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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
14章 赤と黒の再燃
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碌でもない使い走り

再びアーレンス領へ向かったのは、単純に上官命令だったからだ。


グラントから届いた指示は、驚くほど簡潔だった。


「指定の日時に、アーレンス邸へ迎えに行け」


それだけ。


だが、そこに込められた意味は十分すぎるほど理解できた。


私が行かなければならない理由。

この騒動の裏側を知っていて、なおかつ、あの男を多少なりとも強引に動かせる人間が限られているからだ。


要するに――そろそろ“物理的に引きずってでも戻せ”という段階に入ったということ。


馬具を締めながら、小さく息を吐く。


まったく。

副総長ともあろう者にやらせる仕事ではない。


……とはいえ、命令は命令だ。


私は再び、郊外のアーレンス邸へ馬を走らせた。


屋敷へ到着すると、門の向こうから老執事ロアンドが慌てたように現れた。


「間を開けず悪いわね、ロアンド。悪いけどあいつそろそろ連れてかざるを得ないから」


そう告げると、ロアンドは困ったように眉を下げた。


「あの。ええ、いえ。申し訳ございません。アストリット様。ただいま先客がありまして……カイル様より、どなたであってもお通しするなと――」


その言葉と共に、彼は玄関脇の応接室へ案内するように身体をずらした。


「……ふぅん。少しくらいは待っててもいいけど。誰?いつまで?」


問いかけながら、一歩踏み込む。


その瞬間、風が流れた。


「その……私にはわかりかねます」


ロアンドは忠実だった。

嘘は言わない。だが、主人の不利益になることも口にしない。


私は返答を待たず、鼻先を掠めた香りに目を細めた。


この静まり返った館には似合わない、妙に洗練された匂い。


……こんなのはセランじゃなくてもわかる。


煙草と香木を基調にした、よく知る香り。


……グラント。


さらに、その残滓の奥に、柔らかい花のような甘さが混じっている。


リシェリアだ。


「グラントが来たわね?」


ロアンドは答えなかった。


ただ、長年仕えた者特有の、沈黙で忠誠を示すような顔をして、静かに頭を下げる。


それだけで十分だった。


私より先にグラントがここへ来ている。


ならば今回の目的は、カイルの回収ではない。


……後始末だ。


また、あいつに都合よく使われたらしい。


「わかった。勝手にやるから案内は良い」


この屋敷の構造はもう覚えている。

案内など不要だった。


私はそのまま廊下を進み、主寝室の扉を開け――そこで、思わず足を止めた。


異様だった。


見てはいけないものを見てしまったような感覚が、まず先に来る。


寝台の上。

リシェリアが、カイルに抱き込まれていた。


縋りつくように。

あるいは、執着するように。


カイルは彼女の肩口から背へ顔を埋め、離す気配がない。

衣服が乱れていないのが、せめてもの救いだった。


「……リシェリア」


思わず名前を呼ぶ。


その阿呆に何をさせているの。

危うく続きかけた言葉を飲み込んだ。


「違うの!アスティ!」


リシェリアが弾かれたように声を上げる。


頬を赤くし、羞恥と混乱で身体を強張らせながら、それでも拘束されていて逃げられないらしい。


潤んだ瞳だけが、必死に否定を訴えていた。


「あ、あの、すみません。この状況は、わざとじゃないんです。そう。その……そういう事は、全然ないですから」


……だろうとは思う。


だが、客観的に見れば完全に言い逃れ不能な構図だった。


「ずいぶん、元気そうね」


自然と声が冷えた。


カイルは顔すら上げない。


リシェリアへ額を押し付けたまま、平然と言ってのける。


「悪いけど帰ってほしい。見りゃわかるだろう。取り込み中なんだ」


その言葉と同時に、腕へさらに力が入る。


逃がす気がない。


……少し前まで死にかけみたいな顔をしていた男とは思えない。


グラントが投げ込んだ“劇薬”は、どうやら想像以上に効いたらしい。


蘇生どころか、完全に調子づいている。


「い、いえ! いてくださって大丈夫です!いてください!」


リシェリアは完全に助けを求めていた。


困ったように視線だけでカイルを示してくる。


話を聞けば、公務でグラントと共にここへ来て、その後グラントだけ先に帰城。

残った彼女は、カイルの“治療”として聖痕から力を分け与えていたらしい。


なるほど。


確かに理屈は通る。


だが、通るだけだ。


「ああ、そうなんだ。すまないがまだ体調が戻らない。このままひと月はリシェリアと休暇をいただこうと思う。そのように報告しておいてくれ」


わざとらしく弱った声を出しながら、リシェリアの背に頬を擦り寄せる。


鼻を啜る音まで立て始めた。


本当にろくでもない。


――いい加減、顔くらい上げろ。


「良い訳があるか!リシェリア、帰るわよ」


私は一歩踏み込み、その腕を手刀のように叩き落とした。


驚くほど簡単に力が抜ける。


カイルの身体はそのまま寝台へ崩れ込み、小さく息を吐いた。


やつれている。


頬は削げ、髪も乱れていた。


それでも。


目だけは、以前よりずっと生きていた。


「もし、追加の治療が欲しいのなら、拗ねてないでさっさと登城しなさい」


吐き捨てるように告げ、私は背を向ける。


グラントがどこまで計算していたのかは知らない。


だが、鞭のあとに飴を与えたのは確かだ。


その結果がこれ。


最悪な方向で、あいつは元気を取り戻していた。


リシェリアはまだ顔を赤くしたまま、どこか申し訳なさそうに俯いている。


羞恥と困惑。

それでも、私の方へ来ることは選んだ。


「そ、それじゃあカイル。お大事に。王都でまたお会いしましょう」


寝台の上のカイルは、妙に満足げな顔で手を振っていた。


……まあ。


流石にあいつも、本気で一線を越えるつもりはなかったのだろう。


婚約直後の女性に取り返しのつかない風聞を与えるほど、理性を失ってはいない。


そう信じたい。


だが、それを差し引いても十分に碌でもなかった。


廊下を並んで歩く。


私が半ば引くように手を取っていると、リシェリアがきまり悪そうに口を開いた。


「あの、ねえ。アスティ。わかってるよ?あんまり良くないことは。ただ、カイルは私の担当官だし、ここは、ほらお城じゃないし……その。ごめんなさい」


私はそこで、ふと考える。


……もしかして。


リシェリアは、相手がセランでなくとも距離感が緩いのではないか。


今まで考えもしなかった可能性だった。


私はずっと、止めるべきはセランやカイルの側だと思っていた。


だが、違うのかもしれない。


――私の仕事は、案外まだ終わっていないらしかった。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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