公女がやるべき後始末
嵐が消えたあとの静寂は、耳が痛いほどだった。
地面にはまだ、雨の湿りが残っていた。陽が差し込み始め、瓦礫に溜まった水が銀に光る。
崩れた屋根の残骸と水たまりを踏み分けて、私たちはまた主祠堂へ戻った。
建物の中に入って床に降ろされた途端、リシェリアは駆けていく。
衣の裾を焦がし、髪を乱しながらも、まっすぐにセランのもとへ。
その瞳には、もう迷いも怯えもなく、ただ一つの意志が宿っていた。
「リシェリア、貴女のほうは大丈夫なの」
追いついて声をかける。相当に疲弊しているはずだ。一日、休む間もなく異能を使い続けている。
「大丈夫。カイルが手伝ってくれたから。だから……お願い。私にもセランを助けさせて」
息が詰まる。
あれだけのことをやって、なお立っていること自体が異常だった。
なのに彼女は、まだ他人のために力を振るおうとしている。
人ではなく聖女という生き物だ、と思った。
けれどその目は、誰よりも人間だと思い直した。
「リシェリア。こっちだ」
カイルも遅れて追いつき、横に並んだ。
簡易的につくられた救護場所を示し、促すように彼女の腕を取って導いた。
「そこを少し空けてくれ。これより聖女の恩寵を賜る」
彼の声も張り詰めていたが、乱れはなかった。
さっきの諍いが、嘘のように互いの息がぴたりと合っている。
この二人の連携は、もはや誰も口を挟めるものではない。
リシェリアは泣きそうな顔で、それでも泣かなかった。
白い手がセランの胸に触れ、微かな光が零れ出す。
「セラン。待たせてごめん。痛いのを抑えるね」
囁きが空気を震わせ、男の苦悶に歪んだ表情が、少しずつ解けていく。
……ただ、いつものような穏やかさまでは戻らなかった。
光が揺れ、リシェリアの体もわずかに震えている。
その限界を察したのか、カイルが即座に動いた。
「よし、すぐ始めよう」
「私は……どうすればいいですか」
か細く問う彼女に、カイルは穏やかに、だが指先まで精緻な動作で指示を出した。
「リシェリアは血を止める方をやるんだ。ただし、止めすぎるのはよくない。血の道が繋がったら、すぐ流れを戻す」
リシェリアは素直に頷く。
そのやり取りには、もう以前のような緊張はなかった。
――少なくとも、表面上は。
「君たち、合図をしたら息を合わせて、一気に枝を抜いてくれ。そっちは怪我人の保定だ。血が止まっている間に、医務官らが治癒する手順で」
短く命じていくカイルの声に、現場の空気が一気に締まる。
邪魔にならぬように切り落とされた枝が、血に濡れて鈍く光っていた。
「いけます」
誰かが応えた瞬間、場の呼吸がひとつに揃う。
静寂のなかで、祈りにも似た手順が始まった。
「脛からやろう」
「三拍数えたら抜け」
「一、二、三!」
「抜けました!」
「止血。いいというまで」
リシェリアが手をかざす。
赤黒い流れが、まるで意志を持つように止まる。
「そっち清めて」
「繋いだ」
「次、抜去する」
「止血」
「脛の治癒終わってます」
「肩だ」
淡々とした声。
命令ではなく、祈祷の詠唱のようだった。
枝が抜かれ、血を洗い、光が幾重にも重なる。
肉が閉じ、血の通いが戻っていく。
「止血やめ。流してくれ」
最後の患部が終わる。
その言葉とともに、リシェリアの掌からふたたび赤が巡った。
青ざめていたセランの頬に薄い血色が戻る。
眠るような安らぎが、そこにあった。
「とりあえず、これで喫緊の危機は脱しました」
医務官のひとりが呟いた。
その声が、やっと世界に音を戻した。
私も、見つめて止めていた息を深く、吐く。
自分への防護はできないと言いながら、言い方を変えれば守りを固められる。
血を止め、流れを戻す。霊樹に子株を生やす。思ってもみなかったことを、思いついただけで、言われただけで成すことができる――それも彼女の“異能”なのか。
今までの異能者のなかに、そんな常識はなかった。
嵐を鎮めたあの大きな奇跡に比べれば、些末なことなのかもしれない。
だがそれらを、こんなにも穏やかにやってのける姿は――恐ろしくて、美しかった。
「リシェリア。これで、セランも一旦大丈夫だ。王都に戻って安静にしていれば、すぐよくなる」
カイルが振り返ってリシェリアに告げる。
カイルにも疲労が見えたが、この旅で一番、緊張が解けたように見えた。
セランの命を盾にしてリシェリアに発破をかけていたのだから、無事に済んだことに心底ほっとしたのだろう。
「……よかった」
リシェリアも、心の底から安心したようだった。
リシェリアの肩がふっと落ちた。
「おっと」
そのまま糸の切れた人形のように力を失い、崩れ落ちそうになるのを私はあわてて駆け寄って受け止めた。
「リシェリア様! 殿下、代わります」
侍女のラファが駆け寄って私からリシェリアを受け取ろうとするのを断る。
「いいよ。セランの横に長椅子を並べて。そこで休ませるから」
部屋の空気がわずかに和らいだ。
目覚めたとき、二人が互いの無事を確かめ合えたなら――せめてこの危険を背負わせたことへの償いになるだろうか。
嵐雲が払われていくのを、一歩引いたところで私は見ていた。
いいや。セランの負傷も、リシェリアの慟哭も、カイルが手を尽くして人を救おうと動いているのも、私は見ていただけだ。
私も責任は負っている。
多くの民の人生を背負っている。
それでも、この三人もまた、私が守りたい内側の存在で、友人だった。
胸の奥に、鈍い罪悪感が残る。
セランは命を繋いだに過ぎず、まだ危うい。
町も表面上は無事に見えるが、嵐の爪痕は深い。
これ以上ここで治療を続けることはできない。
生やしてしまった子株だって、速やかに切除して王室に渡さなければならない。
予定していた任務はすべて中止だ。
早馬や伝令を飛ばし、王都へ帰還と任務中断の報告をするしかない。
命じながらも、頭の片隅では別の思いが離れなかった。
――この奇跡を見たのは、私を含め町にいたほぼ全員だ。
あの高台で皆に見えるように奇跡を起こして見せたのだから。
「聖女が嵐を消した」と、すぐに国中を駆け巡るだろう。
そして、その熱がどんな形で王都に届くかを思うと、胸がざわめく。
リシェリアに、影のように寄り添ったカイルが、彼女に何をしていたのか。
私が見たことを問いただすのは、……もう少し後にするしかない。
嵐の去った空の下で、私の仕事は――むしろこれからが本番になるのだから。




