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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
14章 赤と黒の再燃
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カイルの再起と甘い夢

一度、城を離れたことは、ある意味では正しかったのだと思う。


恋だけではない。嫉妬、劣等感、焦燥、自己嫌悪。そういったものが一度に押し寄せて、思考は同じ場所をぐるぐると回り続けた。考えたくないのに考えてしまう。目を閉じても、リシェリアがグラントの隣に立つ姿が浮かび、セランが彼女の過去と当然のように繋がっている事実が胸を抉った。脳の疲労は熱を呼び、その熱に焼かれるように寝つくしかなかった。


苦しくて、何も手につかなかった。何も考えたくなかった。それでも、気になるのは彼女のことばかりだった。自分には何が足りなかったのか。何を間違えたのか。そもそも、最初から勝ち目などなかったのではないか。そんな無意味な問いが、何度も頭の中で崩れては積み上がった。


数日経って、アスティが見舞いに来る前には、もう分かっていた。


グラントに飴をちらつかされなくても、結論はそれしかなかった。


俺は変われない。


進歩することはできる。改善もできる。知識を増やし、振る舞いを選び、誤りを正すことはできる。だが、根本的なところは変わらない。


グラントのように、すべてをねじ伏せる強さを得ることはできない。セランより先にリシェリアと出会うこともできない。彼女の過去に入り込むことも、彼女が生き延びるために必要だった時間を奪い返すこともできない。


ならば、配られた手札で最大効率を目指すしかない。


そして、その戦い方なら俺の得意分野だ。


そう思えるようになった時、開き直れた。実際には、リシェリアに甘えて癒してもらったことで、グラントに対抗することそのものが一度どうでもよくなっただけでもある。彼女の手が触れ、力が流れ込み、弱った身体の奥から熱が引いていく感覚は、あまりに甘かった。


それだけで、まだ動けると思った。


出仕して現場に戻ると、この可哀想にやつれた失恋男に対して、世界は少し変わっていた。


大半は、心の緩い、少しだけ優しい人々の変化だった。哀れみ、同情、余計な励まし。どれも無駄だと思っていたが、業務の滑りは以前より良くなっていた。話しかける前の警戒が薄れ、必要な資料が早く回り、こちらの指摘に対する反発もやや減った。


社会の中では、社交もそれなりの潤滑を生むらしい。


なるほど、とは思った。


厄介だったのは、甘言を弄し、他国への“招致”を持ちかけてくる者たちだった。


招致などと綺麗な言葉を使っているが、要するに誘拐だ。


あの手この手で救いを装い、甘美な言葉で国を出るよう誘う。待遇、自由、保護、研究環境、信仰の尊重。並べられる言葉だけを見れば、どれも善意に見えなくもない。


だが、善意で聖女を国外へ連れ出そうとする者などいない。


最初に狙われたのは、セランだったようだ。


当然だろう。


聖女に最も近く、感情に訴えれば動きそうに見える男だ。彼女の幸福のため、彼女を守るため、彼女をこの国から逃がすため。そんな言葉を並べれば、あの男なら噛みつくとでも思われたのだろう。


だが、セランは対外的に一切反応を見せなかった。


無視したのか、気づかなかったのか、気づいたうえで握り潰したのかは知らない。あの男の場合、どれもあり得る。結果として、外部の者たちは別の標的を探すしかなくなった。


そして、次に狙いを定めたのが俺だった。


俺なら理屈が通じる。俺なら情を利用できる。敗北感と失意に付け込めば、揺らせる。


そう考えたのだろう。


浅い。


だが、こちらとしては都合がよかった。


危うい誘いは、俺のもとへ集中した。


陳情書に見せかけた書簡。国外の名士を名乗る貴人からの面会申請。祭祀庁の記録に紛れ込まされた改竄資料。聖女の保護を名目にした、実態のない財団からの寄付提案。


雑なものもあれば、かなり巧妙なものもあった。


俺はそれらのいくつかに、あえて乗るそぶりを見せた。


情報を引き出すためだ。


相手が欲しがる言葉を与え、警戒を少しずつ緩めさせる。こちらが揺れているように見せ、聖女の現状に不満を抱いているように匂わせる。そうして差し出された手の先を辿り、糸を手繰る。


芋づるを引くのは、嫌いではない。


手間はかかる。だが、構造が見える。背後にいる商会、仲介人、資金の流れ、他国の使節に近い影、王国内の協力者。ひとつずつ繋げていけば、最終的には切るべき場所が分かる。


