聖女は恋を予断する
リシェリアさんが、グラント様と婚約した。
でもそれは、世の中の誰もが憧れてやまないような、恋や幸福の形なんかじゃない。
彼女が起こした奇跡。セランさんが立てた功績。カイルさんの立ち姿を見た人々の証言。それらが、あの忌々しい――赤と黒の、馬鹿みたいな熱狂を再び呼び覚ましてしまったのだ。
国全体が沸騰した。
理屈も、信仰も、礼節も吹き飛んで、ただ噂と崇拝と欲望が渦巻いた。“赤の騎士と聖女”、“黒の官と聖女”――どちらが真実の伴侶か。そんなくだらない賭けが、市井でも貴族の間でも繰り返された。
もはや収拾がつかなかった。
だからアスティ様が手を回し、総長を通じて策が張られた。そして王命が下った。
「聖女リシェリア、レオグラント・イェルスとの婚約を発表する」――。
要するに、戒厳令みたいなものだ。
不遜も不敬も黙らせるための、もっとも優雅な鎖。
貴族も市民も、国外の多くの者も、それで黙った。
王命と聞けば、誰も逆らえない。
ただ、ほんの少数だけが知っている。
それが、虚実入り混じった方便だということを。
僕も、その一人だった。
リシェリアさんの周りは、また少し変わった。
でも、彼女の心は変わらない。
あの人の中心には、いつだって静かな水面がある。波紋は広がる。けれど、底の澄んだところは、誰にも濁せない。
セランさんは、僕より先に従士になって忙しそうだ。
それでも彼は変わらず、影のように、静かにリシェリアさんを支え続けている。近くにいなくても、あの人が気にしている方角には、いつもセランさんの気配がある。
カイルさんは――静かになった。
婚約の発表以降、表向きには、聖女の婚約者に対して必要以上の親しさも、熱のある視線も許されなくなったからだ。寝込んでいたあの時期を境に、以前より一歩引いた距離を保っている。
……表向きには、だけど。
「ジェス。グラント様と私、ちゃんと恋人に見えてるのかな。私はちゃんと出来てる?」
今日も、そんなふうに、無邪気な声でリシェリアさんが言う。
あまりに素直だから、かえって胸が痛くなる。
世の中の“普通”を、一番“普通っぽい”僕に聞くのかもしれない。
「……あの婚約は、見えてなくても大丈夫なやつなので平気ですよ。あきらか政略結婚ですからね」
答えながら、僕は心の中でため息をついた。
そもそもグラント様は、色恋と仕事を完璧に切り分ける人だ。女性問題があるとは聞くけれど、それは幕営や盛り場の中だけの話。彼の公務の姿に、くだけた色気など一切ない。
光と影のように整理された完璧さが、逆に人を遠ざける。
「そっか。簡単だけど難しいな」
リシェリアさんが、少しだけ首を傾げる。
真面目に考えているのか、ぼんやりしているのか分からない。こういうときの彼女は、こちらの想定している場所とは全然違うところを見ている。
そして、次の瞬間――。
「ねえ、ジェス。最近、そう思ったんだけど……カイルって、私に恋してるんじゃない?」
……来た。
「げほっ」
咽せた。
まさか、今このタイミングでそんな爆弾を投げてくるなんて。
慌てて息を整える。
「ご、ごめんなさい。砂煙が……」
違う。
砂煙なんかない。
ただ僕が驚いただけだ。
あのデレデレの時期――あれほど分かりやすい男もいなかったのに、今、気づいたのか。
……いや、遅れて分かったということなのだろう。僕の言葉もあるかもしれないし、サフィアさんたちの教育が届いたとか。
……それもまた、リシェリアさんらしい。
けど、カイルさん、今の段階で気づかれるのは少し可哀想だな。
でも、僕がそれを暴露していいわけじゃない。
前にセランさんのことで早合点したこともある
だからこそ、今後は慎重にしようと心に決めている。
「これは確定したことじゃないっていう前提で聞いてくださいね。……僕から見たら。まあ、そう見えなくもないです」
できるだけ客観的に。
それ以上は言わない。
「そっか!良かった。ありがとう」
素直に、喜色が混じった返事が返ってくる。
あまりにも軽い。
え?
