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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
14章 赤と黒の再燃
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変わるもの、変なるもの

ある日の礼拝室。


外の光は柔らかく、結界の内側には沈黙と香の気配だけが満ちていた。


ここは祈りのための場所――そういう建前の部屋。


けれど実際には、ほんの一握りの人しか知らない、密やかな空間だった。


今日も、いつもと同じ流れで始まる。


入室して、形式的な祈りの挨拶を交わして、近況を語る。口にするのは、表には出せないことばかりだった。公務での軋轢の裏話、グラント様やアスティのこと、恋の相談めいた話。世界の均衡や王政の重みから少しだけ離れた、私的で、人間らしい話題。


このひとときだけは、息ができる。


けれど――あれさえなければ。


「じゃ、今日もそろそろ……」


カイルの声が、低く、少しだけ色を帯びて響いた。


お決まりの合図。……癒しの施術の時間。


「癒しをお願いできるかな」


差し出された手を見る。


でも、その掌は力を受け取るためというより、私を包み込むために開かれているように見えた。もはや儀式の型でも、祭祀の正規手順でもない。


私は小さく息をつき、背中を預ける。


――これは治療行為。悪いことでも、してはいけないことでもない。


そう言い聞かせながら。


儀式の場や、石室で同じような姿勢を取る時。私の意識に入る時、カイルはこんなふうではない。いつも無感情で、静かで、整然としていて、まるで規律の一部みたいに冷たい。


なのに、この礼拝室では違う。


一つ一つの触れ方、吐息の温度、沈黙の間までもが、人間的すぎる。その中にある何かを、どうしても意識してしまう。


アーレンス邸で弱っていた彼なら、まだよかった。


あの時の彼は、置いていかれた子供みたいな目をしていた。可哀想で、痛々しくて、放っておいたら壊れてしまいそうだった。


でも今の彼は違う。


優しさでも、憐れみでもない。


まるで何かを奪い取ろうとするような、静かな熱を持っている。


……だから最初は、心底抵抗があった。


けれど今はもう、半ば諦めている。


引こうとすれば、引かない。拒めば、なお静かに近づいてくる。だから私が大人しくしていれば、余計な衝突は起きない。アスティが迎えに来るまでの時間が、ほんの少し短く感じられるだけで済む。


それでも、カイルは決して無体なことをするわけではない。


そこが、また厄介だった。


根は真面目で、抑制のある人だ。そう分かっているからこそ、油断していた。


ある日も、迎えに来たアスティに、彼は平然と言った。


「相変わらず、来るのが早い。遅れてくる方が作法に適うのでは?」


今日もまた、一分でも長く引き延ばそうとしている。


アスティが呆れたように言い返した。


「今、あんたによって帰宅を遅れさせられてるのよ!いいから、終われ! リシェリアをさっさと離せ」


すると――カイルは、私の髪を掬い上げた。


ふっと、匂いを嗅ぐように。


「いやだ。まだ吸っている」


……え?


何を。


その言葉の意味が理解できた瞬間、鳥肌が立った。


……吸ってる? 嗅いでる……?


