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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
14章 赤と黒の再燃
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聖女は恋を予断する

リシェリアさんが、グラント様と婚約した。


でもそれは、世の中の誰もが憧れてやまないような、恋や幸福の形なんかじゃない。


彼女が起こした奇跡。セランさんが立てた功績。カイルさんの立ち姿を見た人々の証言。それらが、あの忌々しい――赤と黒の、馬鹿みたいな熱狂を再び呼び覚ましてしまったのだ。


国全体が沸騰した。


理屈も、信仰も、礼節も吹き飛んで、ただ噂と崇拝と欲望が渦巻いた。“赤の騎士と聖女”、“黒の官と聖女”――どちらが真実の伴侶か。そんなくだらない賭けが、市井でも貴族の間でも繰り返された。


もはや収拾がつかなかった。


だからアスティ様が手を回し、総長を通じて策が張られた。そして王命が下った。


「聖女リシェリア、レオグラント・イェルスとの婚約を発表する」――。


要するに、戒厳令みたいなものだ。


不遜も不敬も黙らせるための、もっとも優雅な鎖。


貴族も市民も、国外の多くの者も、それで黙った。


王命と聞けば、誰も逆らえない。


ただ、ほんの少数だけが知っている。


それが、虚実入り混じった方便だということを。


僕も、その一人だった。


リシェリアさんの周りは、また少し変わった。


でも、彼女の心は変わらない。


あの人の中心には、いつだって静かな水面がある。波紋は広がる。けれど、底の澄んだところは、誰にも濁せない。


セランさんは、僕より先に従士になって忙しそうだ。


それでも彼は変わらず、影のように、静かにリシェリアさんを支え続けている。近くにいなくても、あの人が気にしている方角には、いつもセランさんの気配がある。


カイルさんは――静かになった。


婚約の発表以降、表向きには、聖女の婚約者に対して必要以上の親しさも、熱のある視線も許されなくなったからだ。寝込んでいたあの時期を境に、以前より一歩引いた距離を保っている。


……表向きには、だけど。


「ジェス。グラント様と私、ちゃんと恋人に見えてるのかな。私はちゃんと出来てる?」


今日も、そんなふうに、無邪気な声でリシェリアさんが言う。


あまりに素直だから、かえって胸が痛くなる。


世の中の“普通”を、一番“普通っぽい”僕に聞くのかもしれない。


「……あの婚約は、見えてなくても大丈夫なやつなので平気ですよ。あきらか政略結婚ですからね」


答えながら、僕は心の中でため息をついた。


そもそもグラント様は、色恋と仕事を完璧に切り分ける人だ。女性問題があるとは聞くけれど、それは幕営や盛り場の中だけの話。彼の公務の姿に、くだけた色気など一切ない。


光と影のように整理された完璧さが、逆に人を遠ざける。


「そっか。簡単だけど難しいな」


リシェリアさんが、少しだけ首を傾げる。


真面目に考えているのか、ぼんやりしているのか分からない。こういうときの彼女は、こちらの想定している場所とは全然違うところを見ている。


そして、次の瞬間――。


「ねえ、ジェス。最近、そう思ったんだけど……カイルって、私に恋してるんじゃない?」


……来た。


「げほっ」


咽せた。


まさか、今このタイミングでそんな爆弾を投げてくるなんて。


慌てて息を整える。


「ご、ごめんなさい。砂煙が……」


違う。


砂煙なんかない。


ただ僕が驚いただけだ。


あのデレデレの時期――あれほど分かりやすい男もいなかったのに、今、気づいたのか。


……いや、遅れて分かったということなのだろう。僕の言葉もあるかもしれないし、サフィアさんたちの教育が届いたとか。

……それもまた、リシェリアさんらしい。


けど、カイルさん、今の段階で気づかれるのは少し可哀想だな。


でも、僕がそれを暴露していいわけじゃない。

前にセランさんのことで早合点したこともある


だからこそ、今後は慎重にしようと心に決めている。


「これは確定したことじゃないっていう前提で聞いてくださいね。……僕から見たら。まあ、そう見えなくもないです」


できるだけ客観的に。


それ以上は言わない。


「そっか!良かった。ありがとう」


素直に、喜色が混じった返事が返ってくる。


あまりにも軽い。


え?


