燻ぶる炎の着火材
私は重く沈んだ曇天の下、リシェリアを伴い、アーレンス邸宅の門前に立っていた。
私はなんとか業務の折り合いを無理やりつけ……いや、脇に追いやった。
そして、病を理由に登城を辞退している重臣への見舞いを表向きの名目として王都を飛び出してきていた。
……私が立てた波風の後始末に。
「ようこそおいで下さいました」
庭園を抜け、重い扉が音を立てて開く。
出迎えた白髪の執事が深々と頭を下げ、主の体調を案じながらも応接室へと案内した。
空気には薬草と紙の匂いが混じっていた。
隣を歩くリシェリアは、足取りこそ乱さないものの、時折こちらの横顔を窺っていた。何かを問いたいのだろう。
それを作った笑みで制して入室を促す。
彼女が何も言わないのは、邸宅の敷地に入る前に小声で言い含めていたからだ。
「私がいいと言うまで……言葉を発さないようにお願いする」
リシェリアは静かに頷いていた。
表情には不安が滲むが、それでも聖女としての顔を保っていた。
部屋に入ると、長椅子に腰かけたカイルがいた。
その顔はやつれ、血の気が引いている。
しかし目だけは鋭く、私とリシェリアの姿を捉えた瞬間、氷のような視線を投げつけてきた。
「……何をしに」
低く、押し殺した声。城内では最低限整えていた礼も尽くす気など微塵も感じられない。
……随分、嫌われてしまったものだ。
あくまで落ち着いた調子で返す。
「訪問すると通達した。聞いていただろう」
「丁重に断ったはずだ。体調はまだ本調子ではない。……病床に聖女を連れてくるなんて、俺と彼女どちらにも無作法だと思うが」
取り付く島もなかった。
「よほどの病だな」
――恋の、な。
そう心の中で付け加え、わずかに眉を動かした。
沈黙。
互いに表情を崩さず、茶を一口すする音だけが響いた。張り詰めた空気の中、窓から差す光が茶器の縁を鈍く照らす。
「とうに峠も越えているようではないか」
「……」
徹底的に動かないらしい。静かに盃を置いた。
こちらが札を先に出すしかない。
「本日は担当官への婚約の挨拶でも、見舞いでもなく、聖女による特別慰問――“癒問”だ。御身を案じ、聖女殿による特別な治癒を下賜するために参った。謹んで拝受しろ」
これだけで伝わるはずだ。
最初の予定通り、リシェリアに宥めさせるしかない。
カイルの目がわずかに見開かれた。
そして隣でリシェリアの戸惑った息が止まる音が聞こえた。『何をするのか聞いてない』という目で。
言ってないからな。
目線だけでそれだけ告げると、立ち上がった。
淡々と、それが当然のように振る舞う。
「聖女殿。私は急務によって帰城するが、聖女殿には治療を施していただきたい。迎えは追って寄越す。それまでゆるりと滞在されるといい」
聖女の治癒は、公務であり、病床の重臣を訪ねるには十分すぎる名目になる。
迷惑をかけないとは言ったが、治癒をするのは聖女の役目そのものだ。治癒の間、多少患者と会話を交わしてもらう。そのくらいはいいだろう?
カイルの視線が初めてリシェリアへ向いた。
拒絶の言葉を探すように唇がわずかに動き――結局、何も出てこない。
カイルは、拒む気力が抜け落ちたように、視線を机に落としたが、それでも沈黙の奥に、まだ怒りの火種が見えた。
……根深い。
ごく私的な空間での逢瀬を用意してやったのに。なんと執念深いんだ。
思わず、溜め息が出た。
「……そうだな、もう一つ。此度の婚約によって、今後は公務により警護の手間が増え、担当官殿には相当な負担を強いることだろう。公務の都度、慰労として一定時間――聖女殿より恩寵を賜るのではどうだ」
カイルからリシェリアとの時間を奪った分を返す約束を追加してやった。
その時間の捻出は自分でするはずだ。
「……いいだろう」
短い応答。
声音に温度はなかったが、強張っていたものは解けていた。
カイルは手を伸ばして、傍机の鐘を鳴らして執事を呼んだ。
「ロアンド。公爵は急務で先にお帰りになるそうだ。御者に伝えて馬車を支度させるように」
カイルの気が逸れた隙に、視線をリシェリアへ移した。彼女は不審気に私を見上げていた。手が衣の裾を握りしめ、何をさせられるのかと言いたそうな言葉を飲み込んでいる。
「勝手に進めて悪いな。彼も仕事を抱えるから、こんな風に寝込むことになる。たとえ休みを与えても、彼は勝手に読書したり研究してしまう。きちんと休憩させるために、君に監督を頼む。……なに。茶を飲んで話に付き合ってやるだけだ。今までの付き合いとさして変わらんだろう?」
リシェリアは戸惑いながらも、仕方なさそうにわずかに目で頷いた。返事がないので、本当に承服しているかはわからない。
「ああ。そうか。……私が出て行ったらあとは自由に話していい」
すぐ沈黙を破らせても良かったが、……騙し打ちのように話を動かしていた。また魔女の声が聞こえるかも知れないのは避けたかった。
ほどなくして執事が戻ってきた。
踵を返し扉の向こうへと出る前、一度だけ振り返った。
リシェリアは居心地悪そうに、助言を求めるような目でまだこちらを見ていた。
カイルはもう怒りや敵意ではなく、論点の穴を見つけようというような少しだけ意地の悪い――見慣れた平時の顔を取り戻し始めていた。
早く声をかけたい。近づきたい。だが、まだ私が近くにいる。その待ち切れなさが指先にわずかに表れている。
現金な奴だ。
口の端に笑みがこぼれた。
私はそれを見届けてから、扉を出た。
執事に、連れの聖女はしばらく残る事情を伝えた。
ここから先は、私がいる方が邪魔になる。荒らしたのは私だが、鎮める役まで私が取るほど無粋ではない。
背後に扉の閉まる音。向こうでリシェリアの呼吸が、微かに震えた気がした。
その瞬間から――この邸に、別の嵐が吹き始めていた。




