舞台を逃げ出した男
グラントのことは嫌いだ。
理屈ではなく、感情の芯の部分で。
かつては彼を、兄のように崇敬していた。
かの家の血が父方にあることと、年が離れていないこともあって、遠方ではあるものの幼い頃から交流があった。水害で両親を亡くした後に領主を継いでからは、若き公爵後継者候補である彼から、さらに助言をもらうようになった。一時期は、人生の師のように見ていたと言える。失った家族の分の親愛を、彼に勝手に寄せていたのかもしれない。彼の助言で王都で学ぶことにし、領地を立て直し、口利きで仕官を決めた。その頃には彼は父から当主の座を譲られたところだった。
そして思い知った。
宮廷で君臨する姿を見せられた。容易に口を聞くことも、声をかけることすら出来ない人間なのだと。常に高いところにいて、何をやらせても当然に優秀。人が周りに溢れ、隙を見せることもない。指を動かせば事はすでに終わっている。
俺は彼に必要な存在ではない。そして、彼は一生俺の上にいる。そう心に刻みつけられた。
そして彼にとって、俺は駒の一つだった。都合よく望む盤面で動かせる駒。……おそらくグラントはそういう目的で俺に親しくしてくれたのだと。理解した。
理解したが苦しかった。恩がある。それに応えないわけにはいかない。だからこそ、それからは一定の距離を取ってきた。
わかっているから、望まれるまま動いてきた。一を聞いて百を動けば、九十九回は顔を合わせずに済む。
そうすれば彼は満足し、俺は重用され、向こうから見れば可愛がっているとでも思っているだろう。
評価は正当。理不尽な扱いを受けたことはない。
だからこそ――虫が好かない。
わかっている。これはただの劣等感で、怒る事すらお門違いの感情だ。比べることも烏滸がましい。元々対等であったことなどない。
多分、勝手に友人だとでも思ってしまっていた。
勘違いしていた。
それだけだ。
だから。だから。……総長と聖女の婚約の告示があったのを知った瞬間、全身の毛穴が一斉に粟立った。
「リシェリア様とグラント様が婚約か。まあ、不思議じゃないな」
「どうせ政略だろ。グラント様だぞ?」
発表された告示板の廊下。静かに噂を囁き合う声の横を、何気なく通り過ぎてしまった。
「ええ?太陽と月みたいでお似合いだと思うなぁ。カイル様の方はちょっと影があるしさ……」
「おい!しっ……」
婚約。……婚約?誰が、誰と。
背筋をつたう寒気と共に、言葉の意味が頭に落ちてくる。
足を止めるべきではなかった。だが、体は反射的に歩みを止めた。
事前に知らなかった。
聞いた瞬間、崩れ落ちそうになりながら、歩き出していた。
勢い余ってセランを探していた。
あいつなら、殺気を全身にまとわせて自分の獲物を奪ったと叫ぶはず。俺の代わりに吠え散らかして、不満も不快も表現してくれるはずだ。
……それを見れば俺の留飲も多少は下げられる。
恋敵がのたうち回るのを見て、俺は冷静さを取り戻し、理性を取り戻そう。
遠巻きに見つけた彼は、驚くほど落ち着いて取り巻きの話に応じている。
しかも、慎重に言葉を選び、グラントと敵対する気配すら見せない。
目を疑った。あのセランが――。
あいつは知っていた。知らされていた。用意周到にすでに餌付けをされているのだ。
昨日までのリシェリアに、変わったところはなかった。
だが今日はまだ会っていない。今から会う勇気もない。
足早に部屋へ戻る。
閉め切った室内で、積んでおいた封書を片っ端から開け、読んだ。
日付を遡るごとに、数日前から面会の申請が繰り返され、そして最後に書面での通達。
そう――普段から、俺は彼の手紙など読み飛ばしていた。
封筒が届いた時期、封蝋の色、それに情勢の変化さえわかれば、内容など詳しく読まなくても事足りる。
届いた時間、宛書の筆致、会合での目配せ、引き連れている取り巻き。
それらを見れば、彼が俺にさせたいことは予想がついたから。
返事はいつも、是か非程度の定型の回答を返す。
手紙に書かれた時候の挨拶、丁寧に選ばれた言葉の中に一喜一憂したくなかった。
だからそのまま積んでいた。
いつもの習慣だった。
知らされていなかったのではない。
俺が、読まなかったのだ。
そして、この事態は想定できなかった。
……出来なかったんじゃない、想定したくなかったからだ。
文面は理解した。意図は……わかる。
リシェリアへは最近国外からも縁談や面会希望などが爆発的に増えていた。捌ききれるものではあるが、そもそも煩わしい。
だから牽制のための婚約。紙の上だけの婚約なんて……別に、大したことじゃない。
だが、体はその理解を拒絶した。
吐き気が込み上げ、胃の奥がひっくり返るようだった。
理性だって納得したとは言えない。
政治的な事情なら、自分でも務まるはずだ。零細でも領地持ちの貴族だ。盾くらいになって見せる。
いや……嘘だ。
筆頭公爵家ほどの財も権威もない。
諸国の王族をはねのけるほどの力まではない……これは最適解なのだ。
でも、なぜグラントなのか。
……嫌がらせなのか?
そう叫びそうになった。
ふざけた文も混ざっていた。
アスティに求婚している、という軽口めいた一節。
アスティは身分こそ高いが、グラントとアスティの二人は僚友以外の何物でもない。
つい最近配属が近くなり、連帯するようになっただけで、そこまでの繋がりはなかったはずだ。
そもそも。女好きのあの男のことだ。何人もの恋人を抱えていた彼が、リシェリアだけには一片の情も抱かないなんてことがあるはずがない。
そして――もし、彼女が許したら?
彼女はそんなに簡単な女性ではない。
そうわかっていても、脳裏にはあの偉丈夫の整った出で立ちと、巧みな言葉が浮かぶ。
これから公私ともに接する時間が増えれば、心は揺らがないか?
互いを見つめ合う時間が、やがて愛を育てるのではないか?
気づけば、そんな妄想が際限なく巡っていた。
血の気が引き、足元から力が抜けていく。
立っていられなかった。
いつものセランへ嫉妬なんて、比ではなかった。勝っているかどうかは別として、俺はあいつには勝てるものがある。
でもグラントには。
今の顔で会えば、彼女はきっと気づく。
気づかれて、心配される。
それが何より耐えがたかった。
その日は職務を切り上げた。
翌日には流行風邪の名目で、ほとんど使用していなかった領地の屋敷へ療養へ戻り、リシェリアに顔を見せずに済む理由を作った。
何もしたくなかった。
ただ、空白の時間に身を沈めることだけを望んだ。




