尻尾を巻かない赤毛の負け犬
聖女の婚姻が正式に発表されてから、しばらく。
一般兵の間でも、その話題はまだ尾を引いていた。
もう一人の敗北者、セラン。
彼についても、やはり様々な視線と興味が突き刺さっていた。
黒衣の祭祀官ほどあからさまではない。けれどセランもまた、聖女に恋する男として城内では有名だった。
顔を崩すことは少なくとも、誰より近い距離を保ち、警戒の視線を絶やさない。リシェリアへ伸びる手があれば、鉄拳をもって制することすら辞さない男。
そんな彼が、婚約発表後も特に取り乱した風もなく、飄々としている。
だからこそ、その落ち着きと平静は、人の想像を掻き立てた。
誰もが語りたがり、誰も真実を知らなかった。
「昇進と引き換えに、恋心を捨てたに違いない」
「逆だろ。守るために一番いい相手に、譲ったんだろ」
「最初から、成り上がるための演技だったんじゃないか」
そうした口さがない言葉が、あちこちで囁かれた。
そして結局、皆、同じ結論に至る。
あの男も負けたのだと。
経緯はどうあれ、偉大な人物の前に膝を折り、屈服したのだと。
けれど不思議なことに、誰も本気で彼を貶めようとはしなかった。
それは、セランの生来の性格ゆえだった。
がさつで気性も荒い。言葉も粗い。けれど良くも悪くもまっすぐで、正面からしかものを言えない。兵士の中に紛れれば、埋もれてしまってもおかしくないほど、ありきたりで素朴な人間性。
せいぜい目印になるのは、赤い髪くらいだ。
そんな彼を特別にしていたのが、聖女に近いという縁だった。
それすら取り払われた今、彼はただの平民上がりの一兵卒でもある。
回廊や訓練場、行軍の合間。
誰かに肩を組まれては、囃し立てられ、雑にいじられていた。
「最初から、色気も何もない馴染みってだけだったんだろ」
「あっちが妹なんて言ってたが、おまえが弟だろ」
「あの総長と決闘して、正々堂々と負けたんだ。よくやってた」
「彼女のために身を引いたんだよな。潔く」
そんな都合のいい、伝説めいた言葉さえ生まれていった。
特に未練がましい姿を見せなかったセランは、いつしか“負けた男”でありながら、“潔い男”として扱われるようになっていた。
ただし、変わった点が一つある。
ラトリエで聖女を身を挺して庇い、事態の打開に一役買った功績を認められたこと。
その結果、通常の段階を飛ばして、従士へ昇格した。
平民出身としては、明らかな出世だ。
従士とは、高位の人物に仕え、将来得るべき地位のために学ぶ段階でもある。誰に仕えるか、誰がそれを許すかには、当然政治的な意味合いも生じる。
まして今のセランは、ただの兵士ではない。
王都で最も注目を集めている兵士。
あの嵐の日の奇跡の立役者。
“赤の騎士”とまで称され始めた男。
名声というのは厄介なものだ。
本人が望まなくとも、名は勝手に歩き出す。
各隊が欲しがった。
それぞれが自分の手駒にしたがった。
そして、誰も譲らなかった。
だから最終的に、グラントが線を引いた。
「各官が任務ごとに従士として使えばよい。勧誘も自由にせよ」
軍幹部たちも、それならばと納得した。
いかにもグラントらしい采配だった。
角を立てず、誰の手も縛らず、それでいて全員を自分の掌の上に乗せる。
結局、セランの従士としての所属は――団持ち。
つまり、どこの部隊にも正式には属さない立場となった。
任務ごとに、その都度の最高指揮官付きとなる。
柔らかく言えば、融通の利く戦力。
本音を言えば、引き取り合戦の末に収まりきらなかった特例だ。
もちろん、最初は私が引き取るつもりだった。
近習として抱え、目の届くところで使う。
それが一番安心で、現実的だった。
「今ならまだ間に合う。私か、メイスン家の誰かの騎士の従士になる方がいい」
それでも気がかりで、最後に本人へ確認した。
王城の訓練場の脇。
風がよく通る、人気の少ない時間帯だった。
セラン本人と受け入れ先の合意さえ取れれば、まだねじ込める。
けれどセランは、拍子抜けするほどあっさり答えた。
「別に構わねえよ。そんなのしたら結局、リシェのおこぼれだとか依怙贔屓だとか言われるだろ。お前の立場も悪くなる」
……そんなことを言われたら、もう強引には引き止められない。
私が軍内部で、ただでさえ王族の御遊びだと陰口を叩かれていることを、どうやら彼なりに理解しているらしい。
「まあ、色んなとこ回されるのも経験になるから構わない。途中で誰かに仕えても、どうせ最後はリシェの下にいくことは変わらないんだし」
迷いも、気負いもなかった。
その目の奥にあるのは、揺るぎない確信だけだ。
確かに、経験を積むという意味では理に適っている。
誰の下にも固定されず、様々な指揮系統を知ること。
それは将来、彼が本当にリシェリアの騎士として立つ時、糧になる。
でも、だ。
「だけど、城外任務が増えるわよ」
思わず、そう口にしていた。
私の下なら、王城勤務が中心になる。
護衛や近習として常に城に詰めていれば、リシェリアの近くにもいられる。
それが、彼にとって一番幸福な環境だと思っていた。
「ま。承知の上だ。グラント様がリシェの盾になってくれてるからな。俺の方が、今はちっと離れてることになっても、急ぎたい」
そう言って、セランはまっすぐにこちらを見た。
何かを固めたような眼差しだった。
この男はもう決めている。
誰が何を言っても動かない。
“急ぎたい”。
その言葉に込められた意味を、私は知っている。
リシェリアの隣へ、自分の足で辿り着くため。
……本当に、まっすぐな男だ。
それゆえに、危うい。
だが、リシェリアが笑う時、その傍に立つ資格を持つのは、きっとこういう人間なのだろう。
私はため息をつき、肩を竦めた。
「わかった。そのかわりまめに報告は私に入れて。怪我とか倒れたなんて後から聞かされたら、さすがにリシェリアが怒るわよ」
「了解」
あっさりと頷く顔は、清々しいほどだった。
「庭はどうすんの」
「兵舎が変わるわけじゃねえ。遠征に出るわけじゃなきゃ今まで通り、なんとかなる。……数日出るときゃ事前にそっちでもわかるだろ。そんときは臨時で誰か入れてくれ」
……本当に、見込みがあるのか。
それとも、ただの馬鹿なのか。
去っていく背を見送りながら、私は少しだけ笑ってしまった。




