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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
12章 大嵐
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聖女の心は頽れる

多分、少し前から――

視界の端に、赤い残像が走っていた。


雷光の閃きのように速く、地を蹴るたびに雨を弾く。

その赤い影は、飛来する枝を何本も剣で弾き払い、回転の勢いを利用して軌道を変える。


剣で逃した破片を片手でいなし、全身の筋肉をばねのように使って、幹を駆け上がっていく。


大きな丸太のような瓦礫を踏み台にしては、次の瞬間にはさらに高く。

その動きは獣じみていて、嵐の中でただ一つ、圧倒的な軌跡を刻んでいた。


リシェリアのいる高さまで――たった数息のうちに、駆け上がった。


風の刃を裂き、光の破片を抜ける。

彼が剣を振るたび、雨が煙のように散った。


そして。


その背に、足に、いくつもの槍のような枝が突き立つ。

飛来物の勢いそのままに、肉を貫き、身体を幹に縫い止める。


それでも――倒れなかった。


その姿勢のまま、彼は両腕を広げ、リシェリアの前に立ちはだかるようにしていた。


次の瞬間、嵐の鳴動が止んだ。


風が、息を止める。

浮かんでいた瓦礫が一斉に落下し、激しい音を立てて地に散った。


世界が、息を吹き返す。


リシェリアが幹に手を置いたまま、光を放っている。

祈りの終わり――いや、成就の瞬間。


満たされた。

その実感が、空気全体に広がる。


春が駆け抜けるようだった。

分霊樹の枝という枝に、柔らかな新芽が一斉に芽吹く。

青白い光が、葉脈の隅々まで満ちていく。


そして、見えない半球の天蓋が生まれたように、空気そのものが形を持ち、嵐を拒む。


外からの風が、その境界で弾かれる。

まるで町全体が透明な膜で包まれたように――嵐は、それ以上入ることができなかった。


ただ、その外側では、なお黒い雲が足掻いている。

諦めきれず、町の結界に爪を立てるように。


それでも、もう確かだった。

この町に、二度と嵐は入れない。


分霊樹の幹がうねる。

まるで、自らに刺さった棘を嫌がるように。

治癒の力が走り、木の皮が再生しながら、異物を押し出していく。


枝はセランの身体を貫いたまま、幹から離れた。

縫い止めていた支えを失い、彼の膝が崩れる。


どさ、と重い音。

リシェリアの足元に、セランが膝をつくように落ちた。

赤が、青白い光ににじみ、瞬く間に混ざった。


「セラン!」


誰の声だったのか、わからなかった。

俺の声かもしれなかったし、誰かの絶叫が、自分の喉を通った気もした。


礼拝堂全体を包んでいた静寂が、アスティの怒号によって破られる。


「聖女保護! 次に怪我人だ! 医務官、治癒が使える官は支度をしろ! そこを開けろ!!」


その声が一帯に響く。

兵士たちが一斉に動き出す。

叫びも、命令も、祈りも、嵐の後の混乱の中に入り混じった。


リシェリアが振り返る。

ただ――その目は、何かが欠けたように、ゆっくりと、遅れて現実を追いかけていた。


……リシェリア。


瞳の奥が崩れていくのを、俺は遠目に見ていた。

血の気が引き、唇が震え、彼女の口がかすかに動く。


「……いや……セラン。……なんで」


声が届かなくても、わかる。

あの口の形だけで、痛いほど伝わった。


「――ッ!」


次の瞬間、喉の奥から裂けるような叫び。

声にならない、悲鳴だけが空気を震わせた。

リシェリアはその場に崩れ落ち、膝を抱くように、地にへたり込む。


誰も、すぐには動けなかった。

だが次の瞬間、兵たちが殺到した。


リシェリアを抱きとめ、巨木の根の上から下ろそうと手を伸ばす兵。

それとは別に、セランを運ぶための担架が用意され、医務官と兵が根を登っていく。


その瞬間――リシェリアが我に返った。


「いや! いや、待って! ……治すから! それ……抜いて!」


その声は、痛切で、掠れていた。

雨のように涙を流しながら、彼女は身を乗り出す。


「聖女様、大丈夫。大丈夫です」


誰かが宥めようとしたが、リシェリアは聞かない。


「連れて行かないで……お願い、セランに触らないで!」


「すぐあいつも下ろしますから。まずは」


泣きながら叫び、腕を伸ばす。

だが兵士がそれを押さえ、彼女の身体は抱えられるようにして地に降ろされた。

羽交い締めにされながら、それでも抵抗をやめなかった。


その光景を見ながら、胸が締めつけられる。

誰もが動揺していた。

……俺も。


俺も遅れて側扉から外へ出た。

ちょうど、担架に乗せられたセランが礼拝堂へ運び込まれていくところだった。


入れ違う一瞬に、その状態が見えた。

肩、太腿、脇腹、脛――複数箇所を貫通されている。

出血量は多いが、まだ息はある。


アスティが駆け寄り、短く息を吐いて言った。


「カイル。リシェリアを落ち着かせておいて。あんな状態じゃ治させられない。……私はセランの具合を見てくる」


その声には焦りと苛立ち、そして一抹の苦味が混じっていた。

彼女はそれだけ言い残して、セランに連れ添い医務官のところへ駆けていった。


わかっている。

どんな偉大な異能でも、理性がなければ制御を逃す。

とてもこんな状態の彼女に癒しをさせるわけにいかなかった。


残されたリシェリアは――泣き叫んで、息の苦しさに、倒れ込んでいる。

もはや聖女とは呼べなかった。

そこにいたのは、誰かを失いそうな、ただの少女だった。


その声が、あまりにも哀れで、誰も、何も言えなかった。

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