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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
12章 大嵐
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聖女の番犬は打ち払う

俺は――分霊樹が光り始めるのを、公会堂で怪我人の護送を終えたところで見た。


胸の奥が熱くなった。

あの光は、きっとリシェだ。

どんな嵐の中でも、あいつの祈りは必ず届く。


「おお、なんとかなったんだな」


隣で一緒に祭器の破損を見た同僚が、ほっとした声をあげた。


そうだ、リシェなんだから当然だ。

そして、リシェが樹を癒している。

あれが回復しているなら――もうリシェに危険はない。


……はずなのに。


なぜだろう。安心が、胸に湧かない。

理屈ではそうだと分かっているのに、俺の体は別のことを訴えていた。

皮膚の下で、野生の獣がまだ牙を剥いている。

“終わってない”――本能がそう告げている。


空を注視する。

風の味が、強まっている。


嫌な匂いがする。

雷と、血と、焦げた木の匂いが混じっている。


鎧の金具を外す。

小手も、肩当ても、次々と脱ぎ捨てた。

重い。邪魔だ。

この風の中では、軽い方がいい。


「セラン、俺たちは今から主祠堂へ向かうが、お前は治療でここに残ってもいいぞ」


同僚が俺の火傷を見て言った。

鎧の下、腕の皮膚が焼け爛れていた。

祭器を叩き落とした時の熱。名誉の負傷なんて言葉じゃ済まない痛み。


……けど、聞いている暇なんてなかった。

もう猶予はない。


「いや、先に戻る」


言葉を吐くと同時に、剣だけを手に取る。

あとは全部、置いていく。

体が勝手に前へ動いていた。


主祠堂へ合流する一団が整列するより早く、俺はもう走り出していた。

誰かが制止する声も、後ろへ流れた。


分霊樹の方角へ。駆ける。


嫌な気配が、どんどん濃くなる。

中心に近づくほどに、風は鋭く、空気は薄くなる。

重力が減り、地面が遠くなる。

浮き上がる感覚。嵐がこの世界をまるごと持ち上げようとしている。


身を低く。四足の獣みたいに地を這え。

爪を立ててでも進め。


もっと早く。


顔を上げられないほどの風圧。

それでも、あの光がある。

リシェの匂いが、確かにある。

それだけで十分だ。


先ほどの落雷現場を抜ける。

打ち捨てられた祭器が転がっている。

地面は黒ずみ、まだ焦げた匂いの残る道を一足飛びに進んだ。


視界が開ける。

主祠堂を見つける。

その陰に、飛び込む。


もう見えるはずだ。


分霊樹が光っていた。

その根元に――リシェ。

幹に寄り添うように立つ彼女の姿は、息が詰まるほど神々しかった。


光の中に包まれたその姿を、俺の中の獣が喜ぶ。

けれど、人間の俺は――怒りに震えた。


盾の兵士がいない。……誰も守っていない。

どうしてリシェを、あんなにも無防備に晒しているんだ。


風が、雷が、あいつを狙ってる。

嵐の殺意が、あの細い体に向かって突き刺さってくるのが分かる。


なぎ倒されていたのか、幹にしがみついている兵が必死に登ろうとしているのがちらと見えた。

そんなんじゃ間に合わねえ。


考えるな。

感じてる暇もない。

体にすべてを任せる。

全ての思考を置き去りにして、足が勝手に動く。


瓦礫が浮き、枝が空を切る。

それを噛み砕くように折りながら、俺は駆け上がる。


さっき見た雷のように。あのくらい早く。

 

雨を弾き、地を蹴る。


飛来する枝はすべて叩き落とせ。

剣で弾き、腕で逸らし、回転の勢いを利用して軌道を変える。

残った破片は手で、足で、時に肩で受け止めてでも――止める。


大きな丸太ほどの瓦礫を踏み台にして、さらに上へ。

筋肉が裂けそうでも、止まれない。


ようやく――

リシェのいる高さまで辿り着いた。

嵐の中で、息が詰まるほど眩しい光の中で、


ああ。

やっと、隣に来た。


こんなに近いのに、まだ俺が来たことにすら、気が付いていない。

背後に何が起きているかもわからないほどに集中している。

そうして、誰かのために使命を果たしている。


じゃあ、俺も。


リシェの命を、誰にも渡さない。

どんな枝も届かせない。

リシェが使命を果たせるように、俺もやってみせる。


まだまだ飛来してくる枝を、全部叩き落とす。

剣が折れそうでも止めない。


払う。

弾く。

蹴り落とす。

庇う。

守る。


一本を弾けば、次が来る。

次を蹴り落とせば、その陰からさらに細い破片が飛ぶ。

数が多すぎる。

それでも止まるわけにはいかなかった。


手首を強打されて、剣が打ち払われてしまう。

頭突きして。噛みついて軌道を逸らして。腕でも足でも受けて勢いを殺す。


それでも、まだ終わらない。

間に合わない。

太く、重く、速い枝がリシェを狙う。


ドス、ドス、ドスと重い音が体内に響いた。


「……かはっ」


リシェをかばって、背に、脚に、脇腹に熱いものが広がった。

杭打たれたように動けなくなった。


それでも、まだ動ける。

手を広げて少しでも大きくなれ。

屋根になれ。

少しでも、リシェを覆え。


刺さって貫通したらしい枝が、俺の体を幹に縫い留めていた。

だが、……それでリシェの方に倒れこまずにすんだ。


同時に、分霊樹が満たされていくのを感じる。

光が、体を透過していく。

空が晴れていく。


嵐が遠くに退き、雷鳴が遠のく。

風の匂いが変わる。

血と土の匂いの中に、春の香りが混じる。


ああ、終わったっぽいな。


痛みが遅れて押し寄せた。

体のあちこちが焼けるように痛い。


血の味が口に広がる。

急速な引き潮が意識を引きずり込む。


「セラン……? なんで」


遠くで、リシェの声がした。


おう、今頃気が付いたのかよ。

俺はお前の……騎士だからな。


返事しようにも、何かが詰まったように声すらでてこない。

 

くそ、抱きしめたいけど、枝が邪魔だな。


それだけ考えて――もう、意識は保てなかった。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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