癒しか甘えか
グラント様が去ったあと、静かな時間が訪れた。
扉の向こうで、執事さんが足音を忍ばせて戻ってくる。
香ばしい茶の香りが広がる中、銀盆を持つ手がわずかに震えていた。
「新しいお茶をお持ちしました」
そう言いかけた執事さんに、カイルが低く返した。
「ああ、ありがとう。それとこれ以降、俺が呼ぶまではどんな用があっても来ないように。誰も通すな」
その声音は病人のものとは思えないほど強い。
えっ?
声にならない戸惑いを飲み込む。
私が目を瞬く間に、執事さんは深く頭を下げた。
「かしこまりました」
扉が閉じる音が、部屋に重く響いた。
静寂が、音もなく降りてきた。
あ、発声の禁が解けているんだった。
……とりあえず、ご挨拶をしよう。
「お久しぶりです、カイル」
自分でもぎこちないと思う声が出る。
「体調は……まだあまり良ろしくないようですね」
「ああ……うん」
ラトリエでの口論、庭でのやり取り。
いろいろなことが胸の奥で波紋のように思い出される。
泣いたり、叱られたり、怒ったりしたけれど。
でも、今は――病人だ。
今日は優しくしてあげたい。
「お庭の作業。無理をさせてしまっていたのなら……申し訳ありません」
掠れた返事。
「大丈夫、それは問題じゃない。休んでるせいで、いろいろ迷惑をかけてるね。ごめん」
「そんなことは、……ちょっとだけです」
本当は否定したかったのに、口が少しだけ正直だった。
でも、仕方ない。カイルの不在で実際、皆に迷惑がかかっている。
そのぶん、カイルは本当に、いつも頑張っている人なのだと思う。
そういうと、目が合って、カイルもわずかに苦笑してくれた。
少し間があいてから、彼がぽつりと言った。
「婚約、おめでとう?」
疑問形だった。問いというより探るような響き。
「ありがとうございます……思いが通じて、早く破談になるといいですよね」
本当に、早くそうなればいい。
破談になった時は、グラント様の悩みが終わるんだから。
グラント様の恋が叶ったときか、破れたとき。どちらになるかはまだわからないけれど。
恋。恋人。
ここ最近の出来事で忘れていたけれど、私が最近知りたいと思っていたことだ。
このくらいの年齢の普通の人は恋を経験している。周りにもう恋人や夫婦になっている人はいる。ラファなんて最近、恋人が出来たのだと嬉しそうに毎日話してきていた。
いつのまにか、私の近くでもそんなことが起きていて驚いてしまった。
教えてくれていたら、前からちゃんと観察していたのに。
恋を知りたいのに、恋は見えないことが多い。みんな隠してしまうから。
だから、グラント様の恋は、間近で学ばせてもらえるまたとない機会。これから恋人になろうとしている人なんだもの。
そして恋をされている側のアスティも近い存在。
きっと二人が私に恋の正解を教えてくれる。そう思えた。
ふと、アスティの言葉を思い出す。
『えっとね。……熱意が感じられないのよ。誰にでも同じ調子でしょ? 三回は求婚してもらわないと本気にするつもりはないわ』
あの、悪戯っぽい挑発するような笑顔。多分グラント様の事、嫌ではないんだと思っている。
だからもっと工夫をするよう、後でグラント様にさりげなく助言しようと思っていたのに……言い忘れちゃった。
そんなことを考えただけで、自然に口元がほころんだ。
「はは……なんだそれ」
カイルも笑った。
とても小さく、つたない笑い方だった。
普段の彼からは考えられない。幼い子供のような、不器用な笑い方。
私は病児院で見た、ぐずっていた子を思い出した。
あの時と同じ、熱のせいかもしれない。
額に汗が滲んでいる。
早めに癒してあげないと。
「あ、そうだ。癒しでしたよね。症状を和らげるのはできますから。すぐ始めましょう」
集中しようと立ち上がる。
カイルの前に進み、手を伸ばす。
額に手を翳そうとした――その瞬間。
「あ」
手首を掴まれ、あっという間に体が反転させられた。
気づけば、ストンと。寝台の縁に座らされていた。
背後からカイルの気配。
背中に、彼の体温がぴたりと重なる。
まるで馬の鞍の前に座っているような体勢で密着している。
接触したところから、収斂させていた力が、勝手にカイルに流れ始めた。
ええと。この体勢は良くない。
成人の男女で、扉が閉まっている部屋。侍従もいない。
外で誰にもさせてはいけないと、サフィアに口を酸っぱくして注意されている行動だ。
カイルは知らない人でも、悪意のある人でもないけれど。
それでも、もし露見したら怒られてしまう。
「あの、これはちょっと」
言いかけると、彼が低く息を吐いた。
「うん……でも、気分が悪くて。この姿勢だと、楽なんだ」
カイルの右手と私の左手が交差するように絡み、もう片方の手も同じようにつかまれて、わずかに寄りかかられている。
苦しいほど近い距離。
息をするたび、背にあたたかい吐息がかかる。
そもそも。セラン以外と、体温をこんなに寄り添わせたことはなかったから。
なんとなく居心地の悪さ、気恥ずかしさが胸にこみ上げてきた。
けれど、鼻をすするような音が聞こえ、思わず動けなくなった。
「そんなに、辛かったんですか?」
肩甲骨の奥――聖痕のあたりが熱を帯びた。
流れ出す力が、彼の中に溶けていくのがわかる。
……仕方ない。
ここはカイルのお家だから、私が口を滑らさなければきっと平気。
「少しだけですよ」
「うん」
その返事は、まるで子供のようだった。
私は目を閉じ、静かに力を与えることに集中する。
背中越しに感じる彼の体温が、かすかに和らいでいく。




