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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
13章 雨上がり
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療養所の苦い幸福

目が覚めたとき最初に見えたのは、リシェのつむじだった。


「リシェ……無事か」


喉が掠れてうまく出ない声で、そっと呼んだ。

反応がない。


目だけで窺うと、衣の袖を涙で濡らして、俺の怪我の少ない方の肩に頭を乗せ、子どものように小さく、静かに寝息を立てていた。


息をついた。


無事でよかった。

安堵が胸の奥に落ちる。

髪を撫でてやろうとしたが、腕はまるで他人のものみたいに動かない。

重くて、痛くて、ただ、そっと彼女の髪の香りを吸い込むことしかできなかった。


焦げた匂いに混じって、いつものリシェの香り――緑と水と花の甘さ。

その変わらなさに、安心からか眠気が誘われた。


もう一度眠りに落ちて、次に気づいた時には、馬車の上だった。

車輪が石畳を踏むたび、体が軋むように痛んだ。


リシェは近くに座っていて、俺が呻くたびに、何も言わず手を添えて癒しの光を流してくれる。

その手の触感が、どんな薬よりも心に沁みた。


「前みたいに、ぱっと治してくれたらいいのに」


リシェがうたたねをしている隙に、子供みたいな愚痴をそっと呟いたら、パシンと頭を軽く叩かれた。


アスティだった。


リシェの向かいに最初からいたらしく、反対側から覗く黒髪が額に落ち、呆れた目がこちらを射抜く。


「無茶言わないで」


声は冷たくても、その奥には疲労と安堵が混じっていた。


「リシェリアも相当使い果たしてるの。それでも“寄り添う”って聞かないから、倒れない程度にだけ許してるんだから」


彼女はそう言ってから、少し声を和らげた。


「いや、それも違うわね……あんたにも無茶させてごめん。それと、リシェリアを守ってくれてありがとう」


俺は小さく首を振った。

そんなこと、礼を言われる筋じゃない。

リシェを守るのは、当然のことだ。

それが俺の生きる意味だから。


「守れたんならよかったさ」


ようやくそれだけを返して、眠るリシェの手のひらを、そっと握り返した。

冷たくて、小さくて、それでも確かにあたたかい。

その感触を感じながら、また目を閉じた。


王都に戻って怪我は癒されても、体力は戻らなかった。

筋肉が落ち、動かせば軋む。

まだ庭の土を掘り返すことすらできない。


シルヴィナスの医療は、治癒の異能でそれができたとしても、無理やり完全な状態まで治すことはさせない方針らしい。

危機を脱したら、基本的には自分の体に治癒させる。

高位の異能者に依存しない社会の仕組みというものらしい。


好きにすりゃいいが……リシェの治癒に慣れていた俺にとっては、不便でならない。

怪我をしても、すぐに立ち直り、また外敵に立ち向かうしかなかった昔を思えば、まどろっこしいことこの上ない。


そのせいで、今までしたことがないくらい寝台に括り付けられている。

便所すらままならない。

体を損なうことは、こんなに大ごとだったのだと、生まれて初めて実感させられていた。


そして庭に戻れない間、俺の代わりにカイルが労働を課されていると聞いた。


……なんだそれ。


よりによって、あいつが?