そうして、いくつかの組織はまとめて裁かれた。


……これこそが、グラントが求める“動き”なのだろうと、今なら分かる。


彼が表で盾になる代わりに、俺がやるべきこと。実行は兵がする。権限を持つ者が処分する。俺は、その道筋を定める。


聖女の傍らにいる、敗残者の男。


同情を誘い、情を残し、なお聖女へ手を伸ばせる立場に見える者。


それは囮として最上の利用価値がある。


そして、それが今の俺にできる、リシェリアを守る最適な方法だった。


けれど、いくつかの誘いには、本当に心が揺れることもあった。


“聖女と共に、別の地で生きよう”。


そんな甘い逃避行の提案。


手を取り合い、何もかもを捨てて遠くへ逃げる幻想。


誰も彼女を聖女と呼ばない場所。誰も彼女に祈りを求めない土地。朝起きて、庭を歩き、好きな本を読み、気まぐれに草花を育て、穏やかに眠るだけの暮らし。


ほんの少し。


たった一瞬だけ、その光景を思い描いた。


だが、すぐに頭を振った。


それは、誰も笑う未来ではない。


リシェリアは喜ばない。俺も、アーレンス領を捨ててしまえば、領民を苦しめる。俺が逃げるということは、俺に紐づく責任を誰かへ押しつけるということだ。


そもそも、彼女のほうは逃げたいのではない。


奪われたくないだけだ。


役目も、力も、この国も、出会った人々も、すべてを捨てて自由になることを望んだわけではない。彼女はきっと、ここに立ったまま、息ができる場所を欲しがっている。


ならば、彼女が喜ぶ別の形にして返せばいい。


甘い逃避行の幻想を、現実の癒しや喜びに置き換える。


この国の中で。


俺の力で。


彼女が聖女でありながら、リシェリアとして安らげる場所を増やす。


俺は筆を取り、いくつかの案を記し始めた。


街の孤児院の改修案。聖女の裏庭横に小さな温室を新設する案。聖女の負担を減らす生活様式の改良。地方礼拝所への巡回負担を軽減する代理奉納の制度。彼女が人目を避けて休める場所や書庫の整備。


どれも、逃避行の代わりだった。


聖女がこの国で安らげる居場所を増やすための手札。


窓の外で、夕陽が沈んでいく。


ペン先を止め、俺はふっと息を吐いた。


グラントに感謝などしたくはない。


だが、あの男の策が、俺の視野を広げたのは確かだった。


以前の俺なら、彼女を守ることを、彼女のそばにいることと同義に考えていたかもしれない。


今は違う。


そばにいられない時間でも、守ることはできる。触れられない場所からでも、彼女の息を楽にすることはできる。敵を潰すだけではない。彼女が笑える場所を増やすこともまた、防衛だ。


そして今、ひとつだけ確信している。


この手で守るためなら、どんな盤上でも構わない。


駒であろうと、囮であろうと、使われること自体は問題ではない。最終的に彼女へ害が届かないなら、それでいい。必要なら、盤を割る側に回ることも厭わない。


静かな炎が、胸の奥で再び燃える。

今は、燃料は、与えられている。


外はすでに夕闇が濃く、濃紺のヴェールが世界を静かに包み込む時刻だった。


窓の向こうには、石畳に灯された灯火が揺れている。その光が誰の影を照らすのかを知るより早く、石造りの回廊の奥から、微かな足音が聞こえてきた。


それが彼女のものだと、耳で聞くより先に心が知っていた。


今日のグラントとリシェリアの公務が、ようやく終わったのだ。


表向き、王都の政務において聖女が帯同する機会は増えた。重職にある者たちの注視も集まるようになり、そこにグラント・イェルス公爵が常に同行するようになってからというもの、守るべき要人の数は単純に増え、比例して会場の警備範囲も広がり、導線も複雑になった。


手配の規模、事前の調整、当日の指示系統。


すべてにおいて、疲労が積もる。


自分が中心であれば、処理できるはずの数々だった。


それが、別の男が主のように振る舞うことで、俺の役割は薄れ、立場は傍観者へと変わる。結果、客観となった目線は、かえって見えないものを増やしていった。


やはり婚約してほしくなかった。


……これは我ながらあまりに率直で、あまりに無様だな。


だから、心の中で誰に言うでもなく訂正する。


……俺と婚約すればよかったんだ。


時間があると錯覚していた。焦らずとも手が届くと思っていた。だが、それは油断だった。彼女の指先が他人の手に触れる未来が来るなど、考えたこともなかった。


けれど、それでも。


今は、俺だけに与えられる報酬が、確かにある。


公務のたびに、疲労回復という名目で聖女が俺に授けてくれる、癒しの時間。形式はただの施術だ。

だが、そこには確かに二人きりの余白が存在する。


侍従も付き従わず、他言をはばかるような秘密の小部屋。聖女の心と身体の調律と称した、淡い蜜のようなひととき。


その時間のために、公務を越えた。


正直なところ、今日の現場は限界に近かった。書状も視察も発言の補足も、すべて目を通し、調整に調整を重ねていた。本来、祭祀官の範疇ではないものも多かった。


だが、すべてはこのあとの時間のために。


セランも、庭でこういう気持ちだったのだろうか。


リシェリアを待ち、会える数刻のために身を投げ出すような感覚。


……こんなにも甘美なものだったのか。


ずるい。


だが、あの庭には肉体労働がある。気遣うべき草と花と天候があり、土があり、虫があり、雑多な手入れがある。そして何より、他人の視線がある。


ここは違う。


この小部屋にあるのは、俺と彼女のためだけの時間だ。


無音と灯りと香。


それだけで構成される密室。


……だから、許してやる。


あの庭でセランが得ているものと、ここで俺が得るものは別だ。


庭と違って、ここは“上の空間”だから。


まずは公務を終えたリシェリアを慰労し、甘いものを与え、お茶を飲ませる。彼女の好みに合うよう、茶葉の選定にも余念はない。喉に残る渋みが少なく、香りが柔らかく、疲労の後でも飲みやすいものを選んである。


その後、今日の立ち居振る舞いについて穏やかに振り返る。


次はこう立った方がいい。こう微笑んだ方がいい。視線を下げすぎると不安に見える。指先はもう少し緩めた方がいい。


指導と称して、手を添えて見せる。


グラントが触れたであろう箇所を、上書きするみたいに、自分の手で丁寧に触れ直していく。


手袋では意味がない。


上書きするには、素手でなければならない。


そして、残りの時間いっぱい――“施術に適した姿勢”と称して、彼女を後ろから腕に抱き、聖痕に頬を寄せ、温もりを知る。


彼女が嫌がる素振りをしていないか、全神経を走らせる。


それでも毎回、ほんの少しだけ、前回よりも近くに触れることを試みる。


癒しという大義名分は、どこまでも距離を曖昧にしてくれる。


――もうすぐ、彼女が来る。


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