渡る瀬、預ける背
任務は、ラトリエにおける悪天候のせいで急遽変更となった。
本来なら、俺たち護衛組はリシェリアら祭祀庁の一団を町に送り届けたあと、一日だけ市の壁外でで駐留し、翌朝にはその先のイェルス領へ移動を始めるはずだった。
だが、天候の急変がそれを許さなかった。
雨脚が強まったころ、増水で馬車が通行不能との報せが戻った斥候から入る。
すぐにアスティの声が飛んだ。
「レフォード! セラン! お前らは護送隊に入り、聖女と侍女を乗せて市内に進め! 最優先、いけ!」
呼ばれた名前は、兵の中でも騎乗が特に評価されている奴と、俺だった。
冷たい雨の中、指示を受けて急ぎ馬を引き出す。
共に呼ばれた同僚のレフォードが隣に馬を寄せ、濡れた前髪をかき上げながら短く笑った。
「よっし、乗せるのは息が合う方がいいだろ。セランは聖女様を乗せな。俺は侍女さんのほうを乗せていく。ラトリエまでの道は何度か行ったことがあるから、先行してやる。遅れずついてきな」
「助かる。頼むな」
雷鳴の下、彼の馬が前に出る。
その視線の先――リシェが馬車の窓辺に立ち、震える侍女を励ましていた。
雨で冷えた頬を寄せ、優しく言葉をかける。
「ラファ、頑張ろう。先に行って待っててね」
あの穏やかな声が、嵐の音の中でもはっきり届く。
侍女を送り出すと、リシェリアはまっすぐレフォードを見て、短く言った。
「この子をお願いいたします」
レフォードは頷いて、侍女に手を差し伸べた。
乗せる前に鐙の位置を示し、彼女が足を掛ける場所を確認させてから、軽やかに引き上げた。その動きは慣れていて、雑に見えて少しも乱暴ではない。
「大丈夫、安心してお任せください!手を離しませんよ」
リシェにも聞かせるように、雨音に紛れないくらいの声で明るくそう言ってから、彼は先に馬を駆け出した。
残ったのは俺とリシェ。
「リシェ、次。ほら来い」
緊急事態だというのに、心のどこかで――ほんの少し、嬉しさが滲むのを感じる。
それを悟られないよう、わざとぶっきらぼうに手を差し出した。
「ん」
リシェリアは笑わない。
けれど、迷いも見せずに俺の胸へ飛び込んできた。
嵐の中でも、その仕草は昔のままだ。
呼吸を合わせるように、すっぽりと俺の腕の中に収まる。
「前、閉じる。しっかり掴まれ」
言葉少なに、手早く防水マントを広げて包み込む。
彼女の髪が雨で濡れ、肩越しにひやりと肌に触れる。
その一瞬、彼女が俺の背に腕を回すのを感じた。
その細い力が、確かにそこにある。
「まさか、早速会うことになるとはな。怖いか?」
本当はこの行軍で、一切話せる余地は無いと思っていた。嬉しさに、不謹慎にもこんな時でさえ軽口が出た。
「大丈夫。天気が悪いのは仕方ないし、セランが送迎なら心配してないよ。馬もいい子だね、勇気がある」
リシェも、少なくとも悪天候そのものには不安を見せなかった。むしろ、余裕すらあるように見えた。
「ま、まだこんくらいの雨ならな」
屋外で流れ暮らしてきた俺たちにとって、多少の雨風は怯むほどのものではない。よほどの大禍がありそうなら、俺の感覚も、リシェの異能も、何かを知らせてくるはずだった。
今日、俺たちに乗り越えられない予感は何もない。
「着いたら起こして」
……とんでもない台詞が耳に届いた。
心配させないための強がりくらいならいいが、本当に気が抜けてるんじゃないだろうな。どんな顔でそんなことを言ったのか顔を見てやりたいと思ったが、そんな猶予はなさそうだった。
「寝んな。……よし、後は黙ってろよ」
苦笑しながら会話を終わらせて、手綱を握りなおした。
馬を駆けさせている時に話せば舌を噛む恐れがある。リシェもそれは知っている。もう返事はなく、掴む手が準備完了を知らせてきた。
しっかり掴まれているのを確かめ、踵を鳴らす。
馬が地を蹴り、泥を散らして走り出した。
先行するレフォードの背を追い、闇と雨の中へ飛び込む。
リシェが言った通り、馬の調子はいい。
全身が雨に濡れながらも、筋肉の動きが滑らかだ。
