盾になれない番犬
後続の部隊が次々と到着し、祭祀庁の職員や市兵、役人たちが公会堂に流れ込んでくるにつれ、張り詰めていた場の空気が少しずつ変わっていった。
嵐は相変わらず荒れている。
壁を叩く雨音も、窓を鳴らす風も、少しも弱まっちゃいない。けれど、人が揃えば声が増える。声が増えれば、ただ怯えて立ち尽くしているだけじゃなくなる。誰がどこへ行くのか。どの道が使えるのか。どこに怪我人がいるのか。何を守ればいいのか。そういうことが、一つずつ形になっていく。
地図の上に手が伸び、線が引かれ、名前が呼ばれる。濡れた外套の匂いと泥の匂いが混ざる中で、祭祀庁の連中も、市兵も、役人も、それぞれの知っていることを出し合っていた。
俺には正直、細かい理屈は分からない。けれど、ばらばらだったものが段々と一本にまとまっていくのは分かった。
……やっぱり、適材適所ってやつだ。
カイルもそうだった。
普段は鼻持ちならない。何を考えているのか分からない顔で、こっちの言葉を先回りして潰してくるような奴だ。気に食わないし、リシェの近くにいるだけで腹が立つ。
けど、こういう時のあいつはちゃんとしているように見える。
誰の報告を先に聞くべきか、どの情報を切り捨てるべきか、誰を動かせばいいのか。声を荒げるでもなく、淡々と場を整理していく。
俺みたいな力仕事担当には到底真似できない。腕力でどうにかできるものなら俺がやる。でも、言葉と段取りで人を動かす力は別だ。
認めたくはないが、認めざるを得ない。俺の出る幕はない。
やがてアスティも合流し、現場全体の方針が固まっていった。
濡れた髪を払いもせず、彼女は状況を聞き、必要なところだけを確認して、すぐに判断を下していった。祭祀庁と市の指揮系統が一本にまとまり、ぐずついていた空気が、ようやく動く直前の張り詰めたものに変わる。
リシェが護衛と祠堂を巡り、町の根だか霊脈だかを通じて分霊樹を癒していく。その間に、別働で祭器を準備して、本命の分霊樹で合流する。そういう段取りらしい。
生憎、リシェの護衛には、風除けのために彼女を覆い隠せるほど体格のいい奴らが選ばれた。俺は呼ばれなかった。
仕方ないことだ。俺よりでかく、壁になるのに向いた奴がいる。いま必要なのは、リシェを雨風から守って、儀式の場所まで確実に運ぶことだ。そこに感情を挟む余地はない。分かってる。分かってはいる。
それでも、リシェの隣に立てないというだけで、胸の奥に鈍いものが沈んだ。
――俺には俺の出来ることをするべきだ。
リシェの隊が出ていくのを見送って、自分の配置に戻ろうとした時だった。
「は!?……出来ない!?」
聞き逃せない声が響いた。
アスティの声だった。けれど、俺の知っている感情じゃない。いつもなら多少のことでは揺れない余裕をもっている女だ。その声に、はっきりと動揺が混じっていた。
足が止まる。
その直前、俺の耳には確かに聞こえていた。ただの音としてしか聞き流していた言葉の断片が、遅れて頭の中で形を作る。
「まずいな。リシェリアは、……自分に防護はできない……」
……何を言ってるんだ。
胸の奥が、一瞬で冷えた。次の瞬間、焼けるように熱くなる。兜の下で顔が歪むのを、自分でも抑えられなかった。聞きたくなかった。そんなこと、考えたくもなかった。
自分を癒せないのは知っていた。
だからあいつを怪我させないようにしてきた。リシェが痛い思いをしないように、俺が前に出た。石が飛んでくるなら俺が受けた。獣が来るなら俺が斬った。人が手を伸ばすなら俺が払った。リシェの力は、リシェ自身には向かない。だから俺が盾になる。それは昔から、当たり前だった。
けど、前とは違う。
今は異能の使い方を習っている。教わって、訓練して、リシェは前よりずっと自分の力を知っているはずだった。兵士の中にも簡単な異能を使う奴はいて、防護は素朴な技だと聞いたことがある。異能持ちなら、まず自分を守るところから覚えるものだと。
……もちろん、異能が万能じゃないのは知ってる。
意識が必要だから、展開する前に殴れば倒せる。強度も術者の技量に左右される。長く維持できるものでもない。使い方を間違えれば隙にもなる。俺だって、そのくらいは分かっている。
でも、リシェだから。
あれだけの力があるリシェだから。もうそれなりには使えると思っていた。勝手にそう思い込んでいた。
なのに、今でもリシェは自分を守る術を持たないと言った。
それじゃ、一番危険なのは、リシェじゃないか。
嵐の中心で、雷の落ちる祠堂で、誰より大きな力を使う彼女が――身を守る術を持たない。
盾の役に、俺が志願すればよかった。
風除けだろうが何だろうが、理由を作ればよかった。隣に立てるように食い下がればよかった。俺がいれば絶対に大丈夫だなんて、そんな綺麗なことは言えない。けれど、少なくとも俺は、リシェに降ってくるものを自分の体で受けられる。
