秘される逢瀬、公女の支払い
その表向き、哀れな敗残者になることを強いられたカイルに、その不名誉と屈辱の対価として――グラントから与えられたもの。
それは、カイルとリシェリアの、ささやかな逢瀬の時間だった。
リシェリアがグラントに伴われて公務へ出るたび、その拘束時間と同じだけ、カイルにも彼女と過ごす時間が与えられる。もちろん、今のリシェリアは他人の婚約者だ。以前のように、公然と会わせるわけにはいかない。ごく限られた関係者だけが共有し、管理し、隠蔽することで成立しているそれは――言い繕う余地もなく、密会だった。
そして、その密会の場を整え、外へ漏れないよう監督し、なおかつ二人が逸脱しないよう管理する。そんな最低最悪の任務を、“赤”と“黒”と恋模様の観覧料として押し付けられているのが、この私だった。
……今日も嫌な役目だ。
息を整えながら、私は王城奥部――聖域区画のさらに奥まった廊下を歩いていた。
もう三度目になる、リシェリアの「回収」。
それが今の私の役目だった。
名目上は、公務補佐。聖女の護衛兼付き添い。だが実態は、そんな綺麗な言葉で収まるものではない。
リシェリアを、カイルから引き剥がす係。
そう言った方が、よほど正確だった。
新設された“特別礼拝室”。
表向きは、聖女の異能修練用として整えられた部屋だ。聖女の力は秘匿性が高く、集中できる静かな場が必要であり、外部の視線を遮る結界も不可欠である――そう説明すれば、誰もがもっともらしく頷く。
けれど、その実態は完全に別物だった。
厚い二重扉。外周に組まれた結界。指定された人間以外は近寄れない構造。廊下からも庭からも内部を窺うことはできず、音も気配も漏れない。
ここで行われることは、外に漏らせない。
漏れた瞬間、聖女の婚約そのものを揺るがす火種になる。グラントが政治的に整えた婚約も、カイルが背負わされた敗北の構図も、セランがかろうじて呑み込んでいる現状も、ひと息で崩れる。そう分かっているからこそ、私はこの扉の前に立つたび、胸の奥に鈍い疲労を覚えた。
私は扉をノックした。
出入りの権限が与えられた私を阻む鍵や結界はない。ただ、礼儀として鳴らす。
音によって訪問を告知し、向こうに開けさせる予断をあたえることで、最低限取り繕わせるための宣告のつもりで。
一拍。
二拍。
返事はない。
……いや、気づいていないはずがない。
単に、開ける気がないだけだ。
この沈黙にも、もう覚えがあった。気づいていないふり。聞こえなかったふり。あるいは、私が諦めて帰ることを期待する、あまりにも幼稚で、あまりにも図太い抵抗。
数秒待ってから、私は一枚目の扉を押し開け、その奥の二枚目をゆっくり開いた。
毎回、背筋に嫌な緊張が走る。
どうか今日は、多少なりとも整っていてくれ。
そんな祈りは、当然のように裏切られた。
部屋の中は、今日も見事に“整っていなかった”。
すりガラスの窓際、長椅子。
リシェリアが腰掛け、刺繍の針を進めている。卓上には色とりどりの糸束が散らばり、柔らかな夕光が銀糸のような髪を照らしていた。そこだけ切り取れば、穏やかで平和な光景だった。聖女が静かに手仕事をし、日の傾く部屋で針を進めている。ただそれだけなら、絵にして飾っても差し支えない。
「アスティ、待ってた」
リシェリアが顔を上げる。
その笑みには、すでに少し諦めが混じっていた。柔らかい。けれど、どこか疲れている。呼びに来られることを分かっていて、それでも最後までその時間に留まっていた者の顔だった。
ころり、と糸巻きが転がる音がした。
私が一歩踏み出すと、リシェリアは刺繍針を置いた。
「帰り支度するから少し待ってね」
穏やかな声。
――ただし。
その状態が問題だった。
リシェリアは、ほとんどカイルに密着していた。
いや、正確には違う。
カイルが、彼女を抱え込んでいた。
