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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
14章 赤と黒の再燃
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ひと時の休息とセランの現実

怪我をして、療養という名目でしばらくリシェのそばにいられた。


その時間で、もう充分に充電できたと思う。あの柔らかな声も、指先の温もりも、何気なくこちらを覗き込む瞳も、心の底まで染み込んで、ようやく呼吸が落ち着いた。ずっと張りつめていたものが、少しずつほどけていくのが分かった。


……だから、次の段階に行くべきだと感じていた。


癒しに甘えるだけでは、いずれ心が鈍る。守りたいと思うなら、また動かないといけない。休んでいる間に満たされたものを、ただ抱えて眠るだけでは足りない。俺は、リシェの隣に立つために、また前へ進まなきゃならない。


グラント様がリシェと婚約すると聞いたとき、胸の奥に張りつめていた警戒が、音を立ててほどけた。


「よかった」と、素直に思った。


リシェが偽の婚約者を表向きに持つことで、俺の中にあった不安が少し消えた。リシェにたかる有象無象の新たな蠅の発生が抑えられる。それに、カイルに出し抜かれる心配も、ひとまず減ったからだ。


グラント様からは、リシェに引き寄せられてしまう雄の匂いがしない。


満たされない欲望も、恋慕もない。近づきすぎず、離れすぎもしない、計算された距離感。己の領域をきちんと保った男の匂いだ。


ああいう人は、何も奪わない。


すでにすべてを持っているから。


だから、アスティと一緒にいるときと同じような安心感がある。任せても大丈夫だと、そう思えた。


“赤の騎士”だとか、“聖女の番犬”だとか、そんなふうに呼ばれるようになっても、実際のところ、俺はまだ一兵卒でしかない。目立つ髪の色と、先に歩き出した名ばかりが人の耳に残っているだけで、中身はまるで追いついていない。


リシェの隣に立つための手札なんて、幼馴染という立場しかない。


貴族でもなく、学者でもない。頭が切れるわけでも、家を持っているわけでもない。そばにいられる時間すら、もう少しずつ奪われはじめている。


圧倒的に不利だ。


だったら、狩り方を変えるしかない。


リシェとの休日をもらっても、必要以上に意識させるようなことはしない。彼女の頬を赤らめるような真似も、唇に近づくことも、今は違う。


たとえ今、何か進展できたとしても――俺もリシェも、何も変わらない。変えられない。


どうせ長く一緒にはいられない。絆を深めたところで、それは俺を焦がす時間を増やすだけだ。触れた分、離れるときに痛む。今それに溺れるのは、ただの愚か者だ。


療養の日々は、あくまで“褒美”だった。


夢のような時間。


現実に戻るための、最後の甘やかし。


俺は一兵卒で、彼女は聖女。その立場を考えれば、誰も俺たちを許しはしない。盤面は悪い。下手に動けば崩れる。


――だから、決めた。


リシェに会うときは、リシェが“普通の女の子”でいられる時間にする。


聖女でも、王の客でもない。ただのリシェリアとして、笑っていられる時間を作る。


町をぶらついて、川辺でぼんやりして、山を歩く。草の上でごろ寝して、くだらない話をする。天幕を張ってピクニックをして、釣り糸を垂らす。そういう何でもない日を、ただ一緒に過ごす。


