療養所の苦い幸福
目が覚めたとき最初に見えたのは、リシェのつむじだった。
「リシェ……無事か」
喉が掠れてうまく出ない声で、そっと呼んだ。
反応がない。
目だけで窺うと、衣の袖を涙で濡らして、俺の怪我の少ない方の肩に頭を乗せ、子どものように小さく、静かに寝息を立てていた。
息をついた。
無事でよかった。
安堵が胸の奥に落ちる。
髪を撫でてやろうとしたが、腕はまるで他人のものみたいに動かない。
重くて、痛くて、ただ、そっと彼女の髪の香りを吸い込むことしかできなかった。
焦げた匂いに混じって、いつものリシェの香り――緑と水と花の甘さ。
その変わらなさに、安心からか眠気が誘われた。
もう一度眠りに落ちて、次に気づいた時には、馬車の上だった。
車輪が石畳を踏むたび、体が軋むように痛んだ。
リシェは近くに座っていて、俺が呻くたびに、何も言わず手を添えて癒しの光を流してくれる。
その手の触感が、どんな薬よりも心に沁みた。
「前みたいに、ぱっと治してくれたらいいのに」
リシェがうたたねをしている隙に、子供みたいな愚痴をそっと呟いたら、パシンと頭を軽く叩かれた。
アスティだった。
リシェの向かいに最初からいたらしく、反対側から覗く黒髪が額に落ち、呆れた目がこちらを射抜く。
「無茶言わないで」
声は冷たくても、その奥には疲労と安堵が混じっていた。
「リシェリアも相当使い果たしてるの。それでも“寄り添う”って聞かないから、倒れない程度にだけ許してるんだから」
彼女はそう言ってから、少し声を和らげた。
「いや、それも違うわね……あんたにも無茶させてごめん。それと、リシェリアを守ってくれてありがとう」
俺は小さく首を振った。
そんなこと、礼を言われる筋じゃない。
リシェを守るのは、当然のことだ。
それが俺の生きる意味だから。
「守れたんならよかったさ」
ようやくそれだけを返して、眠るリシェの手のひらを、そっと握り返した。
冷たくて、小さくて、それでも確かにあたたかい。
その感触を感じながら、また目を閉じた。
王都に戻って怪我は癒されても、体力は戻らなかった。
筋肉が落ち、動かせば軋む。
まだ庭の土を掘り返すことすらできない。
シルヴィナスの医療は、治癒の異能でそれができたとしても、無理やり完全な状態まで治すことはさせない方針らしい。
危機を脱したら、基本的には自分の体に治癒させる。
高位の異能者に依存しない社会の仕組みというものらしい。
好きにすりゃいいが……リシェの治癒に慣れていた俺にとっては、不便でならない。
怪我をしても、すぐに立ち直り、また外敵に立ち向かうしかなかった昔を思えば、まどろっこしいことこの上ない。
そのせいで、今までしたことがないくらい寝台に括り付けられている。
便所すらままならない。
体を損なうことは、こんなに大ごとだったのだと、生まれて初めて実感させられていた。
そして庭に戻れない間、俺の代わりにカイルが労働を課されていると聞いた。
……なんだそれ。
よりによって、あいつが?
