暗闇を打ち払う檄
なんて――格好つけた男だろう。
咄嗟の危機に、あんなふうに駆けつけるなんて。
理屈よりも先に身体が動いて、危険を打ち払う。
なんて、格好良いんだろう。
命を投げ出しても、好きな女を守るなんて。
俺には……何も出来ない。
敵うはずもない。
セランは、リシェリアのためだけに生きている。
こんなふうに、走ってくる理由さえ、彼女のためにあるような男だ。
俺は――違う。
俺は、リシェリアだけのためには生きていない。
だからこそ、あの純粋さに届かない。
あんな風には、決してなれない。
息を吐き、空を仰ぐ。
天蓋の外、黒い闇が蠢いている。
嵐の残滓。
まだ都市を呑み込むことを諦めきれず、ほんのわずかな隙間でも見つければ再びこの町に戻ろうと狙っているようだ。
その粘り気のような悪意が、膜の向こう側で脈動していた。
この異常な嵐はなんなのか。分霊樹、そしてそれを守ろうとする聖女を執拗に狙っている。
この暗さは、あの虫――虚質が生み出す闇にも似ていた。
町の門の方に目を向ける。
そこも闇に閉ざされ、ほとんど視界が利かない。
風の侵入は防がれているが、水が、下から押し寄せようとしている。
地の底からうねるように。
――まだ、終わっていない。
礼拝堂の中では、リシェリアがうなだれていた。
叫び、泣き、力を使い果たして、魂の抜け殻のようになっている。
それでも、兵に拘束された腕を僅かに動かし、セランが運び込まれる方向に身を乗り出そうとしていた。
あの目は、もういつもの穏やかさじゃない。
何かを失えば壊れてしまう、ぎりぎりの縁にいる。
俺が近づくと、リシェリアは顔を上げた。
血の気を失っていた頬が、一瞬だけ明るくなる。
「カイル。セランは――」
「リシェリア、お疲れ様。大丈夫だ、まだ生きている」
その言葉を聞くやいなや、彼女の瞳に再び熱が戻る。
「そう、早く治さないと……だめなの。ねえ、離してください。もう落ち着きましたから。カイル。離してくれるように言ってください!」
兵士たちが視線を俺に向ける。彼らも困惑していた。
腕の中で暴れる聖女をどう扱っていいかわからず、怯えたような目をしている。
俺は一拍置いて、リシェリアを無視して兵士に言った。
「保定はそのままで頼む」
その声に、場の空気が凍る。
「どうして!?!」
リシェリアの声が悲鳴のように跳ねた。
縋るように俺を見上げるその瞳に、絶望が滲む。
その熱に、俺は呑まれてはいけない。
「君にはセランを治させない」
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「他の者が手当てするから任せて欲しい。……君には、まだ先にやってもらうことがある」
リシェリアが、呆然と俺を見つめる。
唇が震え、言葉を失っている。
「嵐を完全に止めるんだ」
その一言を告げたあと、礼拝堂の外で、再び雷が低く鳴った。
まるで、それがまだ終わらないことを告げるように。
「あ、……後でやります! もちろん! 約束します! だから先に。お願いだから!」
「いや、許可できない。力を、少しも無駄にできないんだ。嵐は石室よりも、ずっと大きいから」
「無駄!? ……セランが、無駄だっていうんですか!?」
火花が散るかのように、リシェリアが声高く喚いた。
リシェリアの瞳に、初めて見る怒りの色がひらめいたように見えた。
対照的に、主祠堂の空気が凍りつくように冷えた。
「!?」
保定していた兵士が寒気に驚き、小さく後ずさる。鎧の縁に薄い氷紋が走る。
物理的に、冷えていっているのだ。
リシェリアの瞳も凍りつくかのように、急速に白く濁っていく。空気に冷気が混じり、吐く息が白くなる。
……とりあえず、一段階進んだ。
俺は目線で兵士に離していいと示す。
リシェリアの悲痛と恐怖に混乱した意識を、怒りに塗り替えた。次に進ませるための燃料だ。
たとえ彼女に恨まれても、この決断を通さねばならない。好きな女の傷口に、さらに刃を押し込むような行為だと自覚はある。……それでも、今は必要なことだと自分に言い聞かせる。
淡々と、感情は隠し、事実だけを並べる。
怒りを扱うなら、こちらが激情に呑まれてはいけない。
「リシェリア。聞いてくれ。セランはまだ死んでない。でもこのままなら死ぬ」
