庭に戻るための通過点
久しぶりに降りた庭には、春のはじまりの空気が満ちていた。
陽射しはやわらかく、土の匂いがほのかに甘い。
新芽の緑が風にそよぎ、遠くで鳥が歌っている。
そんな中、黒衣ではなく白い上衣を汗に濡らし、薄茶の下履きの裾を泥で汚しながら作業しているカイルの姿があった。
額にかかる髪も、陽を受けて少し明るく見える。
手の甲には土の粒、指先は荒れて、まるで少しずつ、この庭に馴染み始めた庭師のようにも見える。
私は植え込みの影に隠れて、息をひそめてそっとその様子を眺めていた。
泥まみれで、顔に少し土がついている。
それなのに、不思議と似合わないなんてことはない。
ふふ。
侍女たちに人気の、あの冷たく気取った「憧れのカイル様」も、こうして見ると案外ふつうの人。
ジェスが私に気づいて、手を振ろうとした。
慌てて口元に指を当てて「しーっ」と合図を送る。
ジェスは笑いながら、こっそり頷いた。
カイルは、今日も堆肥を混ぜる作業をしていた。
――私がジェスに「一番大変そうなのをやらせて」とお願いしておいたから。
ちょっとした意趣返し。
悪気はある。
そのくらいの権利は、私にあるはずなんだから。
「はあ……バージェス。この作業は本当に必要なのか?」
カイルのため息が春風に混じる。
「数日に一度混ぜ返すだけでいいんじゃないのか……?」
文句を言いながらも、きちんと手を動かしている。
律儀な人ではある。
腰を曲げた姿勢がどこかぎこちなくて、見ていると、少しだけ笑ってしまう。
「本当にセランもやってるのか? まさか、意味のないことをやらされて……いや、嫌がらせじゃないだろうな……」
ふっと口元が緩む。
まるで子供のようなつぶやき。
そのあと、小さく聞こえた。
「リシェリアとも全然会えないし……」
まさか、そんなことを思ってるなんて。
――ま、いいか。
そっと立ち上がり、微笑んで声をかける。
「もちろん、必要ですよ。土の中に風を通して、腐らないように、豊かにするんです」
「――あ!! わ!? リ、リシェリア!? いつ来たんだ!」
カイルが驚いてスコップを落としそうになった。
その慌てた表情が可笑しくて、つい笑ってしまう。
「少し前です。真面目にやってくださってるかなって、見てました」
「そ、そうか……」
彼は顔を赤らめながら、視線を逸らす。
けれど、頬のあたりに浮かんだ微笑みが、どこか誇らしげで、優しかった。
「……真面目にやってるよ。約束だから」
春の風があいだを抜けていく。
白い上衣の袖が揺れ、泥の匂いと土の温もりが混じった。
このお仕置きは、八つ当たりだった。
本当は、カイルの言っていたことが正しかったのはわかっている。
ただ……あれだけ揺さぶられて、泣かされて、私の弱い心をさらけ出されたから。
カイルにも、たまには格好悪くなってほしかっただけ。
もうセランも明日には療養所を出る。
その数日後には庭に戻ってくることになる。
これで、そろそろおあいこにしてあげよう。
庭を出て療養所に着くと、セランは午睡をしているところだった。
もう復帰のための回復体操を終えたはずだから、疲れたのかもしれない。
同室の患者さんたちに頭を下げて、そっと入る。
慣れたもので、みんな目だけで返してくれる。
初日は、聖女の私が来てセランの世話をはじめたから、周りもずいぶん驚いていたけれど、もう日参して二週間が経つと誰も気にしなくなってくれた。
セランの隣の人なんかは、私が顔を出せば「おい、お袋さん来てるぞ」とセランをつついてからかっていた。
今日は寝ているから、静かに。
私も近寄って寝台の横に座り込み、セランの胸に頭を乗せた。
セランが生きていてくれて――よかった。
その胸に耳を当てて、静かに響く鼓動を数える。
一度、二度、三度。
確かな音。
ああ、……生きててくれてる。
そのたびに、こみ上げてくるものを堪えきれなくなりそうになる。
あの瞬間、あの後。
もしこの音がもう聞けなかったら、私はきっと、カイルを責めていた。
怒りと悲しみとで、あの人を罵っていたかもしれない。
でも今、ここにある。
セランの命は、まだここにある。
だから――飲み込んでおくことにした。
まだお腹の中では怒ってるし、嫌気も差した。
あのセランの姿を思い出すたび、まだ震えそうに怖い。
それでも、カイルへ今まで抱いていた尊敬も、信頼も、感謝も同じくらい残っている。
だから。
全部一緒に丸めて飲みこむ。
「リーシェ。また寝てる……何しに来てんの。寝るなら帰れよ」
声がして、頬をつままれた。
半分夢のなかにいた意識が、ゆっくり浮かび上がる。
セランはもう、ずいぶん元気を取り戻していた。
王都に戻ってからは、軽めの治癒を受けては薬や清めを繰り返して、あとは食べて寝る。
包帯越しの腕を軽く動かしながら、不器用に笑っている。
その笑顔が見られるだけで、胸が温かくなる。
「ここがいいの。ここだと、よく眠れるの」
セランが生きている場所だから。
生きてる匂いのする場所だから。
「俺の方はお前のせいで、うるさくておちおち寝てられねえよ」
呆れたような声。
けれど、優しさがにじんでいた。
「うるさいって何。寝てるだけでしょ」
思わず頬を膨らますと、セランが笑った。
「リシェは起きてても寝てても、うるさいんだよ」
そのまま、猫でも撫でるように私の顎に触れてくる。
その仕草があまりにも自然で、私は猫のように頬を寄せてしまった。
本当に、私そんなにおしゃべりじゃない。
静かにしている方が得意なのに。
それなのに、どうしてそんなふうに“うるさい”なんて言うのだろう。
拗ねるように見上げても、セランはもう答えなかった。
その笑みの奥に、少しだけ名残惜しさが見えた。
「明日の朝から俺は兵舎に戻るんだから。これでおしまいだぞ」
ぽつりと、静かに言う。
わかってる。
これ以上は甘えすぎてしまう。
セランはそれ以上何も言わず、いつものように、私のわがままを黙って受け入れてくれた。
その優しさに甘える。
私はもう一度、彼の横に身を預けて、最後のまどろみに落ちていく。
ねえ、セラン。
明日からは、もう泣かないように頑張るね。
自分の足で立って、自分の痛みも、自分で癒せるように。
人を救うだけじゃなく、自分も救えるような聖女になるから。
「うん。……また、庭でね」