俺の場所を取るみたいで気分が悪い。
でもどうやら、それはリシェからカイルへの“仕置き”らしい。
俺が寝ている間に何をやらかしたのかは知らないが、ジェスには後で「あいつに好き勝手させないでくれ」と言っておこう。
とはいえ、悪いことばかりでもなかった。
怪我の功名ってやつか。
今回の功績で、下士官試験を免除され、療養後に従士として取り立てられることが決まった。
本来なら数年かかるところを、一段階飛ばして。
リシェの隣――その景色が、ようやく見えてきた。
それに。
療養所での毎日が、悪くなかった。
特別に許されて、リシェが頻繁に見舞いに来てくれる。
聖女が一兵の療養所に通うなんて、本来ならありえないはずなのに。
世話を焼いて、笑って、俺の寝台の隣に座って。
人の前でも、リシェと話せる。
笑って、寄り添って、咎められない。
そのたびに胸がじんわりする。
情けないほどに幸せだった。
「熱がありそう」
額に触れるリシェの手は、まるで雪解けの水みたいに冷たくて心地よかった。
指先がすべるたびに、火照った皮膚の上を風が撫でるようで、それだけで熱が少し引いていくような気がする。
俺はその手の感触を逃したくなくて、顔を寄せて目を閉じた。
その手のひらの冷たさに、体の奥が静まっていく。
息をするたびに、リシェの匂いが鼻の奥をくすぐった。
草の香、湧き水の匂い、微かに果実の甘さが混じる――懐かしい香り。
あの森で生きていた頃から、ずっと俺の中に焼き付いている香りだった。
「痛いの、すぐなくなるからね」
柔らかな声が耳元に落ちる。
痛みに呻くと、彼女の手がその箇所を探して滑ってくる。
衣の上からそっと触れられるだけで、そこが内側からほぐれていくような、くすぐったいような感覚が走る。
思わずその手を探して握ると、リシェは少し驚いたように目を瞬かせ、それから優しく握り返してくれた。
指のあいだをすべるような、穏やかな熱。
その一瞬だけで、世界に痛みも恐れもなくなったように思えた。
「ほら。口開けて」
あーん、と匙を差し出すリシェ。
柔らかな煮物の匂いが鼻先に漂う。
「……いや、自分で食えるって」
そう言いながら、匙を奪う勇気もない。
頬をわずかに引きつらせて、嫌そうな顔をしてみせるけれど、心の中ではどうしようもなく嬉しい。
匙を口に含むと、温かさと優しさが同時に胸に広がる。
「セラン。ほら、出して」
その声に顔を上げると、彼女は湯桶を持っていた。
「……いや! 自分でできるって!」
抵抗も虚しく、俺はみんなの前で靴下を脱がされる羽目になった。
足湯の湯気が立ちのぼり、聖女の手が俺の足を洗う。
周りの視線が刺さる。
……これはさすがに、正直に。
恥ずかしい。
聖女を傅かせるなんて、王でも許されるか怪しい。
まして俺がやっていいことじゃない。
「絶対だめ。傷が閉じきってないから、屈ませたらだめって、医務の先生が」
そう言って眉を寄せるリシェの真剣な顔に、何も言えなくなる。
力の使い方が粗いリシェが、こんなにも慎重になっている。
前に村の医者の爺さんから学べなかったことを、今になって取り戻そうとしているんだろう。
……だから、黙ってされるがままになるしかなかった。
リシェは、本来ならこんなところにずっといる必要なんてない。
暇もない。
けれど、リシェは帰らないで、空いた時間は最大限俺に使ってくれていた。
夕刻の勤務を終えてから、俺の横に座って、今も静かに編み物をしながら、傍にいる。
糸を操る彼女の指先が、時折光を反射して揺れる。
その様子を眺めているだけで、まどろみが訪れる。
安心で、嬉しくて、満たされて――こんな安らぎがこの世にあるのかと思うほどだった。
目を覚ますと、腹の上に小さな重み。
見ると、リシェリアが頬を俺の胸に預け、無防備に寝息を立てている。
頬に光るのは――よだれ。
思わず笑いをこらえながら、その頬を軽くつまんでやる。
ふにゃりとした感触。
反応もなく、ただ寝息が規則正しく続く。
その髪を撫で、頬にかかった髪を指先で払う。
それだけで胸が温かくなって、心が満たされていく。
ああ、これが幸福ってやつだ。
俺は確かに、愛されてる。
この時間が永遠に続けばいいのにと思う。
ただ――胸が苦しいほどにわかることもある。
リシェからの親愛はすでに完成していて、恋はまだ入り口の手前で立ち尽くしている。
触れられるほど近くにいるのに、その先へ踏み出せていない。
そばにいればいるほどに嬉しくて、苦しい。
なんとか甘い雰囲気に持ち込みたくても、今は体はままならないし、人目が多い。
――はやく日常が戻ってきてほしい。
そうすれば、もう一度、同じ空の下で、新しい一歩を始められるはずなんだ。




