赤と黒の賭博
帰城してすぐ、私はリシェリアを部屋へ戻し、その足でグラントの庁舎へ向かった。
騎士団長室の扉を開ける。
中は相変わらず静かだった。
紙の擦れる音。
ペン先が走る乾いた音。
それだけが空間を支配している。
その静謐に触れた瞬間、どっと疲れた。
……本当に、ろくでもない一日だった。
姿勢を取り戻す気力はなかった。
けれど、グラントはどうせこちらを見てもいない。せめて言葉だけは規律を守る。
「アストリット・メイスン、只今帰参いたしました」
積み上げられた書類の山の向こうで、グラントは机に片肘をつきながら、淡々と署名を続けていた。
「ご苦労だった。……面白いものが見れただろう?」
顔を上げもしない。
まるで仕事の続きを読み上げているだけのような声音だった。
私は机の端に身体を預け、腕を組んだ。
「……ろくでもなかったわ」
「ほう」
そこでようやくペンが止まる。
グラントが顔を上げた。
黄金の瞳に、隠す気のない笑みが灯っている。
「どうなっていた? 教えてくれ。私の前では必死に固めていたからな」
「詳しくは言いたくない。いままで以上に沸いていただけよ。……大体、今回は全体的にろくでもなかったけど」
肩をすくめながら吐き捨てる。
「勝手に共犯にしたでしょう。話を合わせるのに、どれだけ苦労したと思ってるの?」
「そう怒るな。お前なら上手く繋げると思った」
さらりと言う。
その軽さが、余計に癇に障った。
執務室には他に誰もいない。
いつもなら控えている書記官すら下げられている。
……まさか、本当に私の報告を聞きたくて、人払いまでして待っていたのか。
グラントは片眉を上げ、口元を緩めた。
「時には、身銭を切る必要もある。付き合いの長い君なら、一緒に背負ってもらえると思っていたのだが――」
そこで少しだけ間を置き、わずかに笑う。
「見込みが違っていたか?」
……こいつ、絶対に楽しんでいる。
それなら遠慮はいらない。
「貴方のお遊びに巻き込まれる身にもなって欲しい」
「どうせやらなければならないことなら、せめて面白みというものがなければな。あの聖女には助けられてはいるが……かかる世話が多過ぎる。君に頼まれたから骨を折ってやったんだ。多少は私に旨みがあってもいいと思うが」
「はいはい。ありがとう。でも今度からは事前に相談して」
ため息混じりに返しながら、机の上の報告書を一枚取り上げる。
紙へ視線を落としたまま、私は続けた。
「私に黙ってたのはともかく。……カイルにはもっと上手くやれたでしょ。あれほど折らない方法があったはず」
カイルがあれだけ打ちのめされていたのを見るのは、長い付き合いの中でも二度目だった。
一度目は、彼の家族の葬儀だ。
今回のあれは、単なる恋敵への敗北なんて生易しいものではない。
そもそも、まだ失恋にすら至っていなかったはずだ。
「たまには見誤ることもある」
グラントの指が、再び書類をめくる。
だが、その声音には確かな愉悦の響きが混ざっていた。
グラントはペンを指先で転がしながら言った。
「カイル――あれは、私が思っていたよりもずっと、ずっと人間臭い人間だったな」
静かな声だった。
けれど、そこには興味がある。
珍しい玩具を見つけた時のような色がある。
「このままだと、黒に分が悪い。そう思わないか? 天秤が想定より傾きすぎていた」
私は眉を寄せた。
「……何の話してるわけ?」
「公平になるよう調整しなければ、賭けにならないだろう」
そう言って、グラントは視線を上げる。
金の瞳が、獲物を前にした獣のように光っていた。
底が見えない。
リシェリアの名は出さない。
だが、話の中心が誰なのかくらい、もう隠す気もないらしい。
そして、自分自身までその“盤上”に置かれていることも、私は理解していた。
沈黙の中、ペン先の音が一度止まる。
グラントは書類を整えながら、淡々と続けた。
「白の聖女は、金に寄り添うことになった。赤と黒の賭博は――静まるしかない」
彼は机端のグラスを手に取る。
琥珀色の酒が、ランプの光を受けて揺れていた。
「だが、他人の目などなくとも天秤がなくなるわけじゃない。そこにある。――そして、“赤”と“黒”のどちらに傾くか、まだ決まっていない」
私は呆れ半分で目を細めた。
「もしかして、私を賭けに誘っているつもり?」
「当たり前だろう? 一人で賭けはできない」
低く落ちた声。
「かかる手間賃も観戦料だと思えば、尻拭いや多少の支払いも笑えるものだ」
思わず笑いが漏れた。
「だから、嘘は呑み込めって言うのね」
「いいじゃないか。私など、救世の聖女を婚約破棄して捨てる不埒者、そう誹られる未来が待っているのだぞ」
本当に、自分の悪評すら駒に変える男だ。
グラントはグラスを軽く揺らしながら続けた。
「君に先に選ばせてやる。そして負けた方は、勝った方の言うことをなんでも聞く」
口元には余裕の笑み。
「それでどうだ」
私は冷ややかな視線を返した。
「……ずいぶん余裕ね?」
「本当に楽しいことの本質は、勝ち負けではないからな。君も退屈はしないだろう?」
問いかけるように微笑む。
しばらく、互いに黙った。
静かな執務室。
夜の王城。
紙と酒の匂い。
その中で、先ほどまでの馬鹿騒ぎみたいな光景を思い出して――不意に笑いが込み上げる。
「ふっ……ふふ……あはは! いいわ。遊んであげる」
赤か。
黒か。
どちらが勝つのか。
あるいは、どちらも負けるのか。
それを面白がって見ているのは、この部屋の二人だけだった。
夜の静寂の中。
まだ終わっていない賭けが、確かに動き続けていることを、私たちは理解していた。
ここでは明かされませんが、アスティがどちらに賭けたかは設定上既に決めてあります。宜しければご想像下さい。