私を。


信じられなかった。


今まで、神様みたいに言われたことがある。魔女だと石を投げられたこともある。今は皆さんが大切にしてくれている。


でも、そのどれにも属さない、まったく別の反応だった。


息が詰まる。


夕刻の光が赤く揺れて、空気が肌に貼りつく。今日は公務で外出があって、ずっと動いていた。軽く庭仕事もしたし、汗もかいた。


――もしかしたら、本当に臭っているのかもしれない。


そう思った瞬間、自分がただの人間であることを突きつけられた気がした。


神がかりの特別な存在という虚飾では覆えない、汗と体温と呼吸を持つ、一人の生身の体。


それは、私が願ってやまない扱いのはずだった。


きっと、嬉しいことのはず。


いや、いや、違う。


そう納得しようとしても無理だった。さすがに苦しい。明確に嫌だ。


「カイル、それはちょっと」


けれどカイルは、私の言葉も、アスティの制止もまるで聞こえていないみたいに、ぴたりとも動かなかった。


そっか。


……こういうことに、なるんだ。


サフィアが言っていたことが、少し分かった気がした。


知らない人や悪い人がいるから、気を許してはいけないのではない。いい人や、よく知っている人でも、理解できない奇妙な振る舞いを迫ってくる可能性がある。


だから密室で、二人きりになってはいけないんだ。


カイルは変だ。


恥ずかしさで頬が熱くなる。


多分、顔に出てしまっていた。


彼の腕の中で居たたまれなくなって、体をよじる。逃れようとした。


その時、アスティがすぐに気づいた。


何も言わず、足音を響かせて、私を引き離すために手を伸ばしてくれる。視線だけで、「もう十分」と伝わった。


これが――これから私を悩ませる“執着”。

癒しの儀式の皮をかぶった、カイルのわずかな狂気。


それの引き金は、私が『公爵の婚約者』になったから。


婚約者。


その言葉の重みを、私はまだよく分かっていない。


恋も、恋人のことも知らないままなのに、“婚約者”という役が増えてしまった。


意味としては簡単だと思っていた。


将来の伴侶になる相手。そう約束しました、と公に示しただけのもの。それを示すことで、色々なものが静かになる特別な役職。


だから、グラント様が公務という舞台で、その“婚約者”の演技を追加しようと誘われた時、私も加わった。


それは、いいことのように思えたから。


グラント様のことは、もう以前のように怖いとは思わなくなっていた。いっそ傍にいると、息がしやすいくらいだった。


彼と公務で向かい合う時間は、驚くほど短く、無駄がない。それでいて、カイルのような厳格さもない。


その簡潔さの中で、ふと気づいた。


――多分、私はこの人にとって不要なんだ。


私に“装置”以上の役割は求めていない。期待もされていない。私がどう振る舞っても、グラント様はその場でいくらでも形を整えられてしまうから。


彼は威光そのもののような人だ。


堂々と歩くだけで、場が整ってしまう。


その隣に立てば、私はまるで影みたいだった。光に溶けて、誰の目にも強くは映らない。誰かに見られている意識も、失敗への恐れも薄れていく。


疲れるとすれば、その眩しさに照らされることくらい。


――だから、楽。


それが安心でもあった。


私がグラント様と婚約してから、周りは少しずつざわめき、距離の取り方も変わった。


でもセランは、変わらなかった。


……そう思っていた。


けれど、ううん。


そんなことはない。


セランはまた忙しくなった。


以前よりずっと、遠くへ出ていくようになった。任務の話を聞くたび、風や火や血の匂いが混じった報告書が頭に浮かぶ。


庭でも、顔を合わせることが減った。


花の植え替えをしている時に、風のようにすれ違って、挨拶を交わす暇もなく通り過ぎていくことがある。


だけど、お休みを合わせられることは増えた。


王都を離れて、誰にも見つからないように。


二人で過ごす休日が、もらえるようになった。


庭の中ではなく、外で。


トルニカの頃の“私とセラン”に戻れる。


それは嬉しかった。


じわりと、胸の奥が懐かしさで満たされる。同じ空の下で、ただ隣に座って笑い合うだけで、誰にも特別にされないあの頃へ戻れた気がした。


でも、休みが終わると、決まって少しだけ寂しい。


別れ際に笑っても、心のどこかで、次の再会を数えている。


――カイルは、少し変わった。


そう思う。


私とカイルの間には、いつだって波があった。安定していた時期なんて、ほとんどなかった。


けれど、ううん。違う。


本当は“少し”なんかじゃない。


彼は――すごく変わった。


あんなに冷静で、いつも私の“上”にいた人だったのに。


先生のようで、上司のようで、先輩のようで。どんな時も、少し高いところから私を見ていた。


今では、ときどき弟のように見える。


迷子みたいで、駄々をこねる子供みたいで。


毎日、通常公務ではずっと一緒にいる。それなのに、彼の瞳の奥はいつも、“寂しい”と泣いているように揺らぐ。


そして最近、頭を悩まされているのが、私の新しい勤めだった。


グラント様との重要公務を終えるたび、特別礼拝室でカイルの“癒し”を行うようにと、グラント様から言い渡された。


……最初は、病み上がりのカイルへの体調管理だと思っていた。


けれど、それはだんだん違うものだと分かってきた。


カイルが通常職務に戻って、祭祀庁の職員の皆さんの日々の仕事も元通り滞りなく進むようになった。ううん、むしろ効率は良くなったくらいだと思う。


なのに――なぜか。


私だけは手間が増えた気がする。


特別礼拝室でのカイルの振る舞いを思い出すと、少し心がくたびれる。


……考えるのはやめよう。


けれど、ふと疑問が浮かぶ。


――“嘘”の婚約だからって。


誰も知らない舞台裏のこととはいえ、他の異性と密室になるこの部屋は、本当に正しいのかな。


家族としてずっと過ごしていたセランとだって、城内で密室で過ごすことは今は許されない。


なのに、全くの他人と、二人きりで、こんな静かな空間にいる。


カイルと過ごさなければいけないと決まった時間。


グラント様の采配は、ほとんどすべて理に適っていた。けれどこの件だけは、そこに私の意思がない気がして、釈然としなかった。


カイルは表では、どんな時でも私の意思や希望を聞いてくれる。なのに、その時間だけは傍若無人だった。


わがままで、甘ったれで、まるで別人。人形みたいに私を抱きしめて、離れない。


それが“カイルに必要な治癒”なのだと言う。


でも本当は――あれが、カイルの本来の素なのかもしれないと思う。


面倒だなと思うようになってきた。


何を考えているのか分からなくて、どうしていいか迷う時もある。


けれど、そうじゃない時ももちろんある。


私にいなかった“同世代の友達”みたいで、下らないことを一緒に笑える時がある。隣にいると、少しだけ心が軽くなる時がある。


この気持ちに、名前はまだ見つからない。


ただ、胸の奥に温かい波のように広がるものがある。


それが愛なのか、友情なのか、あるいは別の何かなのか――まだ分からない。


でも、確かに何かが変わり始めている。


私のまわりで。そして、私の中でも。

カイルの奇行はいわゆる猫吸いをご想像ください。

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