アスティが小さく息を吐いた。
「はぁ……流石に死者は癒せないからね。即死者が出ないことを祈るしかないわ……」
それは現実を見ている指揮官の言葉だった。
冷静で、正しい。どれだけリシェの力がすごくても、死んだ人間は戻せない。だから即死者を出さないよう祈るしかない。言っている意味は分かる。分かるのに、俺の胸にはまったく響かなかった。
……そうだ。
心配なのは、リシェの怪我だけじゃない。
そりゃあ、リシェが少しでも傷つくなんて、考えるだけで吐き気がする。雨に濡れて震えるだけでも本当は嫌だ。血なんか流したら、俺は正気でいられる気がしない。
でも、本当に恐ろしいのはそれだけじゃない。
もし、リシェが理性を飛ばすような“何か”があれば。
彼女が自分でも抑えられないほどの恐怖や痛みを受けたら。それこそ何が起きるか分からない。リシェは優しい。人を傷つけることを怖がる。だからこそ、普段は自分で自分を抑えている。けれど、その抑えが外れたら。
彼女が我を忘れて“暴走”するようなことがあれば――町の一区画が消えてもおかしくない。
流離い始めた頃に、数回あったことだ。
誘拐されたり、不意打ちで俺が打たれて引き離されたり。
俺が駆け付けた頃には、賊の根城には何もなくなってリシェだけが倒れていた事がある。
痕跡なんか血の一滴も落ちていないほどの更地。
俺は現場を見たことはないし、結果しか知らない。リシェも何も覚えていなかった。
それでも、リシェが空っぽにしたことだけは直観が告げていた。
だから。だから、それからは。
俺は人を寄せ付けないようにしたし、リシェは人里に下ろさないことを徹底した。
「白い魔女を捕まえたといっていた一味がいなくなった」
「強い異能のガキを売りに来るって言ってた取引をすっぽかされた」
素行の悪いやつらの消息は、そのくらいしか興味を持たれていないから、その時は大したことにはなっていない。明るみになったとしても俺の仕業で構わない。
……だが、こんなところでそんなことが起きようものなら、隠しようもない。
聖女どころか、魔女どころか。災厄として人の記憶に刻まれてしまう。
掌にじっとりと汗が滲む。皮手袋の中で、指が冷えていく。嵐の音が遠くで唸っていた。風が壁を叩くたびに、公会堂の梁が低く軋む。その音が、どこかで不気味に笑っているように聞こえた。
一つ目、二つ目。
光の柱が立つたび、公会堂の中に安堵が広がった。誰かが息を吐き、誰かが大樹の名を呟く。祠堂の一つが無事に癒されたのだと、祭祀庁の職員が地図に印をつける。市兵たちの肩から、少しだけ力が抜ける。
けれど俺の胸の奥だけは、少しも軽くならなかった。
窓の外に、三つ目の光の柱が立った。
暗い雲を貫いて、白金の閃光がまっすぐ空を裂く。雨の幕の向こうで、それだけははっきりと見えた。まるで町そのものが息を吹き返すみたいに、白い光が嵐の中に立ち上がっている。
あれが見えるということは――リシェには何事もない。
まだ無事に、勤めを果たしている。
俺は唇を噛み、胸の奥で小さく呟いた。
「あれがあるなら、リシェは無事」
信じるしかない。
リシェの傍にいる盾役の兵たちを。彼女を守ると命じられた奴らを。そして、あの光そのものを。
雷鳴が鳴るたび、首の後ろの毛が逆立つような感覚があった。音が怖いわけじゃない。雷が落ちる前に、空気の匂いが変わる。鉄を舐めたような、鼻の奥に刺さる匂い。雨粒の冷たさとは別に、皮膚の上を細い針で撫でられるような気配。
……嫌な予感だ。
勘でしかない。理屈なんかない。ラトリエに来るまでは何も感じていなかった本能が、俺に警告を上げ始めている。
「セラン!何してる、お前もだ!」
離れた場所から、祭器の運搬班の編成に呼ばれ我に返った。
「……っ。了解です!」
祭器の詳しい理屈は、俺には分からない。
どの器にどういう意味があって、どの順で運ぶ必要があって、どう力を通すのか。そういうことは祭祀官の領分だ。俺が口を出せることじゃない。
けれど、あれがなければ終わらないということだけは分かる。リシェがいくら祠堂を巡っても、分霊樹の力を取り戻しても、あれがなければこの町を嵐から解放できない。町を巡る根も、祠堂も、分霊樹も、全部が繋がらない。
だったら、あれは今この町で一番重い荷だ。
ただ重いだけじゃない。落とせない。失くせない。壊せない。雨にも泥にも、人の混乱にも、雷にも邪魔されちゃいけない荷だ。
信じるだけで立っていられるほど、俺はできがよくない。
リシェのそばに立てないなら、せめて彼女が最後に向かう場所まで、道を整える。
盾になれないなら、せめて祭器を届けて、いつでも駆け付けられる距離にいたい。
そう思って、俺は顔を上げた。




