終わりを告げる白銀の星
北の丘の見晴らし台に着く頃には、町を覆う膜の外で黒雲がまた一段と色を増して蠢いていた。
俺も、危ない橋を渡る。
俺がこれから使うのは――他人の心を覗く、禁忌に近い知覚の技だ。
公には決して許されない。
一般的には、執行官が罪人に対してのみ行う類の行為だ。
理解できる者が見れば、すぐに分かってしまうだろう。
祭祀官として謗られる。
地位を失ってもおかしくない。
それでも、やる。
選択の余地はない。
高台の見晴らし台に、リシェリアを立たせる。
少しでも、世界を見渡せるように。
足元では風が唸り、雨の名残が石畳を滑っていく。
遠くではまだ雷鳴が尾を引いているが、この場所だけが奇妙に静かだった。
リシェリアは振り返る。
震える指で髪をかき上げ、背中の結び目をほどく。
うなじから肩甲骨にかけて、淡く光る聖痕が現れる。
風に濡れた髪が張り付き、青白い光がその下で脈打った。
「どうぞ」
その声に、息が詰まる。
「リシェリア。もう一度だけ、君を借りる」
言葉を吐いた瞬間、自分でも悟った。
――これが、彼女に許された形で触れられる最後かもしれない。
そっと近づき、背に手を添える。
冷たい。
けれど、その奥に確かに熱がある。
支えるように寄り添い、額を聖痕に押し当てた。
祈るように。
懺悔するように。
そして――抱きしめた。
これが最後でも、悔いがないように。
「始めます」
静かに告げて、知覚の奥で目を開く。
――世界が裏返った。
リシェリアに借りた視界で、空を仰ぐ。
そこには、風の流れ、水の流れ、無数の粒子が渦巻いている。
リシェリアが天に手を伸ばす。
彼女の視界を通じて見えるものが、俺の中にも流れ込んでくる。
彼女が意識を傾けた瞬間、空の中の水が灯り始めた。
夜空の星のように、ひとつ、またひとつと。
「こんな感じですか?」
「いや、まだ。もっと見えるはずだ」
俺はリシェリアの知覚に焦点を合わせる。
余分なものを削り落とし、解像を上げる。
「見る必要のないものは消す。もっと小さいものを見よう」
世界の階調が減る。
白と黒だけの、静かな世界。
光と影だけで成り立つ領域。
「ほら、見えた。リシェリア。これを全部掴んで」
「はい」
その返事と同時に、全ての水の粒子が制御下に入る。
重力も風も無視して、空気がひとつの意志に支配されていく。
「これで全部です」
リシェリアの呼吸に、かすかな必死さが混じる。
これほど広範囲だ。
彼女でも、さすがに苦しいのだろう。
でも、もっとできるはずだ。
「左右は? 上下は? 頭の後ろも全部捕まえた?」
「……カイルは、やっぱり注文多いです」
くすりと笑う声。
少し緊張はほぐれてくれたようだった。
けれど同時に、空の輝きが一気に増す。
夜空の星ではなく、もはや銀河。
光の河が回転し、冬の天球のように渦を描いて広がっていく。
――美しい。
息を呑む。
言葉では表せないほどの、秩序と混沌の融合。
「完璧だ」
その言葉に応じるように、リシェリアがすべてを静止させる。
風が啼く。
止まりたくないと、喉を裂くように。
ふと、空が暗くなった。
気がつくと、俺は――色を失った世界にいた。
白と黒の、反転した浜辺。
生臭い潮のにおいが立ち上る。
音もなく、波紋のような光が足元で揺れる。
……ここに――また、来てしまった。
リシェリアの意識の底――あの“幼い世界”だ。
それでも、頭上には彼女が灯した星々が瞬いている。
あれから数回、石室の中だけで、リシェリアに許されて知覚を繋ぎ、彼女の意識に接続してきた。
それでも、ここに来てしまうことは決してなかったのに。
空は、止まろうとする水の粒子と、抗う風の圧で拮抗して、激しく震えだしている。
だって、リシェリアは今、現実で『起きている』。
眠っていたり、酔っていたりして心が無防備なわけじゃないのに。
集中しすぎて、自意識がないのか?
