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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
14章 赤と黒の再燃
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番犬を飼い慣らす餌

「お呼び出しに参上しました」


「入れ」


セランとの対話の場を作ることは実に容易だった。


そもそも――セランにおいては所属も階級も自分の管理で、呼びつける名目すら不要、ただ来るように言うだけで良かった。

それよりは、方針を決めて連絡を試み始めてから一日経った現時点でも、応答のないカイルよりも扱いやすい。


カイルの方こそ、連絡をつけることに難儀していた。

最初は年若い縁戚だと可愛がっていたはずだったのに、入庁してからというものいつの間にか手綱を外れ、有能だが御しにくい存在になっていった。

出会った頃は若造だった。遊び友達のように過ごしたこともある。今はお互い社会を支える大人になってしまい、気安く付き合うわけにもいかない。


王都という場所が、私の知らぬ間に彼の何かを歪めてしまったのだと考えていた。

それでも敵対派閥に属するわけでもなく、何かを求めれば、確実にこちらの意図を汲んで確かに動いてくれる有用な存在だった。

そして聖女の担当官になってからは、さらに別の方向に舵が切られた。


カイルを変えた恋患い。

……そのことについては、これ以上思い出すまい。


「グラント様?」


思いの外、思考が引っ張られていた。

今はセランの対応だった。


机上の書類を手早く脇へ寄せ、人払いも済ませる。扉を閉めると外の喧騒はすぐに遠ざかり、この部屋だけが時間を止めたように静かになった。分厚い絨毯の踏み心地を確かめるように一歩踏み込み、陽光が差し込む長椅子を手で示すと、彼は素直に腰を落とした。


「ああ。ラトリエでは大儀だったな。快癒したようで何よりだ」


酒器は高価な貴族酒ではなく、あえて民向けの素朴な一瓶を選んだ。香ばしさが舌に残るような、野趣のある酒だ。格式を示す豪奢よりも、彼のような男にはこちらが合う。杯に注ぎ、差し出すと彼は躊躇なくそれを受け取った。


「この場は無礼講だ。崩してくれ」


告げると、私自身も椅子の背を少し崩した。

軍務上の付き合いとは異なり、セランには気負いも遠回しの探りも不要だ。


「ありがとうございます」


セランは姿勢は崩さなかったが、気負いというようなものは和らいだようだった。

幾度となく、兵として使った経験から、腹を割って話す方が早いと判断していた。書面は用意したが、読むよりも聞く方が彼には向いているだろう。


「近く、聖女に関して婚約が発表される。相手は私だ」


私が告げると、彼の眉がわずかに上がる。

驚きや怒りの色は薄く、先を読もうとする沈着な表情だ。

単なる色恋沙汰ではないと、察したらしい。


手元の紙を滑らせるが、彼は目を通そうともせず耳を澄ませる。

聞いている通りの野生だ。

書面の文字よりも、目で、耳で、鼻で。

その全身で私の声の含みを読み取ろうとしているようだった。


「聖女という役目は厄介だ」


言葉を切らさぬよう続ける。


「ただでさえ、彼女は妙齢、美貌、あの力、どれをとっても視線を集める。そこに先日起こした奇跡の話が加わって、国内外問わず手中に収めんと縁談の申し込みもうるさくなってきた。その政治的な騒がしさは祭祀の執行の邪魔でしかない」


杯を口元に運び、一息含んでから視線を戻す。


「だから簡単な話だ。有象無象は、私が盾となれば退く」


彼の瞳がじっとこちらを見据える。

読み合いに打ち勝つような問いかけは不要だ。

視線を逸らさずに言葉を重ねる。


「お前はこの後も昔馴染みとして、下世話な詮索や悪事を唆す輩に狙われるかもしれん。甘い言葉で、聖女を国外に連れ出せと間諜が接触することもあるだろう。だが――わかるな? そこに辿り着いたとて自由はない」


喉の動きで彼の反応を確かめる。


「お前はこれからも、そういうものを防ぐ壁となり、盾でいろ。以上だ」


セランは静かに頷いた。


素直でありながら愚かではない。

戦場で信頼できる兵を見つけたときのような確かな手応えが胸に残る。

彼の頷きは同意の証であり、理解の深さを示していた。


念のため、口元にわずかな笑みを滲ませて言葉を付け加える。

書面を読まない者のために念押ししておく必要がある。

さりげなく紙を摘み上げ、彼の前に晒す。


セランは読みもしなかったが、そこには書いてある。

アストリットに近づくための口実だと。


「わかってると思うが、色めいた話でもない。私には、最終的に口説き落としたいじゃじゃ馬がいるのだ。だが、なかなかに手こずっている。逃げ道を塞ぎすぎると蹴られるからな。少しずつ、こちらを見せているところだ」


「ははぁ。……成程。よく分かりました」


馬で例えた冗談に、察したようにセランの顔にわずかな喜色が滲む。

競合さえしなければこの男は気にもしないだろう。

別にアストリットの名前を出す必要もない。


“他に本命がいる”。

その真実さえ通じればいい。


書面はためらいを見せぬよう、掌の火で一瞬にして灰へと変えた。

灰受けに押し付けて火を消す所作は、ここに記録を残さぬという私の意志を示す所作でもある。


最後に、手元の杯を揺らしながら、低く言葉を落とす。


「聖女にまとわりつく噂話は、これで終わらせる。聖女の役目を終えた、ただの平民の女性には汚される名誉も、縛る鎖もない。誰と去るのも自由だ」


その言葉だけで、彼の目の奥にあった獣じみた警戒が、ひとつ抜け落ちた。


この男に必要だったのは、聖女を奪わないという約束ではない。

いつか聖女が聖女でなくなった時、彼女を人に戻して自由にさせること。


セランはしばらく沈黙してから、微笑みを浮かべて頷いた。


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