灰でもそれは燃え残り
この数日の出来事で私は疲れて果てていた。
全て投げ出したい気持ちがあった。
すべてが丸く収まったように見えて、実際には誰も満足していない。
グラントは祭祀庁の業務に関わることが増え、空いた軍の実務がこちらにのしかかる。周りの部下や使用人も変わった都合に振り回される。
……いや、そんな事はない。少なくともリシェリアの周りの政治活動や下卑た視線は抑えられた。
元々はそれが目的だったのだから、これで良かったはずだ。セランに至っては何も変わらない。
ただ、リシェリアを利用している側の人間が、その恩恵の対価を払っているだけだ。文句を言う筋ではない。私が守りたいんだから、これで良い。
でもカイルは……本来こちら側の人間のはずだ。一緒に苦労するべきだ。そんな不平が頭に浮かんだ。
それでも、一応の仁義として――私はカイルの実家に顔を出すことにした。
メイスン領の隣。
幼いころから何度か行き来してきた領地へ、馬を走らせた。
十年ほど前、この地が水害に遭った時に支援に向かったのを覚えている。
私も弔問に訪れた。
あれから……ずいぶんと復興したと思った。
領民の家屋も、田畑も整い、平和を謳歌している。
アーレンス領にある領主屋敷。
彼も普段は城内に住まいを持ち、ほとんど帰ることのないと聞く。
門を抜けた瞬間、しんとした空気が肌に刺さる。
人の出入りがあまりない家特有の冷たさが漂っていた。
かつての当主――彼の父母もあの水害の中失われて、もういない。
今はカイルが名義上の主であり、使用人がかろうじて維持しているだけ。
最低限だけ手入れされた庭木が、冬枯れのように沈黙し、この領主屋敷だけは再生を拒んでいるようにすら見える。
応接にも通さず、すぐ寝室へ案内された。
生活の気配が薄い。
机と寝台、書架、それだけの空間。
まるで、誰かが一時的に避難しているだけのようだ。
荒れた痕跡はなかった。投げ出された杯も、破かれた書類もない。
ただ、何も手をつけられていないだけだった。
「顔色が良さそうで何より」
皮肉半分に声をかける。
来訪者の報にも着替えずカイルは寝着のまま、寝台の縁に腰をかけ、両手を膝に置いたまま、こちらを見た。
土気色の顔。
頬のこけた横顔に、数晩ろくに眠っていないのがありありと見て取れる。
「おかげさまで。悪くない」
淡々とした返答。
その口ぶりが、かえって痛々しい。
――鏡を見ろ。
そう言いたくなったが、飲み込んだ。
机の上に、グラントからの封書が置かれていた。
イェルス家の印章は割られ、丁寧にたたまれたまま。
「読んでなかったの? 事前に通達が来てたでしょう」
問いかけると、カイルはわずかに眉を動かした。
「読んだ」
返事になっていない。
どうせ最近読んだのだろう。
事前に知っていたのなら発表時に失踪まがいに消えるわけがない。私と同じように当日まで知らなかったはずだ。
「声も掛けたって」
「何度か面会の打診もあったらしいな」
他人事のような応答。
「……じゃあ、行き違いや誤解があったとしても今はわかってるでしょ?」
「グラントがアスティと? その戯言、……誰か信じているのか?」
呆れたような声。
怒りというより、乾いた諦めに近い響きだった。
グラントが、なんだかんだ言っても、本筋は同じものを使い回してる事に、私も呆れてしまう。
「それはいいから……もっと込み入った政治的なしがらみがあるのよ。多分。きっと」
さすがに言葉を濁すしかなかった。
本音を話すには、この部屋は静かすぎた。
カイルは、俯いたまま微かに息を吐いた。
もとから灰色の髪なのに、萎れた彼の姿そのものが、さらに灰色にくすんで見えた。
「そんなのわかってる」
重症だ。
流石のグラントも、私も想像してなかった。
ここまで壊れるなんて。
「リシェリアは心配してる。その顔、見られたくないだろうから連れてこなかった」
ため息を一つはいてリシェリアの名前を出した。
今は毒にもなりかねない劇薬。
それでも冥府から引きずり戻す力があるはずだ。
案の定、ぴくりとわずかにカイルの指先が震えた。
「……今は吐き気がして眠れない、それだけだ。もうすぐこの流行り風邪は治る。落ち着く時間が欲しい。落ち着いたら……戻る、から」
視線は虚ろでも、瞳の奥に光があった。
理性はまだ生きている。
戻る意志がある――それだけで、十分だった。
「……そ、わかった。早めにお願い」
それ以上は何も言わなかった。
余計な慰めは、むしろ彼を傷つける。
部屋を出るとき、背後で小さくため息が聞こえた。
その音が、ひどく重く感じられた。
屋敷を出て馬を走らせながら、私は思う。
グラントもリシェリアも、セランも――誰もがそれぞれの正義で動いている。
けれど、その均衡の中で一番割を食ったのはこの男だ。
城に戻ると、耳に入った噂があった。
“敗残者”と呼ばれた黒の祭祀官――カイル。
恋に敗れ城内から姿を消してしまったその落ちぶれ方に、誰もが同情し始めている。
「彼は誤解されやすいけど、結構いい人だよ」
「誰よりも聖女を支えてきたのにな」「応援してたんだけどな」
そんな声が、廊下の陰で囁かれていた。
皮肉なものだ。
少し前までは、厳しすぎる、冷徹非情、人嫌い、鉄面皮……様々に言われて誰も近寄らなかったのに、今は敗北が、彼を人間らしく見せ、それがかえって人望を集めている――。
窓の外、アーレンス領の方角の空がわずかに曇っていた。
彼が早く戻ることを願って城門の向こうに視線を向けた。




