異例の祈り
礼拝堂のすぐ外には、もう電気の痕跡は残っていなかった。
嵐の目の中に入ったのか、外縁よりここはむしろ静かで、風は少ない。遠方では暴風が吠え、町全体を壁のように閉ざしているのが見える。外界の騒擾が嘘のように、この場だけは守られている――そう信じたくなる静けさだった。
側扉からリシェリアが屋外に出た。
俺は建物の中に留まり、窓越しにその姿を追った。分霊樹の幹に手を触れるため、彼女はゆっくりと近づいていく。兵が足場を作り、持ち上げるようにして根を上がらせ、幹の側面に沿って立たせた。
彼女を囲む空気がすっと変わる。礼拝堂の中に残る者たちも、窓からじっと見守っている。息を殺したような静寂が広がり、みな緊張と期待で縛られていた。
盾役だった護衛兵らは、リシェリアの直近ではなく、下に控えていた。根は濡れて滑り、幹へ近づくほど足場は細くなる。大柄な盾役を無理に上げれば、かえって彼女を巻き込んで落ちかねなかった。
落下などに備える位置で配置されているのは、現実的には妥当だったのだろう。
もしかしたら、礼拝堂からは聖女の奇跡の場がよく見えるよう、わざと視界を開けておいたのかもしれない――そんなふうに感じるほど、こちらから見通しが良かった。
リシェリアがこちらを振り返り、『始めますね』とでも言うように会釈をして、幹に向き合った。
幹に寄り添って手を添える。静かに、祈るように、まずは分霊樹の癒しを始めていく。
空気が澄み、清廉な匂いが満ちてくる。水のようにひんやりとした気配が広がり、その奥から、温かなほの青い光が集約していく。
幹から枝へ、葉へ、根へと――分霊樹が彼女の手によって急速に姿を取り戻していくのが見えた。
薄暗い空の下だからなのか、不可視の霊的な樹影が肉眼に映し出されたように、光り輝いていく。
その光景は、これまで俺が見てきた彼女の“部分”ではない。あれが彼女の力の、ほんの一端ではなく、本質に近いものなのだと、胸が震えるほどに分かった。
誰かが思わず感嘆の声をあげる。声はあちこちで連なり、やがて大きくなっていった。
その声が大きくなったのだと思った。
だが、違った。
膨れ上がっていたのは、人の声ではなく、甲高い風の音だった。
風が、雨が、また強まっている。嵐が暴れようとしている。
分霊樹を守ろうとした力に逆らうように、嵐の中心はさらに収縮し、暴力的にこちらへ向かってくる。リシェリアの顔に、焦りが浮かんでいる。彼女はまだ、満たしきれていないのだ。
外縁の民家が軋み、傾きはじめた。瓦が風に巻き上げられ、屋根が剥がれていく。俺は咄嗟に公会堂の方を振り返る。建物はまだ耐えている――この町は対策に長けているはずだ、どうか持ちこたえてくれと心の中で祈る。
「聖女様!」
突如、すさまじい暴風が襲いかかる。幹の途中にいた兵士たちが次々と吹き飛ばされ、幹にしがみついていた者も投げ出される。登り直す間もなく、彼らは風に押し流された。
リシェリアだけは幹に寄り添い、必死に耐えている。細い糸のように見えるその姿を、俺は凝視した。
再び太い雷鳴がうねり始める。空気自体が唸り、地は小刻みに震えた。嵐の声が地面を叩き、世界が揺れる。
「リシェリア!」
もう声にできるのはそれだけだ。
ここで止めれば、分霊樹は戻らない。町を囲う嵐も解けない。それを理解しているのに、戻れと叫びたかった。
逃げろと命じたかった。
だが風がそれを許さない。音は割れ、距離は伸びる。窓の内側から見ているだけの俺に、届かせられるものは何もなかった。
あの石室で見た闇が、瓦礫を巻き上げて中心へ向かっていた。分霊樹をなぎ倒そうと、リシェリアを引き裂こうと、嵐はその牙を剥いている。
瓦礫と折れた枝が、まるで虫を払うように乱暴に振り払われ、兵士の脇の地面に突き刺さる。盾役の兵が根を登ろうとしているところを阻み、呻きがあがる。刺さったら終わりだ――そんなものがそこにある。
視界の端に、影がひとつ鋭くよぎった。
それは、ひときわ大きく、鋭利な枝だった。殺意を帯びたように黒光りしている。
それが、リシェリアの細い身体に向けて、一直線に飛んだ。




