防護は、完璧な鎧にはならない。
まず、行使者の意識や視野が届かなければ機能しない。意識を離せば、霧のように散って消えてしまう。
だから、たとえ使える者でも護衛は必要だ。
そのうえ、元々の対象の硬度をあまりに超過することもできない。
それでも、緊急事態には充分な効果を持つ。
「そうだな。今なら、俺は熱い茶を持っていたから予見できていても良かった。そうでないなら汎用的に“何からでも守る”形にするのがいいな。瞬間的に、何からでも遮断する壁だ」
おそらく、そのくらい言えばリシェリアなら実行できるはずだ。
彼女は水を媒介にする。
そして、空気中にも水は溶け込んでいる。
そのあたりや、最初の段階でどれだけの強度を持たせるか、どれだけ時間を維持させるかは、行使者の技量によって変わってくる世界らしい。
……だが、まあ。
俺にはそれができないので、知識としてしか知らない。
だから、“そうらしい”としか言えないのが悔しい。
「まあ、それでも実際に俺に防護は掛けられたし、次はリシェリア自身だ。……まずは、俺が指示するからその通りに守りをかけてみよう。きっと問題なく使えると思う」
そう断言して、俺は修練を再開した。




