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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
12章 大嵐
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絶やさぬ希望

分霊樹のたもと、主祠堂の前。

ここで全員が待つ必要はなかった。

現地の祭祀官に門を開けさせ、人員を中に誘導する。

俺はその場に残り、霧雨に霞む道の先を見つめた。

リシェリアたちの姿が、ここへ辿り着くのを。


正直、あの集団の中に留まりたくなかった。

祭器を失った失望が、誰の顔にも色濃く滲んでいる。

沈黙が重く、息が詰まりそうだった。

誰かが口を開けば、その重さで音が割れそうに思えた。


破損した祭器は、本来ならこの主祠堂に安置されるはずだった。

町の中心、分霊樹の根元に隣接するこの場所で、祭祀官はそれを使い日々奉納を行っていた。今日、持ち込んだ新しい祭器が置かれるはずだった供台は、再び空のまま取り残されている。


祭器さえあれば、誰でも大樹に力を捧げることができる。たとえ聖女リシェリアがここに来るまでに力を使い果たしていたとしても、町は復旧に一歩近づいていたはずだった。


その祭器が失われてしまった以上、皆の希望はリシェリアに重くのしかかっている。


疲弊と落胆、そして縋るような祈りの空気。人の心を癒し宥める技能は俺にはない。それよりは、次の一手に一秒でも早く取り掛かりたい。


そしてほどなく、その鍵である存在が近づいたのを感じた。


……来た。


湿った風が頬を撫で、白い霧が流れる。

その向こうに、リシェリアたちの一団が見えた。


灯りも持たぬのに、不思議と光って見える。

――知覚ではなく、感覚として。

あれを“信仰”というのかもしれない、とふと思う。

信仰心が薄いと自認している自分がそんなことを考えるなんて、滑稽だ。

自嘲めいた笑みが漏れる。


門番にアスティを呼びに行かせ、俺は門前で待った。

アスティもすぐに現れ、並んで立つ。


その直後、霧の中からリシェリアの姿が現れた。


「カイル、アスティ。お待たせしました」


声は疲れているのに、柔らかく澄んでいた。


「無事でなにより。皆もご苦労だった。入って少し休んでくれ」


労をかけながら兵たちに礼を言う。

危険の少ない外縁を歩かせたとはいえ、怪我なく帰ってきたことに胸を撫で下ろした。


そして、リシェリアに向き直る。


「リシェリア。連続で済まないけど、念のため建物……外壁に沿って“固めて”おきたい」


俺はアスティに目で合図を送り、防護をさせることを示す。

リシェリアが対象を自分自身にしないのなら問題なく出来るということを見せておきたかった。


「少し大きいけど……薄く、壁を塗るような感じで。窓や扉の部分は開けておこう。まだ最後の仕事があるから、力を無駄に使わないように」


「ええ……はい……。少し、ご注文が多いですね……」


リシェリアがわずかに眉根を寄せる。

その表情に、緊張の合間の人間らしさを見て、思わず苦笑が漏れた。


「大丈夫。リシェリアならできる」


彼女は小さく息を吸い、壁に手を触れる。

指先から光がゆっくりと滲み、石壁に溶けていく。

知覚を通せば、それは完璧な防護だった。

半日程度の籠城なら耐えられる。そう判断できるほど、膜は均一で、揺らぎがなかった。


……嵐が、本当に去るのなら。


アスティもそれを確認し、頷いた。

「とりあえず、これでここも安全は確保できた」


「ああ、それで、リシェリア。すまないけど――雷が落ちて……持ってきた祭器が壊れてしまったんだ」


「え!あの」


「大丈夫。かすり傷の者はいるけど、大きな怪我人はいない。終わった後に余裕があれば看てもらうが、公会堂には医務官もいるから心配はいらない」


彼女が怪我人の有無を案じることは分かっていたので、言葉を被せるようにして先に告げた。

リシェリアは真面目に頷いた。

受け入れるような、穏やかな表情だった。


兵士たちの幾人かには火傷があった。遠目に、セランにも泥と焦げ跡が見えた気がする。だが、少なくとも自力で動けないほどには見えなかったし、公会堂には医務官もいる。今ここでリシェリアにセランの名を出せば、彼女の意識は必ずそちらへ逸れてしまう。言わないでおくことを選ぶ。