心と体を休めて、力を抜いて、笑ってくれたらそれでいい。


カイルと違って、俺は何も起こさない。


いや、起こせない。


だからこそ、誰からも咎められない。二人きりでいても、誰も怪しまない。それが、今の俺に与えられた数少ない特権だった。


春は、緑が一番生きている季節だ。城の庭も、外の自然も、すべてが漲っている。陽射しは柔らかく、風はまだ甘い。一年の中で、一番穏やかに息ができる時期だった。


そんな中で、俺に与えられた――いや、許された“休日”は、静かな時間を共に過ごすという許しだった。


日が上がる頃、西門で待ち合わせる。


装飾も、聖女の威厳もない。簡素な平民の服を着たリシェがやって来る。髪を隠し、目立つものをそぎ落とした姿は、聖女というより、どこにでもいる町娘に近かった。


けれど、それがむしろ似合っていると思う。


その日の予定は、前もって決めないことにした。


「町で市場を眺めたい」「新しい刺繍糸が欲しい」


そんなふうにリシェが言えば、髪を隠させて町へ連れて行く。広場で飯を食ったり、屋台を覗いたり、店先の布や小物を眺めて、何でもないことで足を止める。


「新しい草を探したい」「川でただ水を眺めたい」


そんな希望なら、軽食を用意してから徒歩で城壁の外を回る。薬草になりそうな草を探したり、川べりに腰を下ろして、流れていく水をただ眺めたりする。


「今日は……のんびり森の空気を吸いたい」


今朝はリシェがそう言ったから、たまに一人で足を延ばす近くの低山の麓まで連れて来ていた。


木々のざわめき、湿った土の匂い。風が通るたび、草の穂が光を散らす。匂いと気配を確かめ、危険がないと判断してから野営の準備をした。


火を起こし、焚き火をリシェに任せて、俺は森へ入る。


鳥や小動物の痕跡をたどり、弓を引く。昼餉にはちょうどいい肉を得て、水場で血抜きと冷却を済ませた。早朝の水は冷たく、肌を刺す。その冷気が、頭の奥まで澄ませていくようだった。


戻る頃には、空気が少し温んでいた。


「んむ、……早かったね」


小さな布を敷いて、リシェは茶を淹れていた。摘んできた木の実や持参した軽食を並べ、先に少し食べていたらしい。


桑の実で指先を染めて、朝露が珠のように光る果実を、嬉しそうに掌にのせている。


「はい、セランも」


差し出されたそれを、分けてもらう。


甘酸っぱくて、ほんの少し冷たい。果汁の冷たさより、触れた指先の温度の方が、妙に唇に残った。


「服汚すなよ。サフィアに怒られんぞ」


「言われなくても」


むくれた声に、思わず笑みが漏れる。こういう表情は、あの頃から少しも変わらない。聖女になっても、綺麗な服を着せられても、ふとした拍子に出る顔は、昔のままだった。


それから二人で、あてもなく森を歩いた。


木々を眺め、川に足を浸す。水音が響き、鳥が枝を渡り、魚の影が光をくぐる。リシェはしゃがみこんで、水面を覗き込んだ。その横顔は穏やかで、少し幼い。

こんなに緩やかな時間は久しぶりだった。


夏になったら――もう少し暑い日に来たら、今度は水浴びをさせてやるのもいいかもしれない。


そんな呑気な未来を考えられる日が、来たのだと思った。

腹が落ち着いたころ、俺は草の上に寝転んだ。


「ちっと寝るわ」


あくびが出る。


リシェが小さく笑ったのが聞こえた。


昼の草原は安全だ。大きな獣は皆、昼寝をしている時間だし、地面の震えを感じれば危険も察せられる。虫に刺されるくらいは構わない。


「わたしも寝ようっと」


すぐに、リシェの体温が寄り添ってきた。


小動物みたいに、いつまでもごそごそと巣を作って懐に潜り込んでくる。少し邪魔だと思ったのに、体がもう眠りへ落ちかけていて、目を開けていられなかった。


――眠った。


いくばくかの時間が過ぎて、足りたと思った瞬間に目を覚ました。

腕の中のリシェは、ぴったりと隙間なくくっついて、まだ寝ている。その体温が心地よくて、思ったより深く眠ってしまったらしい。

もう起きてもいい頃合いだが、リシェはまだ起きそうにない。

無防備な寝顔が、すぐ近くにあった。


もう少し寝かせてやるか。


その間、ちょっとだけ観察する。


そのくらいはいいだろう。


今日のリシェには、悪夢を見たような気配も、疲労の蓄積もない。肌には潤いがあって、艶もあり、健康そうだ。それだけで、胸の奥が満たされた。

腕の中の体温が、じわりと伝わってくる。柔らかな肌と衣の間にこもった湿度。微かな汗と草の匂いが混じって、胸の奥が落ち着いていく。呼吸の音は静かで、耳の奥に心地いい。