わからない。
わからないけれど……とにかく、まずい。
一刻も早く、出て行かなければならない。
これは見てはいけない白昼夢だ。
『お空、きれいだね』
ぞわり、と背筋を撫でるような声。
振り向くと、そこに――幼いリシェリアの顔をした少女が座っていた。
澄んだ瞳が、まっすぐ俺を見ている。
けれど、その凍りついたような薄い青色は、この無彩色な世界でなぜか鮮やかに見えた。
「君は……何なんだ」
そう思わず問いかけて、喉を押さえた。
今日は声が、ある。
喉を押さえた手も。
海に引き込まれそうな引力を感じて、体感覚が存在していることに驚く。
違う。
違う、違う。
……今はそんなことを気にしている時じゃない。
心象世界なら、俺は観客でしかない。
見えるのは、過去や情景の再演のはずで。
もし会話できるとしたらそれこそ、リシェリアが意識的に受け入れている時だ。
リシェリアの意識は、現実で他のことをしているのに。
この少女は、なぜ俺を認識して、語りかけてくるんだ!?
怖い。
そして、どうしたらいいかわからない。
「これはいったいどういう」
そんな俺を無視して、彼女は、小さな手のひらを指折り、何かを数えるように動かした。
『たくさん、揺らしたね? びっくりした。でも、まだ足りないかな。……また、ね』
そう言うと、彼女はぷいと反対を向き、海のほうに手を伸ばした。
その先に、波が起きるのが見えた。
何が足りない?――と今度は問う暇もなく、大きな波が視界を遮り、一瞬で世界が遠ざかっていく。
あわてて彼女を掴もうと伸ばした手は、届かなかった。
――パァン。
「出来た!」
破裂音と共に、知覚していた光たちが外に弾けていくのが見えた。
いつの間にか、俺はリシェリアの視界からも追い出されて、自分の異能だけで現実の空を仰いでいた。
目を開けると、まぶしいほどの光。
氷の粒が弾け、空一面に舞い散る。
陽光を受けて、昼の流星のようにきらめいていた。
ああ、太陽。
久しぶりに見た。
「あは、出来ちゃった! あんな大きなもの……風も雲も。みんな消えちゃった! ふふふ」
そして、その光の中で――リシェリアがいつになく、幼く笑っていた。
俺には、それだけで眩しかった。
頬に淡く色が戻り、唇に息が宿る。
彼女は、疲れたように、でも確かな声で言った。
「はあ、……流石に……くたびれちゃいました。でも。まだ起きてられます。力も残ってます。……カイルのおかげで。あと十人くらいは治癒だってできそう」
「強がり言っても、へたり込んでいるじゃないか」
「それは、カイルが私ごと抱えて座り込んでいるからです」
「そうか。そうだね。……俺も緊張の糸が途切れたんだ」
控えていた警護の兵が駆け寄ってくる。
立ち上がれないほど疲弊した俺たちを担ぎに。
彼らが駆け寄ってくる前に、リシェリアがぽつりと呟いた。
「……カイルには。王都に戻ったらしばらく、セランの代わりに庭仕事を手伝ってもらいますからね」
その笑みは、優しくて、少しだけ泣きそうで。
――それは、俺に与えられた赦しの印だった。
担当を変えなくてもいいという、彼女なりの言葉。
嵐は、粉々に砕けて消えていた。
空は晴れ渡り、陽光が地を照らす。
氷片が光を跳ね返し、町の屋根を白銀に煌めかせていた。
ただ、静かだった。
あの怒りも、悲鳴も、すべてが遠い幻のように。
世界は――再び、息をしていた。




