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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
15章 生傷
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恋とはどんなものかしら

セランとの外出から帰ってきて、湯をいただいたところだった。


聖女の私室に据えられた湯殿に、アスティと交代で入って、それから眠る。私がセランとお休みを過ごすたびに、夜にはアスティも泊まってくれることがあって、私はこの流れがとても好きだった。


息のしやすいことをたくさん話して、誰かの呼吸の近くで眠れる。それだけで、悪夢は少し遠くなる。

……悪夢の回数は減ってはいたけれど、まだ時折、私が罪を忘れる事がないようにとでも言うようにふと現れる。


だから、こんな日は嬉しい。


胸の奥に残っていた緊張も、湯気に溶けるみたいに和らいでいく。聖女になってから仕事の予定は前よりずっと詰め込まれるようになったけれど、それでも心から楽しいと思える休みを、過ごせている。


今は、アスティがお湯を使っている間に、ラファが髪を拭いて乾かしてくれているところだった。


柔らかな布が髪の水気を吸い、指先が丁寧に銀の束を梳いていく。湯上がりの身体はまだ少し温かくて、部屋には石鹸と香油の匂いが薄く残っていた。


「それで、レフォードとはどう? どういう気持ちなの?」


私がそう尋ねると、ラファは少し頬を染めた。


けれど、その答えには迷いがなかった。


「ええ。話しているだけで気分が良くなります。ずっと近くにいたいし、触れると嬉しくて。だから早く顔を見たいです。会えない時も考えちゃったりして……次会うときは何を話そうとか、何か差し入れしたいとか」


言葉を重ねるたびに、ラファの表情が柔らかくほどけていく。


恋の話をしている人は、こんな顔をするんだ。


目元がゆるんで、唇が自然に笑って、少し恥ずかしそうなのに、それ以上に嬉しそうで。こちらまで頬が温かくなるような顔だった。


ラファは、ラトリエへの旅路をきっかけに、レフォードという騎士見習いの方に恋をしたらしい。


旅の途中、彼は何かとラファを気にかけてくれていたのだという。重い荷物を持ってくれたり、疲れていないかと声をかけてくれたり、足場の悪い道で手を貸してくれたり。そういう小さな積み重ねが、気づけば特別になっていたらしい。


王都に戻った後、今度は普通の日に二人で会いたいと言われて、何度か会って、そして恋人になった。


それは、私にとってとても参考になる話だった。


話しているだけで気分が良くなる。

近くにいたい。

触れると嬉しい。

会えない時にも、相手のことを考えてしまう。


うん。


前から、カイルは恋をしているのだと思っていた。そしてその向きは、多分、私だということにも、もうかなり確信が持てている。ジェスにも聞いて、その推理に補強もできた。


よかった、と私は少し安心した。


私にも、理解できる感覚だったから。


「恋ってするのは楽しいんだね」


「それはもう!」


ぱっと花が咲くみたいにラファが笑う。


その笑顔が眩しくて、私はつられるように小さく笑った。


「ふふ。そっか。昨日のお休みは何してきたの」


「手を繋いで、市街を歩いて。私は夜番でしたから門まで送ってくれて……それで」


そこでラファは言葉を濁した。

私は続きを待つ。


「それで?」


「別れの際に口づけを……しそうになって……」


途端に、ラファの顔が耳まで赤くなった。


けれど、羞恥だけではない。視線が床を彷徨っていて、少しだけ不安そうだった。さっきまでの浮き立つような声とは違う、細い揺れが混じっている。


私はそれが気になった。


「どうしてそんな浮かない顔なの。それは嬉しいことじゃ、ないの」


口づけも、触れることだと思っていた。

最初にラファは、触れると嬉しいと言っていたのに。だから、少し不思議だった。


「いえ!嫌じゃないです。でも、知り合ったばかりですから……少し早いかなって、驚いてしまって」


……早い。


手を繋ぐのは良くても、口は別なんだ。


私は少し考える。


ウルたち狼犬に顔を舐め回されて育った私にとって、口が触れることへの違和感はない。動物たちは挨拶にも甘えにも、何かを確かめる時にも、顔を寄せてくる。それだけじゃない。エナやダレン……村の家族とはおはようの挨拶から寝る時まで、いつもよくくっついてた。


だから、都会に出るとそこまで特別な意味になってしまうんだという感覚が、不思議。


行儀が作法として駄目なのだと思っていたけれど、どうもそれだけではないらしい。


……カイルやジェスには、迂闊にしないよう気をつけよう。


「ラファがいいというまで待ってもらってもいいんじゃない?」


「そうですね。でも……兵士ですからね、レフォード様も。素敵ですけど……市内のお店どこででも知られていて。食事処の給仕や商店の娘と、随分親しかったりするんです。誰かが前の恋人かもしれないと思うと。色々不安もあります」


さっきまで、あんなに楽しそうに笑っていたのに。


今は眉が少し下がっている。


見ていると、胸の奥がちくりとした。


「でも、ラファが恋人なんでしょう? 一番好きってことになるんじゃない?」


「今は、そうですね。そうだと嬉しいです。……兵士の皆さんは、歓楽街や娼館に出入りする人も多いし。女性に慣れているというか……あまり待たせてしまうと、飽きられたり誰かに取られてしまうって聞きますし。どこまでを許すかとか色々考えちゃいますよね」