頬の端、耳の前あたりに紫の痕があった。桑の実の汁が少しついている。


こいつ。


頬を摘まみ上げて、声をかける。


「おい。汁ついてるじゃねえか。顔が甘くなっちまうぞ」


リシェがくすぐったそうに身をよじる。

薄く笑みを浮かべ、まどろみの中で目を開けた。


「そんなことで起こさないでよ。セランの服で拭こうっと」


そのまま振り返って、リシェが俺の服に思い切り顔をこすりつけた。


「やめろばか」


口ではそう言いながら、笑ってしまう。

暴虐の限りを尽くすリシェに呆れつつ、押し込んできた顔を捕まえるように抱きしめた。

そしてそのまま、腕の力を緩めずに、彼女の頭頂部へ顔を寄せる。

嗅ぎなれた、リシェの匂いがした。懐かしくて、安心する匂い。

この匂いを嗅ぐと、世界のすべてが一度静止する気がする。焦りも、苛立ちも、不安も、少しだけ遠くなる。


ああ、この光景をカイルが見たら、卒倒するだろうな。


そう思うと、どうしようもなく優越感がこみ上げた。

その仕草で何か思い出したのか、リシェが少し嫌そうに眉を寄せて、唐突に問いかけてきた。


「私って……匂う?」


「んん?」


聞かれたのなら、確かめるしかない。


鼻先を耳の後ろへ寄せ、うなじから肩口にかけて匂いを確かめる。リシェの肩が、くすぐったそうに小さく揺れた。


「ちょっと、くすぐったいよ! 鼻が冷たい!」


「聞いたのはそっちだろが」


そう言って、不満げに鼻をもう一度押し付ける。


指を髪に差し入れ、柔らかな銀糸を掻き混ぜる。くしゃくしゃに乱れる音がして、リシェが小さく抗議する気配がした。


ふと、その髪の奥に、かすかに別の匂いを感じ取る。

冷たい書庫の紙と、香木の香り。


あの男、カイルの匂い。


喉の奥がざらりとする。

カイルのせいか。

そう思ったが、胸の奥へ押し込んで、何も言わない。


「いーや、別に。何も変わらない」


低めの体温。微かな汗。草原の花の香りが混ざる、清い匂い。

それが、リシェの匂い。


「何を気にしてるんだ? 体調が悪いのか」


それにしたって、熱の気配も、月のものの血の匂いもない。俺にとっては、どれも好きな匂いでしかない。

そう思った瞬間、少しだけ理性が揺れた。

腕の中のリシェは無防備で、危うい。そもそもこうして抱えていること自体が、もうほとんど危険な水域ではある。


……だめだ。良くない。


俺は、リシェを心から愛している。


だから、一時の衝動に任せたりしたくないと決めただろ。それに、どうせなら一番いい時に味わいたい。


「ううん。なら、いいけど……」


歯切れ悪くつぶやいた声に、かすかな緊張の匂いが混ざった。

嫌な記憶でも思い出したのかもしれない。けれど、それを追及して思い出させれば、もっと気分が悪くなるだけだ。


「変なやつ」


軽く笑って、そう言って終わらせる。


……そんなことより、せっかくだ。


今のうちに、この空気をたっぷり覚えておこう。

次に会う日まで、忘れたくなかった。


そう思って、鼻をもう一度首筋に押し当てる。

ついでに、こっちも少しくらい俺の気配を残しておきたい。

そのまま額を髪へ押し当てた。柔らかな髪の間に、自分の体温を残すように。


不安がられる男と、こうして安心して寄り添える男。どちらが信じられているかなんて、考えるまでもない。


「お帰り。時間通りね」


今日も、きちんと閉門の約束の時間に合わせてリシェを送り届けた。

また次の休みのために、潔く、未練たらしく引き留めない。


「戻った。後はよろしく」


「迎えありがとう、アスティ。じゃあ、また明日、庭でねセラン」


「おう」


別れも簡潔でいい。

いつでも確かに近いところにいる、それで十分だ。

次の任務までの短い休暇。


そのたびに、リシェの匂いを胸いっぱいに吸って、記憶に刻む。

それだけで、また戦場に戻れる。


次に会うときまで――俺の中で、この香りが消えませんように。


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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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