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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
12章 大嵐
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閉ざされた都市

「よろしく頼む」


俺もリシェリアたちに遅れて、護衛兵の後ろに跨がった。

先行者を追うように、泥の跳ねる道を蹴って出発する。


馬上では、雨が直接皮膚を叩いた。

マントの下にまで湿気が忍び込み、冷たい雫が背筋を伝う。

馬車の中とは違う、むき出しの世界。

容赦のない雨脚と、顔を切るような風。

遠くの稲光が、ちらちらと空を裂いている。

一瞬ごとに視界が白く明滅し、そして闇に沈む。


それでも、まだ走れないほどではなかった。

道はぬかるみ、馬の蹄が滑るたびに体が大きく揺れる。

だが前方の兵の姿勢は崩れず、俺もそれに合わせて身体を預ける。

ただ――風が、妙にぬるい。

季節はまだ初春だというのに、湿った熱を帯びた風がまとわりつく。

皮膚が息苦しくなるような、不気味な温かさだった。


「……渡渉はもう無理だな」

前からそんな声が聞こえたかと思うと、進行方向が旋回する。


「え」


まさか戻るか、迂回か。


「飛びこえます! 捕まってください、舌をかまないように!」


助走をつけるために少し戻っただけだった。

……彼の判断が早いのはいいが、俺に覚悟を決める時間はくれなかった。


声を張った、と思うと同時に、身体が後ろへ引かれるほど馬が加速した。

その瞬間、馬が大きく踏み込む。

俺は反射的に彼の腰を掴み、息を止める。


ふっと、地が消えた。

無重力のような一瞬の浮遊。

次の瞬間、着地の衝撃が腰から背へ抜け、視界が揺れる。


――飛び越えた。


振り返ると、茶色い濁流がすぐ背後にあった。

川幅の狭い地点を選び、勢いを殺さず跳び越えたのだ。

馬の蹄が泥を蹴る音のあと、後続の兵たちも次々に宙を舞い、濁った流れの上を越えていく。


泥を被り、馬が一頭大きく首を振ったが、全員、落馬はない。

よく訓練された部隊だった。後続の俺たちを送る役目を、危なげなく果たしてくれた。

これなら、先に行ったリシェリアたちの護送も無事に進んだだろう。

だが、安堵は束の間だった。


町の方角――そこに目を向けると、空が異様に暗かった。

黒い雲が重なり、渦を巻くように集まっている。

まるで、嵐の中心に向かって進んでいるようだ。


稲光が一瞬、地平線を裂き、その光の中で――

分霊樹の枝が黒く浮かび上がった。

逆光に照らされたその輪郭は、まるで影そのもののように沈んで見える。


不安が、胸の奥を鈍く掴んだ。

まるで、何かがそこに待っているような――

そんな気配が、風に混じって嗅ぎ取れた。


ラトリエの分霊樹――その近くに祭祀庁の支部があるはずだった。

だが、遠目に見たその一角は、暗闇に沈んでいた。

この暗さなら、少なくとも建物内の明かりくらいは見えてもいいはずだった。だが、光の筋ひとつ見えない。

雨が斜めに叩きつけ、瓦屋根の影をぼやけさせている。


街の入り口には、誘導に立つ兵士たちがいた。

顔も衣も泥にまみれ、声を張るのもやっとという様子だ。


「こちらへ! 公会堂へ!」


叫ぶ声をたよりに、俺たちは導かれる。


広場を抜けると、公会堂の扉が半ば開いていた。

中から暖かな灯が漏れ、湿った空気を押し返してくる。

外の暗闇とは対照的に、その中は人の気配で満ちていた。


リシェリアはすでにそこにいた。

濡れた衣のまま、袖を絞る暇も惜しんで、負傷者の傍らに膝をついている。掌をかざし、光を流し込む。聖女の力が淡く広がり、血のにじんだ包帯を白く照らしていた。


――嵐の只中にあっても、リシェリアがそこにいるだけで、空気が整う。


リシェリア本人も濡れた髪が頬に張りつき、唇の色も悪い。

普段であれば、ほんの少しで治癒をやめさせて、乾いた布を掛けて休ませていたはずだ。けれど彼女の掌から流れる光の先には、たった今血を流す子供がいる。今は緊急事態だ。止める言葉を出す気もない。

周囲には、現地の祭祀官たちが数名。彼女の指示を受けて、次々と傷者を運び込み、癒しの場を整えている。


兵士たちは区画の整理や治安維持のため、現地の市警備隊と連携を始めている。その動きには、焦りよりも秩序があった。


俺も一歩、彼らの輪に加わる。

濡れた外套を脱ぎ捨て、現地の職員を見つけ、声をかけた。


「状況を教えてくれ」


現地祭祀庁員の一人が、濡れた記録板を抱えたまま答える。


「嵐の進行は緩慢です。……まるで、この町を中心に、動きを止めているかのようで」


「止まっている?」


眉を寄せる。


「はい。風の流れも、雷の軌道も、不自然なほど一定です。町の外では風も雨雲も流れているようですが、……町の中心だけが――囲われているように」


わざわざ――俺たちは、自ら嵐の中心に入り込み、そしてラトリエに閉じ込められてしまったことになる。


「嵐が……壁のように、町を覆い続けているなんて、聞いたこともない」


ラトリエは交易の要衝だ。

北方からの街道と、川沿いの流通路が交わる。

季節ごとの嵐にも慣れている土地で、建物の造りも防風と排水に長けている。普通の嵐なら、この町はそう簡単には揺らがない。それを、俺は知っていた。

かつてアーレンス領を襲った水害以来、俺は治水や防災に関わる技術を調べ続けてきた。ラトリエは、その中でも目に留まる都市の一つだった。


それなのに――。

天の災いの前では、人間は無力でしかないのだろうか。

国を代表する祭祀庁の幹部として。

聖女の担当官として。

そして、被災している人たちのために。

俺が学んでいることは、今、何の役にも立たない気がした。


「どうする。何が、出来る」


呟いた声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。

家族を失った日、帰りを待って窓の外を見つめることしかできなかったことを思い出して、胸の奥に鈍い重みが広がった。


今日の空もまるで、未来そのものを拒んでいるかのような――そんな気配が、肌を刺していた。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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