俺の場所を取るみたいで気分が悪い。


でもどうやら、それはリシェからカイルへの“仕置き”らしい。

俺が寝ている間に何をやらかしたのかは知らないが、ジェスには後で「あいつに好き勝手させないでくれ」と言っておこう。


とはいえ、悪いことばかりでもなかった。

怪我の功名ってやつか。

今回の功績で、下士官試験を免除され、療養後に従士として取り立てられることが決まった。

本来なら数年かかるところを、一段階飛ばして。


リシェの隣――その景色が、ようやく見えてきた。


それに。

療養所での毎日が、悪くなかった。


特別に許されて、リシェが頻繁に見舞いに来てくれる。

聖女が一兵の療養所に通うなんて、本来ならありえないはずなのに。


世話を焼いて、笑って、俺の寝台の隣に座って。

人の前でも、リシェと話せる。

笑って、寄り添って、咎められない。


そのたびに胸がじんわりする。

情けないほどに幸せだった。


「熱がありそう」


額に触れるリシェの手は、まるで雪解けの水みたいに冷たくて心地よかった。

指先がすべるたびに、火照った皮膚の上を風が撫でるようで、それだけで熱が少し引いていくような気がする。


俺はその手の感触を逃したくなくて、顔を寄せて目を閉じた。

その手のひらの冷たさに、体の奥が静まっていく。

息をするたびに、リシェの匂いが鼻の奥をくすぐった。


草の香、湧き水の匂い、微かに果実の甘さが混じる――懐かしい香り。

あの森で生きていた頃から、ずっと俺の中に焼き付いている香りだった。


「痛いの、すぐなくなるからね」


柔らかな声が耳元に落ちる。

痛みに呻くと、彼女の手がその箇所を探して滑ってくる。

衣の上からそっと触れられるだけで、そこが内側からほぐれていくような、くすぐったいような感覚が走る。


思わずその手を探して握ると、リシェは少し驚いたように目を瞬かせ、それから優しく握り返してくれた。

指のあいだをすべるような、穏やかな熱。

その一瞬だけで、世界に痛みも恐れもなくなったように思えた。


「ほら。口開けて」


あーん、と匙を差し出すリシェ。

柔らかな煮物の匂いが鼻先に漂う。


「……いや、自分で食えるって」


そう言いながら、匙を奪う勇気もない。

頬をわずかに引きつらせて、嫌そうな顔をしてみせるけれど、心の中ではどうしようもなく嬉しい。

匙を口に含むと、温かさと優しさが同時に胸に広がる。


「セラン。ほら、出して」


その声に顔を上げると、彼女は湯桶を持っていた。


「……いや! 自分でできるって!」


抵抗も虚しく、俺はみんなの前で靴下を脱がされる羽目になった。

足湯の湯気が立ちのぼり、聖女の手が俺の足を洗う。

周りの視線が刺さる。


……これはさすがに、正直に。

恥ずかしい。


聖女を傅かせるなんて、王でも許されるか怪しい。

まして俺がやっていいことじゃない。


「絶対だめ。傷が閉じきってないから、屈ませたらだめって、医務の先生が」


そう言って眉を寄せるリシェの真剣な顔に、何も言えなくなる。

力の使い方が粗いリシェが、こんなにも慎重になっている。

前に村の医者の爺さんから学べなかったことを、今になって取り戻そうとしているんだろう。


……だから、黙ってされるがままになるしかなかった。


リシェは、本来ならこんなところにずっといる必要なんてない。

暇もない。

けれど、リシェは帰らないで、空いた時間は最大限俺に使ってくれていた。


夕刻の勤務を終えてから、俺の横に座って、今も静かに編み物をしながら、傍にいる。


糸を操る彼女の指先が、時折光を反射して揺れる。

その様子を眺めているだけで、まどろみが訪れる。

安心で、嬉しくて、満たされて――こんな安らぎがこの世にあるのかと思うほどだった。


目を覚ますと、腹の上に小さな重み。

見ると、リシェリアが頬を俺の胸に預け、無防備に寝息を立てている。

頬に光るのは――よだれ。


思わず笑いをこらえながら、その頬を軽くつまんでやる。

ふにゃりとした感触。

反応もなく、ただ寝息が規則正しく続く。


その髪を撫で、頬にかかった髪を指先で払う。

それだけで胸が温かくなって、心が満たされていく。


ああ、これが幸福ってやつだ。

俺は確かに、愛されてる。

この時間が永遠に続けばいいのにと思う。


ただ――胸が苦しいほどにわかることもある。

リシェからの親愛はすでに完成していて、恋はまだ入り口の手前で立ち尽くしている。

触れられるほど近くにいるのに、その先へ踏み出せていない。


そばにいればいるほどに嬉しくて、苦しい。

なんとか甘い雰囲気に持ち込みたくても、今は体はままならないし、人目が多い。


――はやく日常が戻ってきてほしい。


そうすれば、もう一度、同じ空の下で、新しい一歩を始められるはずなんだ。


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