俺の合図に応えるたびに、蹄が水を裂く。
まるでこの状況を楽しんでいるかのように。
――このまま狩りにでも出たいほどの手応えだ。
けれど、今の俺の獲物はただ一つ。
リシェを、町へ。
安全に、無事に――届けること。
それだけが、俺に課せられた使命だった。
少し走ると、川の流れが視界に入った。
水かさは増し、もはや橋とは呼べない木の残骸が流れ、茶色の濁流が吠えるように泡を巻いていた。
だが、斥候が残した誘導旗が風に揺れている。
それを頼りに川沿いを進み、浅瀬の渡渉地点を見つける。
すでに水の勢いは強い。水が馬の脚に絡み、横へ押した。
……手綱で制御できる段階じゃねえな。
この雨風では、言葉はもう意味をなさない。体全体で馬に語り掛ける。
鞍の上で重心を低くし、馬の首の動きを殺さないように膝で進路を制した。濁流が脛を叩くたび、馬の体がわずかに沈むが、まだこいつも怯んではいない。耳の向き、首筋の震え、蹄が探る底の感触だけを頼りに、浅い筋を選んで渡らせる。
リシェの腕が、俺を支えるかのように確かに背中に強く回されるのを感じながら、一気に渡り切った。
濡れた蹄がぬかるみを蹴り、町の外縁にたどり着く。
レフォードのおかげか道迷いもなく思ったより早く到達できた。
もともと到着予定があったためか、現地の兵や役人らしき者が出迎えに立っていた。
「こちらに願います!」
叫び声に導かれて馬を進める。
辿り着いたのは祭祀庁舎ではなく、公会堂だった。
扉が開け放たれ、中には避難民がひしめいている。
泣き声、祈り声、油灯の明かりが揺れて、空気は重く湿っていた。
着いてみれば。思いの外、状況が悪い。
リシェと侍女を降ろし、まず彼女たちを室内へ入れる。
中ではすでに現地職員と、市長が待ち構えていた。
彼らの顔には疲労と焦燥が刻まれている。
「嵐は刻一刻と強まる一方で、通り抜ける気配がありません。……まるで町そのものが、中心に引き寄せられているようです」
市長が、リシェや次々に到着した後続の祭祀官たちに報告しているのを横で聞いていたところによると、類を見ない強い突風がたびたび吹き、建物の倒壊や怪我人も多く発生しているらしい。
また、町を守護しているはずの分霊樹の付近では雷が頻発し、帯電で立ち入れないという。
都市の要衝にある分霊樹が損なわれれば、さらに霊的な守りが弱まり、外界との往来も完全に断たれる可能性すらある。
多くの人々はこの公会堂へ避難してきていた。
――ここが今や、町の中枢になっている。そして、外には出られない。
風が壁のように町を囲み、まるで見えない密室に閉じ込められているようだった。
「こんな事が」
思わず口をついて出た。
俺たちは今まで、悪い状況があれば逃げればいいと思っていた。
逃げられない状況に閉じ込められるというものがあるのだと、初めて知った。
……いや、今ならまだ間に合う。
俺とリシェ、二人だけ。あの馬なら、まだ町を出て嵐から抜けられる目算が高い。この状況ならそのほうがリシェは”安全”だ。
そうするなら、問題は、それをリシェにどう説き伏せるかになる。
ちらりと目で様子を窺うと、リシェも濡れた袖を絞りながらこちらを丁度見上げてきたところだった。
「セラン。……私は、怪我なさった方の治癒に入るから。みんなが揃うまで、町の人たちを手伝ってきて」
――まあ、お前はそう言うよな。
俺の考えを知ってか知らずか、声は制するように静かだった。
顔色は悪いが、その瞳だけは思いの外、強く輝いていた。
「わかった。お前も無茶だけはするな」
短く答えた。
リシェはまだ竦んでいない。
きっとアスティや、……あのカイルとかが、何か打開策を持っていると、リシェが信じている。
それなら、俺が勝手に動くのもまだ後回しにしてもいい。
少なくとも、今回はリシェは目の届く範囲にいる。俺はいつだって最後にリシェだけは守れていれば文句はないんだから。
ならば出来ることをして後続を待つしかない。
リシェが手を振って怪我人の列の中に消えていくのを見送った。




