庭の留守番と新入り
遠征から戻ってきた時、セランさんは大怪我を負っていた。
血の気のない顔で担がれてきた姿を見た瞬間、息を呑んでしまったほどだ。
それ以上に、リシェリアさんの様子が心配だった。
いつも穏やかで柔らかい人なのに、その日はまるで光を失っていた。
声もかすれて、立っているのがやっとのように見えた。
「ごめん、ジェス。セランはしばらく来られない……私も看病で、そちらに行くと思う」
かすかな笑みを浮かべながらそう言われて、僕は慌てて手を振った。
「いやいや、仕方ないですよ。僕が一人で頑張ります」
そう答えたけれど、リシェリアさんは何とも言えない顔をした。
怒っているようでもあり、どこか悪戯っぽくもある、不思議な微笑み。
あの表情は、少しずるいと思う。
「ううん。代わりの人は来るから。ジェスも働きづめだから無理しないで。その人に仕事させて……特に大変そうなやつ、任せちゃって」
……大変そうなやつ?
言い方に少し引っかかりを感じたが、その時は深く考えなかった。
――そして、やって来たのがカイル様だった。
え、えええええ……!?
まさかの、カイル・ラス・アーレンス様。
王都でも色んな意味で有名な祭祀官で、しかも遠いとは言え公爵家の血筋。
そんな人が――うちの庭仕事の“代わり”!?
「……お貴族様が、来ちゃった……」
思わず呟いた言葉を、誰も拾わない。
リシェリアさん、いくらなんでも無茶振りが過ぎませんか……。
この人を、僕が使っていいってこと?
心臓がばくばくする。
それでも、仕事は仕事だ。
僕は背筋を伸ばし、できる限り失礼のないように頭を下げた。
「ど、どうも、アーレンス様ですね。大樹の木漏れ日のもと、お目にかかれて光栄です。リシェリア様より話は聞いております。庭の管理者の一人、バージェス・ラングと申します」
初めて会ったカイル様は、思っていたよりもずっと柔らかい人だった。
「ここでは新人だ。カイルでいい。敬称もいらないし礼儀は最低限で構わない。よろしく頼む」
まっすぐな声音。
威圧もなく、ただ淡々とした調子。
……この人、偉ぶる感じがない。
「はい……よろしくお願いします」
恐る恐る返すと、軽く頷かれた。
そして、ひと言。
「ちなみに……リシェリアは今日、来るか?」
「来ません」
その瞬間、カイル様の肩がほんの少し落ちた。
「そうか……」
小さく呟いて項垂れる。
あ、やっぱり。
この人、リシェリアさんが目当てなんだな。
そうだろうなぁ……。
でも、だからといって手を抜くことはなかった。
驚くほど真面目だった。
力強さはセランさんほどないし、体力もない。
けれど、飲み込みが早い。
動きを一度見ただけで要領を掴み、翌日にはもう慣れた手つきで作業していた。
「バージェス、多分こちらの方が面効率がいい」
「めんこうりつ?」
聞き慣れない言葉に首をかしげると、カイル様はスコップを止めて説明してくれた。
「ああ。同じ土地で植えられる苗の数が増えるって意味だ。風通しと間隔を調整すれば、育ちも良くなる」
その言葉を聞いて、思わず感心した。
ほんの数日で土の性質まで理解して、改善案まで出してくるなんて。
その理屈がまた的確で、実際にやってみると確かに成果が出た。
……この人、本当に貴族なのか?
泥だらけになって働いて、冗談を言う余裕すら見せて、礼儀正しく、文句も言わず。
気づけば、僕は素直に思っていた。
――この人、噂や見た目と違って……結構いい人だな。
作業の合間、汗を拭いながらふと思いついて、軽い気持ちで話を振ってみた。
「カイルさんって、使用人や兵士にもずいぶん気さくですよね」
鍬を動かしていた手がぴたりと止まる。
カイルさんは、息を整えながら顔だけこちらを向いた。
頬には土の粉、額の汗が光っている。
白衣を脱いで土にまみれていると、普段の知的な印象がだいぶ薄れて、なんだか普通の青年みたいに見えた。
「別に……気さくじゃない」
息を少し切らしながらも、淡々と返してくる。
「よほどの上位の方が相手でない限り、態度は……同じにしていると思うが」
「へえ……でも、リシェリアさんに初対面でヴェールを引っぺがして叩きつけたとか」
カイルさんがびくっとした。
「た、た……叩きつけてなんかない! 誰から聞いた!」
あ、図星っぽい。
「もちろんリシェリアさんです」
ちょっと誇張した。
元平民とはいえ、初対面の淑女のヴェールを捲りあげたなんて信じがたいけれど、あの頃のこの人の噂を考えるとしかねないとも思っていた。
なんとなく、この人をいじると面白いなと思って、つい話を膨らませてしまった。
すかした顔をしてるくせに、こういうところで素が出る。
耳までほんのり赤くなっているのを見て、笑いをこらえた。
「リシェリアか……そうだよな……」
カイルさんは鍬を持つ手を止め、少し遠くを見るような目をした。
「仲、結構いいんだな」
「僕とリシェリアさんがですか?」
まあ、雑談するくらいには。
……手を繋いだり、秘密を話したりするくらいには。
でも、それを正直に言ったら面倒なことになりそうだ。
「ま、まあまあです」
曖昧に笑ってごまかす。
だけど、ついでに聞いておきたくなった。
胸のどこかに、軽い興味があった。
「カイルさんって、リシェリアさんのこと好きですもんね」
カイルさんが、止まった。
本当に、止まった。
目を細め、半分だけ閉じたような半目になって、顔がみるみるうちに赤くなっていく。
それから、静かに息を吐いて。
「……そうだな」
その一言に、ため息が混じっていた。
照れでも、諦めでも、両方でもありそうな音。
そして、間を置かずにこちらを見た。
「まさかお前もか」
声が少し鋭くなった。
「い、いや、いえ!」
両手を上げて慌てて否定する。
確かにリシェリアさんは綺麗だし、優しい。
けれど、その土俵で殴り合うつもりは毛頭ない。
その隣に立つのは、やっぱりセランさんだと思っている。
「いえ。ただ忠告ですけど……リシェリアさんは、相当手強いです」
それを聞いたカイルさんは、苦笑に近い嘆息を漏らした。
「知っている」
その声には、どこか誇らしげな響きすらあった。
風が庭を抜けていく。
掘り返した土の匂いと春の草の香りが混じって、静かな時間が流れた。
僕はセランさんの味方のつもりだ。
それは変わらない。
でも――スコップを握るカイルさんの背中を見ていると、どうにもこの人を嫌う気にはなれなかった。