まるで、大切なぬいぐるみでも抱くみたいに。
聖女を。
この国の象徴を。
グラントの婚約者を。
彼は長椅子に深く腰掛けたまま、リシェリアを自分の腕の内へ完全に囲い込み、肩へ顎を乗せていた。吐息が髪を揺らし、その距離で彼女の刺繍の手元を覗き込んでいる。片手は腰のあたりに回り、もう片方の手は銀色の髪の端を捕まえている。
……何を見せられているんだ、私は。
言葉が出なかった。
こういう光景にも、多少は慣れたはずだった。初回ほどの衝撃はない。扉を開ける前から、ある程度は覚悟していた。それでも、実際に目にした瞬間、理性の温度が一段下がる。
カイルがようやく顔を上げた。
視線だけが、ゆっくりこちらへ向く。
「相変わらず、来るのが早い。遅れてくる方が作法に適うのでは?」
開口一番、それだ。
相変わらず無愛想で、図太い。敗残者として肩を落としている時の顔など、どこにもない。表では痩せてやつれて、失恋に打ちのめされた男を演じているくせに、この部屋の中ではその屈辱を取り戻すように、当然の顔でリシェリアを抱えている。
「今、あんたによって帰宅を遅れさせられてるのよ!」
思わず声が荒くなる。
「いいから、終われ! リシェリアをさっさと離せ」
「いやだ。まだ吸っている」
そう言いながら、カイルは当然のようにリシェリアの髪へ顔を寄せた。
花の香りでも嗅ぐみたいに銀色の髪を指先へ絡める。
「……は?」
「え」
リシェリアの肩がびくりと揺れた。
「カイル、それはちょっと」
困ったように小声で抗議する。
逃げようとはしない。けれど、完全に受け入れているわけでもない。ただ、どう拒めばいいのか分からず、そのまま腕の中に収まっている。相手を傷つけたくない気遣いと、距離感の甘さと、恋愛への未整理さが、全部そのまま態度に出ていた。
だが、男はまったく離れない。
この部屋でだけ許された、完全な傍若無人。
私が来なければ、こいつは本当に自分から手を放さない。
本来の予定は違った。
礼拝後に少し談話の時間を設ける程度。せいぜい執務室の次の間か応接室で済ませる想定だった。時間も短く、茶を一杯飲み、近況を交わし、互いに落ち着いて別れる。その程度なら、まだ管理可能だった。
だが、カイルは平然とリシェリアを抱き寄せようとしてやめなかった。
他の部屋から見えようが。
廊下から見えようが。
侍従が同席していようが。
構わないと言わんばかりに。
そして、「その程度すら許されないなら我慢できない」と真顔で言い切った。
……結果。
見かねたこちらが、“それが出来る部屋”を作る羽目になった。
けれど。
これはもう密会というより、醜態だ。
もし他の誰かに見られていたらと思うだけで頭が痛い。公爵家の婚約者と祭祀官が、こんな姿を晒しているなど。聖女とその担当官が、こんな距離で、こんな空気をまとっているなど。
外聞に出せるわけがない。
その横で、カイルが淡々と続ける。
「俺の気が済んだらこちらで彼女を塔まで送るので、アスティは帰ってかまわない。いや、帰ってくれ」
私は深く息を吐き、こめかみを押さえた。
まったく。
どちらが子供で、どちらが大人なのか分からない。
リシェリアは流石に硬直した顔のまま、視線を少し下げている。
カイルといえば理性の男。感情より判断を優先する男。そんな顔をして、いざリシェリアを腕の中に入れると、この有様。
外で見せているやつれた敗残者の顔と、今ここで髪の香りを吸っている顔を並べたら、誰が同一人物だと信じるだろう。
外では夕鐘が鳴っていた。
長い一日の終わりを告げる鐘。
それなのに、この部屋だけはまだ熱を持っている。昼の余熱を閉じ込めたみたいに、柔らかく、甘く、ひどく面倒な空気が滞っている。
私はしばらく扉の近くで立ち尽くしていた。
この二人を引き剥がす。
それがどれだけ骨の折れる重労働か、嫌というほど理解しながら。