彼女の唇が震える。涙が光る。
「だから……」
「わかるはずだ。異物は治癒に混ざる。まず、あの枝を抜かないといけない。でも抜いたら死ぬ。……あの枝が、今は傷口を塞いでいるからだ。大きな血管を傷つけていれば、抜いた瞬間に間に合わないほど出血する。……治癒を始める前に命が落ちてしまう。これは医療に任せる範囲だ」
リシェリアは何かを言いかけた。俺は先を遮るように続ける。言葉でリシェリアを現実へ引き戻すために叩きつけるように。
「……治します。近いくらいの大怪我……治したことだって」
「そうか。リシェリアは凄いな。それで、何十回治した? 成功率は? 必要な時間は? 部位は同じ? 力はどのくらい使う?」
言葉を次々と投げていく。優しくないのはわかっている。だが、優しさではこの場は動かない。
「それは」
リシェリアが何かを言おうとしたところに、さらに重ねる。これが対話ではなく制圧なのだと自分に言い聞かせる。
「無理矢理傷口を塞いでも、失った血や体力まではすぐ戻らない。熱も出る。身体は弱る。あの状態なら、治した後も目を離せない。それよりも一刻も早く王都に戻して静養させたほうがいい。教えたと思うけれど、シルヴィナスの外傷医療は諸国の中でも得意分野だ」
最後に、天蓋の唸りを指差す。外の空気が、まだ崩れかけている。
「セランを先に治してからだって……」
「いつもみたいに異能を無駄使いして無理やり癒すつもりかい? そうやって雑に治して、その後嵐を止めたとする。……止められるだろうか? 止められてもまた気を失うかもしれない。だけどセランのあの状態なら、治した後でもそれなりに癒しを継続する必要がある。帰りの行程でも」
石室の時、リシェリアは力を使い果たした。倒れる公算は高い。
「君が倒れれば、その後の処置を続けられない。目を覚ました時には、セランはもう死んでいるかもしれない。そうなれば、君は死に目にも会えない」
「カイル」
あまりの物言いに、アスティが、少しだけ咎めるような視線で後ろから呼んだ。
彼女は途中から事の重大さを理解したのだろう。俺の意図を汲み取ったように黙って立っていてくれていた。
リシェリアはアスティを見て、助けを求める目をする。
「アスティ……セランは」
アスティは答えず、悲痛な顔だけを向けた。
「彼だけを助けて、閉じ込められたまま嵐が過ぎるのを待つ? この異常な天候、何もかもわからないが、どのくらいで晴れるだろうね。他にも怪我人がたくさんいる。彼らも救わないとならない。無事な市民だって、家を失ったりしている」
俺は畳み掛けるように続ける。冷徹に、しかし確かな説得の調子で。
「セランの手当は他の者が担う。君が嵐をおさめて戻るまで必ず彼の命を取り留める。……今だって全力を尽くしてる」
言葉は現実を並べるだけだが、その現実が重い。
「リシェリア。君は聖女なんだ。誰か一人だけを選んで救うのではだめだ。より多くを救うんだ。君にはそれができる」
リシェリアは、顔を歪めて責めるように俺を見た。理不尽に晒された、可哀想な少女がそこにいた。
「前にカイルが言ったんじゃない。……聖女は全ての人を救わなくてもいいって。縋られるための存在じゃないって……」
「そうだ。君は救世主じゃない。何もかも救わなきゃいけない義務も責任もない。だけど、それはできるのにやらなくていい理由でもないんだ」
アスティが初めて口を開いた。
「……リシェリア。セランは任せて。必ず、助ける。だから……リシェリアも、私たちを助けて欲しい」
アスティは深く頭を下げた。下げるべきではない王族の頭を。
リシェリアは小さく震え、喉を詰らせるように嗚咽が混じる。
「聖女なんてならなければ……」
彼女が吐き捨てるように、涙を流した。
「セランが死んだら……きっと。私はカイルを恨みます……」
その言葉が胸の中で針のように刺さる。
「うん。そうしてくれ。……さあ。嵐をどかして早く帰ろう」
言い放ったあと、脳裏に浮かぶのは、リシェリアに自分が与えた傷の深さだった。
それでも、今はこれが正しい。
リシェリアの心に消えない傷を刻み、一生恨まれるかもしれない。叶わないものなら、それもいいのかもしれない。
自嘲気味に思った。