「どこまで?」


「あ! えっと。その……」


ラファが急にしどろもどろになる。


「ラファ!」


ぴしゃり、とサフィアの声が飛んだ。


「失礼いたしました!」


慌てて背筋を伸ばすラファ。


でも私は、余計に気になってしまった。


「サフィア! 私が話を聞いてるんだから。ラファは何も悪くないよ。いいの、ラファありがとう」


「リシェリア様……。そういった下賤な話はその。お耳に入れるべきことではありません」


困り切った顔でサフィアが言う。


でも、私には違いがよくわからなかった。


「今読んでる小説の内容と、そんなに違うのかな。ああいう物語って過程は細かいけど、恋人になると終わっちゃうから困っていたんだ。恋人になったら何をして過ごしてるのかサフィア、教えてくれる?」


「ええと」


サフィアが完全に言葉に詰まる。


私は少し考えてから、素直に疑問を口にした。


「グラント様は婚約者だから、二人きりで部屋にいてもいいんだよね。“どこまで”をするのが普通なの?」


実際には、グラント様と二人きりになっても、公務かアスティの話くらいしかしていないのだけど。


勿論、ここにいる人たちは、グラント様との婚約が仮初のものだということを知ってくれている。それだけじゃない。お忍びでセランとお出かけしていることも、カイルと特別礼拝室で少しの間ふたりきりで過ごすことも、送り出してくれているから知っている。


でも、その先でどう過ごしているかとか、グラント様は実はアスティに求婚しようとしているなんて話は私からは何も言えない。


だからせめて、していいことと、してはいけないことをあらかじめ知っておきたい。


皆に迷惑をかけないために。


そして、聖女への期待を裏切らないために。


「その、リシェリア様……それは後日きちんと」


「あはは! サフィア。もういいよ」


その声と一緒に扉が開いた。


途中から聞いていたらしいアスティが、呆れたように笑っていた。湯上がりの髪を軽くまとめ、肩に布をかけたまま、気安い足取りで部屋へ入ってくる。


「別にすることは、普通の友人との生活と変わらないよ。恋人って特に親しい人につける名札みたいなもん。だから良い悪いとか正解とかなんてないの。お互いが良いなら何してもいいよ。まあ、でもラファが言ってるのは婚前交渉の話ね。これだけは……軽はずみにはするもんじゃないから。心の準備が出来ていないとか、ちょっとでも嫌だなと思ったら断りなさいよ。ラファにも言ってるんだからね」


先ほど叱られてから、気配を消すようにしていたラファにも、アスティが言う。


「は……はい。申し訳ございません。ありがとうございます」


「アスティ様。平民はそれでよいとしても令嬢としてはそもそも貞節として」


サフィアがまだ困った顔で口を挟む。


「リシェリアだって別に王侯貴族でも何でもないのよ。今、“聖女になってもらっている”だけ。本人が良ければ、別にいいでしょ。不審な輩はもってのほか。でも、まあ。あいつらなら、ろくでもないことはしないだろうし」


アスティはさらりと言って、それから私に向き直った。


少しだけ、真面目な顔になる。


「断っても押し通してくるような相手はそれこそ相応しくないよ。でも、相応しくなくなる奴はたまにいる。だからそうされないように、近くに人がいるようにしておく必要があるの。本当に気持ちが通じ合う時まではね。もし子を宿してしまえば、負担するのは女性側だけだから。……二人とも、わかった?」


……押し通す。


その言葉に、胸の奥がひやりとした。

その人だけの都合を押し付けられることは、私も嫌に思った。

確かにそういった場面になると、力関係が弱いほうは不利になってしまうかもしれない。


「お嬢様!」


サフィアが狼狽して、思わず昔の呼び方をしている。メイスン家の中でしか使っていなかった、小さい頃からの呼び名。

でも私は、その言葉の意味を考えていた。


ああ。成程。


二人きりで、密室で。

恋をした男性に来る次の段階が、それなんだ。

伴侶になりたいと思うと、そういうこともしたくなるんだ。


「そっか。子作りしたくなるんだね」


「リシェリアちゃんも!」


サフィアの叫びが響いて、アスティが声を出して笑った。


「……失礼しました。リシェリア様。あの、せめて。その単語は変えましょう」


私も、サフィアの色々変わる顔色がおかしくなって、一緒に笑った。


だって、繁殖の仕組みは自然の摂理そのもので、森や村や町で暮らしてきた中で、普通に目に入ってくること。動物たちと同じで、家族を作るための仕組みなんだから。


まだ“恋する”感覚はわからなくても、それはちゃんとわかっている。恋してもらえるってことは、その群れに受け入れられている証にも感じる。


ジェスが、セランと私をそう見たのは、私たちが寄り添っていたからだと思う。

カイルが私に恋してくれたってことは、心から受け入れてくれているということで。

それらは嬉しいこと。いいこと。

そして……少しだけ、申し訳ない。


まだ、私には恋が訪れていないから。


早く、恋を知ってみたい。

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