俺は本題に入った。


「うん。それで祭祀ができなくなった。市民はいないが、兵や祭祀官たちが動揺している。今後の方針をここで話しておきたい」


アスティが言葉を継ぐ。


「言うからには何か案があるのよね?」


「ある」


即答した。もちろん、ある。

俺は絶望していなかった。

ただ、あまり知られたくなかっただけだ。


「リシェリアは、実際には祭器なしで力を奉納できる」


アスティが目を瞬かせる。


「ああ。そういえば……出会ったときの祠堂でもそうしてたわね」


リシェリアが頬を染めて、控えめに頷く。


「実際には、ずいぶん拙かったですけど……」


「知っていたか。なら、良かった。リシェリアにとっては、祭器があれば操作しやすいだけだ」


俺は息を整えながら言った。

防護の件で冷や汗をかいた後だけに、アスティがその力を理解していたことに安堵する。


「まあ、主祭器がないことで、今後の祭祀が滞るのは引き続き避けられないが……当面は問題ない。次の祭器が届くまで持つように、霊質を補給してもらう」


「なるほどね。じゃああまり問題はないのね」


アスティが安堵したように言った。


「どちらかというと、開示していいことなのか測りかねる」


俺は本音を漏らす。


祭器は、祭祀庁が力を測り、整え、管理するための道具でもある。

それを介さず、聖女が直接分霊樹へ力を通せる。

事実としては救いだが、制度の側から見れば、あまりに扱いに困る力だった。

リシェリアは常に例外の存在だ。

祭祀庁の中でその評価は一定せず、扱いを誤れば騒ぎになる。


「後で考えよう。この人員だけなら箝口令で済む」


アスティは即座に答えた。

未来より今を動かすことに特化したその思考。

先を見据えすぎないのは、ある意味、彼女の強さだ。


「わかった。じゃあ、リシェリアを少し休ませてから始めよう」


そう言って、俺たちは会談を終えた。


礼拝堂の扉が軋みを立てて開いた。

濡れた空気と共に、外の嵐の音が一瞬だけ流れ込む。


その先頭を、アスティが歩いていく。

堂内に響くその足音は、どこか戦場の行進のように力強く、落胆の気配が満ちた空間に確かなリズムを刻んでいく。

兵も祭祀官も、その音に自然と姿勢を正した。


続いて入っていくリシェリアは、静かだった。

ただその歩みは――まるで儀式そのもののように、ゆるやかで澄んでいた。

濡れた裾が床石をかすかに擦り、白い指先が胸元で静かに重なる。

彼女の周囲を流れる空気が柔らかく変わり、閉ざされていた息苦しさがほどけていく。

まるで安らぎを引き連れて歩いているようだった。


冷え切った主祠堂の中に、微かな風が生まれる。

香の煙がふわりと揺れ、誰かの嗚咽が静まり、空気が一変した。


アスティが前に進み、振り返って声を上げた。


「皆、待たせた。――聖女が戻った」


その一言で、堂内の沈黙がほどけた。

疲労と絶望に覆われていた顔に、かすかな光が戻る。

誰もが聖女を見て、息を吸い、安堵の色を浮かべた。


アスティは祭壇の前に立ち、濡れた外套を脱ぎながら静かに頭を下げた。


「祭器を破損したこと、私の不徳の致すところだ。皆の尽力に応えることができず、済まなかった」


その声は落ち着いていた。

責任を自分のものとして引き受ける、その姿勢に嘘はない。

本来、雷による破損は誰のせいでもない。

それでも指揮官として頭を垂れるのは、彼女の矜持だ。


だが、そこで顔を上げたアスティの瞳は、冷たい光を宿していた。


「だが――絶望する必要はない。聖女がここにいる」


一拍置いて、言葉を続ける。


「聖女リシェリアは、大樹に選ばれし真の聖女。祭器なくとも、ラトリエの分霊樹を癒すことが能う」


その宣言が、主祠堂の天井に反響した。

驚き、戸惑い、そして信じたいという感情が人々の顔に混ざる。

アスティの声音には少し芝居がかった響きがあったが、それでいいのだろう。

この場には、確信よりも“信じる理由”が必要だった。


リシェリアは口を挟まない。

静かに一歩進み、裾を持ち上げて深く礼をする。

その仕草は穏やかで、荘厳ですらあった。

光が差したように、人々の表情が和らいでいく。


アスティが最後に声を低め、厳かに告げた。

「ただし――その奇跡の場に同席した者、皆。軽率に囀るな。ここで見たものは、必要な時まで胸に納めよ」


その瞬間、堂内の空気が再び静まった。

祈りにも似た沈黙。

誰もが息を潜め、聖女が起こすものを待った。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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