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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
14章 赤と黒の再燃
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赤と黒の賭博

帰城してすぐ、私はリシェリアを部屋へ戻し、その足でグラントの庁舎へ向かった。


騎士団長室の扉を開ける。


中は相変わらず静かだった。

紙の擦れる音。

ペン先が走る乾いた音。

それだけが空間を支配している。


その静謐に触れた瞬間、どっと疲れた。


……本当に、ろくでもない一日だった。


姿勢を取り戻す気力はなかった。

けれど、グラントはどうせこちらを見てもいない。せめて言葉だけは規律を守る。


「アストリット・メイスン、只今帰参いたしました」


積み上げられた書類の山の向こうで、グラントは机に片肘をつきながら、淡々と署名を続けていた。


「ご苦労だった。……面白いものが見れただろう?」


顔を上げもしない。

まるで仕事の続きを読み上げているだけのような声音だった。


私は机の端に身体を預け、腕を組んだ。


「……ろくでもなかったわ」


「ほう」


そこでようやくペンが止まる。

グラントが顔を上げた。

黄金の瞳に、隠す気のない笑みが灯っている。


「どうなっていた? 教えてくれ。私の前では必死に固めていたからな」


「詳しくは言いたくない。いままで以上に沸いていただけよ。……大体、今回は全体的にろくでもなかったけど」


肩をすくめながら吐き捨てる。


「勝手に共犯にしたでしょう。話を合わせるのに、どれだけ苦労したと思ってるの?」


「そう怒るな。お前なら上手く繋げると思った」


さらりと言う。

その軽さが、余計に癇に障った。


執務室には他に誰もいない。

いつもなら控えている書記官すら下げられている。


……まさか、本当に私の報告を聞きたくて、人払いまでして待っていたのか。


グラントは片眉を上げ、口元を緩めた。


「時には、身銭を切る必要もある。付き合いの長い君なら、一緒に背負ってもらえると思っていたのだが――」


そこで少しだけ間を置き、わずかに笑う。


「見込みが違っていたか?」


……こいつ、絶対に楽しんでいる。


それなら遠慮はいらない。


「貴方のお遊びに巻き込まれる身にもなって欲しい」


「どうせやらなければならないことなら、せめて面白みというものがなければな。あの聖女には助けられてはいるが……かかる世話が多過ぎる。君に頼まれたから骨を折ってやったんだ。多少は私に旨みがあってもいいと思うが」


「はいはい。ありがとう。でも今度からは事前に相談して」


ため息混じりに返しながら、机の上の報告書を一枚取り上げる。


紙へ視線を落としたまま、私は続けた。


「私に黙ってたのはともかく。……カイルにはもっと上手くやれたでしょ。あれほど折らない方法があったはず」


カイルがあれだけ打ちのめされていたのを見るのは、長い付き合いの中でも二度目だった。

一度目は、彼の家族の葬儀だ。


今回のあれは、単なる恋敵への敗北なんて生易しいものではない。

そもそも、まだ失恋にすら至っていなかったはずだ。


「たまには見誤ることもある」


グラントの指が、再び書類をめくる。

だが、その声音には確かな愉悦の響きが混ざっていた。


グラントはペンを指先で転がしながら言った。


「カイル――あれは、私が思っていたよりもずっと、ずっと人間臭い人間だったな」


静かな声だった。

けれど、そこには興味がある。

珍しい玩具を見つけた時のような色がある。


「このままだと、黒に分が悪い。そう思わないか? 天秤が想定より傾きすぎていた」


私は眉を寄せた。


「……何の話してるわけ?」


「公平になるよう調整しなければ、賭けにならないだろう」


そう言って、グラントは視線を上げる。

金の瞳が、獲物を前にした獣のように光っていた。


底が見えない。


リシェリアの名は出さない。

だが、話の中心が誰なのかくらい、もう隠す気もないらしい。


そして、自分自身までその“盤上”に置かれていることも、私は理解していた。


沈黙の中、ペン先の音が一度止まる。

グラントは書類を整えながら、淡々と続けた。


「白の聖女は、金に寄り添うことになった。赤と黒の賭博は――静まるしかない」


彼は机端のグラスを手に取る。

琥珀色の酒が、ランプの光を受けて揺れていた。


「だが、他人の目などなくとも天秤がなくなるわけじゃない。そこにある。――そして、“赤”と“黒”のどちらに傾くか、まだ決まっていない」


私は呆れ半分で目を細めた。


「もしかして、私を賭けに誘っているつもり?」


「当たり前だろう? 一人で賭けはできない」


低く落ちた声。


「かかる手間賃も観戦料だと思えば、尻拭いや多少の支払いも笑えるものだ」


思わず笑いが漏れた。


「だから、嘘は呑み込めって言うのね」


「いいじゃないか。私など、救世の聖女を婚約破棄して捨てる不埒者、そう誹られる未来が待っているのだぞ」


本当に、自分の悪評すら駒に変える男だ。


グラントはグラスを軽く揺らしながら続けた。


「君に先に選ばせてやる。そして負けた方は、勝った方の言うことをなんでも聞く」


口元には余裕の笑み。


「それでどうだ」


私は冷ややかな視線を返した。


「……ずいぶん余裕ね?」


「本当に楽しいことの本質は、勝ち負けではないからな。君も退屈はしないだろう?」


問いかけるように微笑む。


しばらく、互いに黙った。


静かな執務室。

夜の王城。

紙と酒の匂い。


その中で、先ほどまでの馬鹿騒ぎみたいな光景を思い出して――不意に笑いが込み上げる。


「ふっ……ふふ……あはは! いいわ。遊んであげる」


赤か。

黒か。


どちらが勝つのか。

あるいは、どちらも負けるのか。


それを面白がって見ているのは、この部屋の二人だけだった。


夜の静寂の中。

まだ終わっていない賭けが、確かに動き続けていることを、私たちは理解していた。

ここでは明かされませんが、アスティがどちらに賭けたかは設定上既に決めてあります。宜しければご想像下さい。

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