碌でもない使い走り
再びアーレンス領へ向かったのは、単純に上官命令だったからだ。
グラントから届いた指示は、驚くほど簡潔だった。
「指定の日時に、アーレンス邸へ迎えに行け」
それだけ。
だが、そこに込められた意味は十分すぎるほど理解できた。
私が行かなければならない理由。
この騒動の裏側を知っていて、なおかつ、あの男を多少なりとも強引に動かせる人間が限られているからだ。
要するに――そろそろ“物理的に引きずってでも戻せ”という段階に入ったということ。
馬具を締めながら、小さく息を吐く。
まったく。
副総長ともあろう者にやらせる仕事ではない。
……とはいえ、命令は命令だ。
私は再び、郊外のアーレンス邸へ馬を走らせた。
屋敷へ到着すると、門の向こうから老執事ロアンドが慌てたように現れた。
「間を開けず悪いわね、ロアンド。悪いけどあいつそろそろ連れてかざるを得ないから」
そう告げると、ロアンドは困ったように眉を下げた。
「あの。ええ、いえ。申し訳ございません。アストリット様。ただいま先客がありまして……カイル様より、どなたであってもお通しするなと――」
その言葉と共に、彼は玄関脇の応接室へ案内するように身体をずらした。
「……ふぅん。少しくらいは待っててもいいけど。誰?いつまで?」
問いかけながら、一歩踏み込む。
その瞬間、風が流れた。
「その……私にはわかりかねます」
ロアンドは忠実だった。
嘘は言わない。だが、主人の不利益になることも口にしない。
私は返答を待たず、鼻先を掠めた香りに目を細めた。
この静まり返った館には似合わない、妙に洗練された匂い。
……こんなのはセランじゃなくてもわかる。
煙草と香木を基調にした、よく知る香り。
……グラント。
さらに、その残滓の奥に、柔らかい花のような甘さが混じっている。
リシェリアだ。
「グラントが来たわね?」
ロアンドは答えなかった。
ただ、長年仕えた者特有の、沈黙で忠誠を示すような顔をして、静かに頭を下げる。
それだけで十分だった。
私より先にグラントがここへ来ている。
ならば今回の目的は、カイルの回収ではない。
……後始末だ。
また、あいつに都合よく使われたらしい。
「わかった。勝手にやるから案内は良い」
この屋敷の構造はもう覚えている。
案内など不要だった。
私はそのまま廊下を進み、主寝室の扉を開け――そこで、思わず足を止めた。
異様だった。
見てはいけないものを見てしまったような感覚が、まず先に来る。
寝台の上。
リシェリアが、カイルに抱き込まれていた。
縋りつくように。
あるいは、執着するように。
カイルは彼女の肩口から背へ顔を埋め、離す気配がない。
衣服が乱れていないのが、せめてもの救いだった。
「……リシェリア」
思わず名前を呼ぶ。
その阿呆に何をさせているの。
危うく続きかけた言葉を飲み込んだ。
「違うの!アスティ!」
リシェリアが弾かれたように声を上げる。
頬を赤くし、羞恥と混乱で身体を強張らせながら、それでも拘束されていて逃げられないらしい。
潤んだ瞳だけが、必死に否定を訴えていた。
「あ、あの、すみません。この状況は、わざとじゃないんです。そう。その……そういう事は、全然ないですから」
……だろうとは思う。
だが、客観的に見れば完全に言い逃れ不能な構図だった。
「ずいぶん、元気そうね」
自然と声が冷えた。
カイルは顔すら上げない。
リシェリアへ額を押し付けたまま、平然と言ってのける。
「悪いけど帰ってほしい。見りゃわかるだろう。取り込み中なんだ」
その言葉と同時に、腕へさらに力が入る。
逃がす気がない。
……少し前まで死にかけみたいな顔をしていた男とは思えない。
グラントが投げ込んだ“劇薬”は、どうやら想像以上に効いたらしい。
蘇生どころか、完全に調子づいている。
「い、いえ! いてくださって大丈夫です!いてください!」
リシェリアは完全に助けを求めていた。
困ったように視線だけでカイルを示してくる。
話を聞けば、公務でグラントと共にここへ来て、その後グラントだけ先に帰城。
残った彼女は、カイルの“治療”として聖痕から力を分け与えていたらしい。
なるほど。
確かに理屈は通る。
だが、通るだけだ。
「ああ、そうなんだ。すまないがまだ体調が戻らない。このままひと月はリシェリアと休暇をいただこうと思う。そのように報告しておいてくれ」
わざとらしく弱った声を出しながら、リシェリアの背に頬を擦り寄せる。
鼻を啜る音まで立て始めた。
本当にろくでもない。
――いい加減、顔くらい上げろ。
「良い訳があるか!リシェリア、帰るわよ」
私は一歩踏み込み、その腕を手刀のように叩き落とした。
驚くほど簡単に力が抜ける。
カイルの身体はそのまま寝台へ崩れ込み、小さく息を吐いた。
やつれている。
頬は削げ、髪も乱れていた。
それでも。
目だけは、以前よりずっと生きていた。
「もし、追加の治療が欲しいのなら、拗ねてないでさっさと登城しなさい」
吐き捨てるように告げ、私は背を向ける。
グラントがどこまで計算していたのかは知らない。
だが、鞭のあとに飴を与えたのは確かだ。
その結果がこれ。
最悪な方向で、あいつは元気を取り戻していた。
リシェリアはまだ顔を赤くしたまま、どこか申し訳なさそうに俯いている。
羞恥と困惑。
それでも、私の方へ来ることは選んだ。
「そ、それじゃあカイル。お大事に。王都でまたお会いしましょう」
寝台の上のカイルは、妙に満足げな顔で手を振っていた。
……まあ。
流石にあいつも、本気で一線を越えるつもりはなかったのだろう。
婚約直後の女性に取り返しのつかない風聞を与えるほど、理性を失ってはいない。
そう信じたい。
だが、それを差し引いても十分に碌でもなかった。
廊下を並んで歩く。
私が半ば引くように手を取っていると、リシェリアがきまり悪そうに口を開いた。
「あの、ねえ。アスティ。わかってるよ?あんまり良くないことは。ただ、カイルは私の担当官だし、ここは、ほらお城じゃないし……その。ごめんなさい」
私はそこで、ふと考える。
……もしかして。
リシェリアは、相手がセランでなくとも距離感が緩いのではないか。
今まで考えもしなかった可能性だった。
私はずっと、止めるべきはセランやカイルの側だと思っていた。
だが、違うのかもしれない。
――私の仕事は、案外まだ終わっていないらしかった。