それだけ?
「えっと……それだけです?」
思わず声が戸惑いを帯びた。
「うん。……何か必要?」
いや、そうじゃなくて。
そういうことじゃなくて。
「ええと……恋されてたら、嬉しいとか。困ったな、どうしようとか。リシェリアさんの気持ちによって色々あると思うんですが」
つい、授業みたいに訊きたくなった。
せめて、どっちが優勢かだけでも。
「……何が正解か、わからない」
リシェリアさんは、時が止まったみたいに呟いた。
「嫌いじゃないし、好かれてるのは素直に嬉しいよ? でも、別にまだ何か言われたわけじゃないから、なにも……ないし」
そして、本当に困ったように眉根を下げる。
「そもそも、私は婚約してるから、もう恋人にはならないでしょ?だから。ありがとうって返すだけで、何も変わらないんじゃないかな。シルヴィナスって、カルナーンの王様みたいに、何人も相手を作っていいの?」
恋人にすることはできないから、考えもしない。
それがあまりにリシェリアさんらしい理屈で、僕は笑うしかなかった。
草原の国カルナーンの王族。
確かにそういう話は聞く。
でも、うちの国では法的に認められる婚姻相手は一人だ。愛人や婚外恋愛そのものを禁じる法があるわけではないけれど、不貞として訴えられる可能性を気にしないでする人はいる、という程度の話になる。
過去には、王妃が子を成せず側妃を迎えた記録もあったはずだ。
まあ、現王には十代の御子がすでに二人おられるので、そんな心配はない。
「いえ。……うちの国では、結婚や婚約中の方が他に恋人を持つ事は、一般的じゃないですね」
そう前置きしてから、少し声を落とす。
「でも……その。グラント様との婚約は、そのうち終わるじゃないですか。そういうお約束だと」
聖女の任期満了まで。
僕はそう聞いている。
そうでなければ、あのセランさんが納得するはずもない。
「あ。そう、そうだった」
やっぱり、考えていなかったんだ。
目の前のことで手一杯なのだ。
そこがまた、この人のすごいところで、危ういところでもある。
リシェリアさんは、どこかの記憶を探るように上の方を見た。
光に透ける白銀の睫毛が、神々しく震える。
「でも……誰からも“恋人になりたい”なんて言われたことはないから」
なんてことないように、穏やかな笑みで続ける。
「ジェスだから言えるけど、グラント様に“婚約してほしい”っていわれて、色々と必要なんだって分かったから、そうしたようなものだし。終わりの時までに、私に恋がわからなかったら、先に言ってくれた人と、恋人になればいいかもね」
……怖い。
恋を知らない人の理屈は、怖い。
無垢なのか、残酷なのか、分からない。
いや、貴族ならそれもおかしくないんだろうな、とも思う。
リシェリアさんは根っからの貴族ではないけれど、今はそういう場所にいる。恋をしても相手は選べない。恋することを考えるのは無駄なのかもしれない。
王族や、それに準じる大貴族。アスティ様くらいの血筋になれば、結婚の日まで会うことすらないと聞く。
「……じゃあ、僕が今、予約しておいたら、僕と恋人になってくれちゃうんですか」
ほんの少し冗談めかして、夢を見てみた。
「そうしたい? してもいいよ」
あっけらかんとした笑顔。
小首を傾げて、無邪気に。
可愛らしすぎて、残酷だった。
リシェリアさんへの恋に溺れていない僕ですら、少し胸が痛くなる。
「わは、嬉しいな。……でも、ダメですよ。わかるまで、誰ともならないほうがいいですよ、きっと」
セランさん。
……少なくとも、カイルさん。
いや、リシェリアさんが恋をするなら、誰でもいい。
けれど、恋を知らないうちは――どうか誰のものにもならないでいてあげてほしい。
それが、僕のささやかな祈りだった。