それだけ?


「えっと……それだけです?」


思わず声が戸惑いを帯びた。


「うん。……何か必要?」


いや、そうじゃなくて。


そういうことじゃなくて。


「ええと……恋されてたら、嬉しいとか。困ったな、どうしようとか。リシェリアさんの気持ちによって色々あると思うんですが」


つい、授業みたいに訊きたくなった。


せめて、どっちが優勢かだけでも。


「……何が正解か、わからない」


リシェリアさんは、時が止まったみたいに呟いた。


「嫌いじゃないし、好かれてるのは素直に嬉しいよ? でも、別にまだ何か言われたわけじゃないから、なにも……ないし」


そして、本当に困ったように眉根を下げる。


「そもそも、私は婚約してるから、もう恋人にはならないでしょ?だから。ありがとうって返すだけで、何も変わらないんじゃないかな。シルヴィナスって、カルナーンの王様みたいに、何人も相手を作っていいの?」


恋人にすることはできないから、考えもしない。


それがあまりにリシェリアさんらしい理屈で、僕は笑うしかなかった。


草原の国カルナーンの王族。


確かにそういう話は聞く。


でも、うちの国では法的に認められる婚姻相手は一人だ。愛人や婚外恋愛そのものを禁じる法があるわけではないけれど、不貞として訴えられる可能性を気にしないでする人はいる、という程度の話になる。


過去には、王妃が子を成せず側妃を迎えた記録もあったはずだ。


まあ、現王には十代の御子がすでに二人おられるので、そんな心配はない。


「いえ。……うちの国では、結婚や婚約中の方が他に恋人を持つ事は、一般的じゃないですね」


そう前置きしてから、少し声を落とす。


「でも……その。グラント様との婚約は、そのうち終わるじゃないですか。そういうお約束だと」


聖女の任期満了まで。


僕はそう聞いている。


そうでなければ、あのセランさんが納得するはずもない。


「あ。そう、そうだった」


やっぱり、考えていなかったんだ。


目の前のことで手一杯なのだ。


そこがまた、この人のすごいところで、危ういところでもある。


リシェリアさんは、どこかの記憶を探るように上の方を見た。


光に透ける白銀の睫毛が、神々しく震える。


「でも……誰からも“恋人になりたい”なんて言われたことはないから」


なんてことないように、穏やかな笑みで続ける。


「ジェスだから言えるけど、グラント様に“婚約してほしい”っていわれて、色々と必要なんだって分かったから、そうしたようなものだし。終わりの時までに、私に恋がわからなかったら、先に言ってくれた人と、恋人になればいいかもね」


……怖い。


恋を知らない人の理屈は、怖い。


無垢なのか、残酷なのか、分からない。


いや、貴族ならそれもおかしくないんだろうな、とも思う。


リシェリアさんは根っからの貴族ではないけれど、今はそういう場所にいる。恋をしても相手は選べない。恋することを考えるのは無駄なのかもしれない。


王族や、それに準じる大貴族。アスティ様くらいの血筋になれば、結婚の日まで会うことすらないと聞く。


「……じゃあ、僕が今、予約しておいたら、僕と恋人になってくれちゃうんですか」


ほんの少し冗談めかして、夢を見てみた。


「そうしたい? してもいいよ」


あっけらかんとした笑顔。


小首を傾げて、無邪気に。


可愛らしすぎて、残酷だった。


リシェリアさんへの恋に溺れていない僕ですら、少し胸が痛くなる。


「わは、嬉しいな。……でも、ダメですよ。わかるまで、誰ともならないほうがいいですよ、きっと」


セランさん。


……少なくとも、カイルさん。


いや、リシェリアさんが恋をするなら、誰でもいい。


けれど、恋を知らないうちは――どうか誰のものにもならないでいてあげてほしい。


それが、僕のささやかな祈りだった。

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