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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
14章 赤と黒の再燃
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尻尾を巻かない赤毛の負け犬

聖女の婚姻が正式に発表されてから、しばらく。


一般兵の間でも、その話題はまだ尾を引いていた。


もう一人の敗北者、セラン。


彼についても、やはり様々な視線と興味が突き刺さっていた。


黒衣の祭祀官ほどあからさまではない。けれどセランもまた、聖女に恋する男として城内では有名だった。


顔を崩すことは少なくとも、誰より近い距離を保ち、警戒の視線を絶やさない。リシェリアへ伸びる手があれば、鉄拳をもって制することすら辞さない男。


そんな彼が、婚約発表後も特に取り乱した風もなく、飄々としている。


だからこそ、その落ち着きと平静は、人の想像を掻き立てた。


誰もが語りたがり、誰も真実を知らなかった。


「昇進と引き換えに、恋心を捨てたに違いない」


「逆だろ。守るために一番いい相手に、譲ったんだろ」


「最初から、成り上がるための演技だったんじゃないか」


そうした口さがない言葉が、あちこちで囁かれた。


そして結局、皆、同じ結論に至る。


あの男も負けたのだと。


経緯はどうあれ、偉大な人物の前に膝を折り、屈服したのだと。


けれど不思議なことに、誰も本気で彼を貶めようとはしなかった。


それは、セランの生来の性格ゆえだった。


がさつで気性も荒い。言葉も粗い。けれど良くも悪くもまっすぐで、正面からしかものを言えない。兵士の中に紛れれば、埋もれてしまってもおかしくないほど、ありきたりで素朴な人間性。


せいぜい目印になるのは、赤い髪くらいだ。


そんな彼を特別にしていたのが、聖女に近いという縁だった。


それすら取り払われた今、彼はただの平民上がりの一兵卒でもある。


回廊や訓練場、行軍の合間。

誰かに肩を組まれては、囃し立てられ、雑にいじられていた。


「最初から、色気も何もない馴染みってだけだったんだろ」


「あっちが妹なんて言ってたが、おまえが弟だろ」


「あの総長と決闘して、正々堂々と負けたんだ。よくやってた」


「彼女のために身を引いたんだよな。潔く」


そんな都合のいい、伝説めいた言葉さえ生まれていった。


特に未練がましい姿を見せなかったセランは、いつしか“負けた男”でありながら、“潔い男”として扱われるようになっていた。


ただし、変わった点が一つある。


ラトリエで聖女を身を挺して庇い、事態の打開に一役買った功績を認められたこと。


その結果、通常の段階を飛ばして、従士へ昇格した。


平民出身としては、明らかな出世だ。


従士とは、高位の人物に仕え、将来得るべき地位のために学ぶ段階でもある。誰に仕えるか、誰がそれを許すかには、当然政治的な意味合いも生じる。


まして今のセランは、ただの兵士ではない。


王都で最も注目を集めている兵士。

あの嵐の日の奇跡の立役者。

“赤の騎士”とまで称され始めた男。


名声というのは厄介なものだ。


本人が望まなくとも、名は勝手に歩き出す。


各隊が欲しがった。

それぞれが自分の手駒にしたがった。

そして、誰も譲らなかった。


だから最終的に、グラントが線を引いた。


「各官が任務ごとに従士として使えばよい。勧誘も自由にせよ」


軍幹部たちも、それならばと納得した。


いかにもグラントらしい采配だった。


角を立てず、誰の手も縛らず、それでいて全員を自分の掌の上に乗せる。


結局、セランの従士としての所属は――団持ち。


つまり、どこの部隊にも正式には属さない立場となった。


任務ごとに、その都度の最高指揮官付きとなる。


柔らかく言えば、融通の利く戦力。


本音を言えば、引き取り合戦の末に収まりきらなかった特例だ。


もちろん、最初は私が引き取るつもりだった。


近習として抱え、目の届くところで使う。


それが一番安心で、現実的だった。


「今ならまだ間に合う。私か、メイスン家の誰かの騎士の従士になる方がいい」


それでも気がかりで、最後に本人へ確認した。


王城の訓練場の脇。

風がよく通る、人気の少ない時間帯だった。


セラン本人と受け入れ先の合意さえ取れれば、まだねじ込める。


けれどセランは、拍子抜けするほどあっさり答えた。


「別に構わねえよ。そんなのしたら結局、リシェのおこぼれだとか依怙贔屓だとか言われるだろ。お前の立場も悪くなる」


……そんなことを言われたら、もう強引には引き止められない。


私が軍内部で、ただでさえ王族の御遊びだと陰口を叩かれていることを、どうやら彼なりに理解しているらしい。


「まあ、色んなとこ回されるのも経験になるから構わない。途中で誰かに仕えても、どうせ最後はリシェの下にいくことは変わらないんだし」


迷いも、気負いもなかった。


その目の奥にあるのは、揺るぎない確信だけだ。


確かに、経験を積むという意味では理に適っている。


誰の下にも固定されず、様々な指揮系統を知ること。

それは将来、彼が本当にリシェリアの騎士として立つ時、糧になる。


でも、だ。


「だけど、城外任務が増えるわよ」


思わず、そう口にしていた。


私の下なら、王城勤務が中心になる。

護衛や近習として常に城に詰めていれば、リシェリアの近くにもいられる。


それが、彼にとって一番幸福な環境だと思っていた。


「ま。承知の上だ。グラント様がリシェの盾になってくれてるからな。俺の方が、今はちっと離れてることになっても、急ぎたい」


そう言って、セランはまっすぐにこちらを見た。


何かを固めたような眼差しだった。


この男はもう決めている。

誰が何を言っても動かない。


“急ぎたい”。


その言葉に込められた意味を、私は知っている。


リシェリアの隣へ、自分の足で辿り着くため。


……本当に、まっすぐな男だ。


それゆえに、危うい。


だが、リシェリアが笑う時、その傍に立つ資格を持つのは、きっとこういう人間なのだろう。


私はため息をつき、肩を竦めた。


「わかった。そのかわりまめに報告は私に入れて。怪我とか倒れたなんて後から聞かされたら、さすがにリシェリアが怒るわよ」


「了解」


あっさりと頷く顔は、清々しいほどだった。


「庭はどうすんの」


「兵舎が変わるわけじゃねえ。遠征に出るわけじゃなきゃ今まで通り、なんとかなる。……数日出るときゃ事前にそっちでもわかるだろ。そんときは臨時で誰か入れてくれ」


……本当に、見込みがあるのか。


それとも、ただの馬鹿なのか。


去っていく背を見送りながら、私は少しだけ笑ってしまった。


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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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