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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
14章 赤と黒の再燃
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哀れな黒い敗残者

婚約が発表されてからというもの、カイルの惨敗はあまりにも鮮烈だった。


それ以前から、彼のリシェリアへの傾倒は、日常の中で彼を見る者なら誰の目にも誤解しようがないほど明らかだった。彼女を見つめる目、言葉を選ぶ間、彼女のためだけに向けられる柔らかさ。あのカイルが、あれほど分かりやすく一人に心を寄せていたのだ。


だからこそ、発表後の失踪に近い病休は、余計に人目を引いた。


再び出仕を始めた後も、彼はどうにか顔を取り繕っていた。背筋を伸ばし、声を乱さず、書類を処理し、会議でも必要な発言はする。けれど頬は明らかに痩せ、目元には疲労が残り、整った顔立ちがかえってやつれを際立たせていた。


皆、理解してしまった。


あの男は負けたのだと。


そしてその敗北は、あまりにも哀れを誘った。


その「敗北」が公然のものになってから、彼の周囲は不思議とにぎやかになっていた。


当然と言えば当然だった。


これまでカイルは、孤高に弱みを見せず、人を寄せ付けない男だった。口は悪く、愛想はなく、能力だけはある。そういう者は尊敬はされても、気軽に手を伸ばされることはない。


けれど今、その彼に、ふと人間らしい隙が湧いた。


遠巻きにしていた者たちが、春のぬくもりに集まる虫のようにざわめき始めたのだ。


叶わぬ恋に身を焦がし、燃え尽きた――“黒から灰に転じた男”の熱量に、当てられた。


すれ違うたびに、同情と興味の入り混じった視線が向けられる。いつの間にか人が寄り、言葉をかけるようになっていた。


純粋に肩入れし、励ます者たちもいた。


「カイル様、仕事は裏切りません!前を向きましょう!」


「アーレンス。聖女様に仕える術は婚姻だけじゃない。忠誠をもって奉仕しろ」


「総長は女泣かせだ。そこに付け入る隙は、まだある」


下官たちは張り切って追従し、同輩はろくでもない発破をかけ、上官は道を逸れないように、それなりに真面目な助言を寄せていた。


滑稽ではある。


けれど、それは彼らなりの気遣いでもあった。


今までカイルと他の人間との間にあった溝が、失恋という極めて人間的な失敗によって、少しずつ埋まっていくようにも見えた。


厄介なのは――女たちだった。


あまり取り沙汰されることはないが、カイルは黙ってさえいれば、恐ろしく美しい顔をしている。


それは、誰もが美少女と評するだろうリシェリアの造作とはまた違う。かつて傾国とまで言われた美女を母に持つ彼は、見た目においては十分すぎるほど婦女子の関心を引く男だった。実際、過去には何度か婚約者がいた。


ただし、その性格と愛想のなさで、女性の方からことごとく去っていった。


そのうえ、カイルの方から追うこともない。


そうしていつしか彼は、遠目に見ているのが一番いい存在として扱われるようになった。


けれど、リシェリアに恋をしてからのカイルは変わった。


甘い笑顔を隠さず、細やかに気遣い、相手のために言葉を選ぶ姿を見せてしまった。あれを見た女たちが、彼は変わったのだと思い込むのも、まあ理解はできる。


実際には、変わった部分と変わっていない部分があるだけなのだが。


「あなたの心は私が癒します」と淡い香水をまとわせた恋文が投げ込まれ、会うためだけの胡乱な面会申請が増えたとも聞いた。


あからさまで、滑稽で、けれど致命的ではない失敗。


本人の痛みとは別に、そうしたものは周囲の柔らかいざわめきの中に少しずつ埋もれていくのだと、私は傍から見ていて理解した。


ただし、全てが無害というわけではない。


人の出入りが増えるほど、そこに混じる影も増える。


カイルに近寄り、グラントの失脚を狙い、聖女に関する情報を探ろうとする者。


聖女そのものに害意を抱き、代わりに成り上がろうとする者。


あるいは、聖女の力を手中に収めようと、恋慕や同情の仮面を被って近づいてくる勢力。


そういうものまで、当然のように手を伸ばしてきていた。


「……という企みがあった。これがその計画書。首謀者の一覧と証拠をまとめたものだ。そちらで適切に処理してくれ。またこちらは、まだ確かでないが、イェルス家への出入り商のうち不審な動きがある者だ。渡してくれ」


そして当然のように、カイルはそれらを手玉に取っていた。


応じるふりをし、時に弱った男の顔を使い、時に鈍ったふりまでして、決定的な情報を固めてから私へ持ち込んでくる。


聖女に関して、私ほど分かりやすく動く味方勢力もそう多くない。


だから、私のところへ来る理屈は分かる。


分かるのだけれど。


「ありがとう。助かる。……けどそれは直接グラントに渡せば?」


グラントに渡す前に改竄する気など、もちろんない。


だが、イェルス家に関わる重大な情報なら、なるべく余計な人間を介さない方がいい。私を通すより、当人へ直接渡す方が筋だ。


そう指摘すると、カイルは心底理解できないという顔で眉根を寄せた。


「なぜ、俺の手間を増やさないといけないんだ」


その瞬間、私は少しだけ呆れた。


カイルは変わったようで、本質は変わっていない。


呆れるほど自己中心的な合理性。


かつて聖女担当官の任命に対して、面倒だと吐き捨てた男。


恋をして、人間らしい顔を見せるようになった。


笑うようにもなった。


傷つき、失敗し、他人に囲まれるようにもなった。


けれど、根は変わらない。


変わったのは、恋をしたという一点だけ。


本質は、相変わらずカイル・ラス・アーレンスのままだった。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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