呑まれる架け橋
祈りも虚しく――雨足は、やむどころかますます強くなっていた。
進路を進むにつれて、風も次第に唸りを上げ、馬車の天井を激しく叩く。
馬のいななき。濡れた土の匂い。泥水が跳ねる鈍い音。雨粒はもはや粒ではなく、幕のように叩きつけられ、視界の輪郭を奪っていた。
一帯は、もう完全に春の嵐に呑まれていた。
それでも、少しずつ、ラトリエに近づいているはずだった。
馬車の車輪は泥に取られながら、じりじりと進む。窓の外では兵たちが声を掛け合い、安全を確保しながら隊列を進めている。怒号ではない。まだ統制は保たれている。だが、その声の短さと間隔の詰まり方が、状況の悪化を示していた。
やがて前方からの合図が止まり、隊列の動きがふいに途切れた。
ばしゃり、と水を踏む音が近づく。
雨の帳を裂くように、アスティが窓辺に現れた。外套も髪もずぶ濡れで、風に張り付いた前髪の間から、鋭い目がこちらを捉える。その目だけは、雨にも寒さにも濁っていない。
窓を開けるやいなや、彼女は時間を惜しむように口を開いた。
「この先の橋が落ちてる。馬車を捨てるか、かなり迂回するしかない」
その言葉に、馬車内の空気が一瞬凍りついた。
馬蹄の音が止み、誰かが息を呑む音が聞こえる。外の雨音ばかりが、やけに大きくなった。
増水した川が、ラトリエへ通じる橋を呑み込んでいたのだ。
「馬車を捨ててどうする?」
問いながら、俺は頭の中で地図を引き出していた。迂回路。距離。橋の位置。馬車列の長さ。祭器の重さ。リシェリアの安全。どれを優先しても、判断を誤れば取り返しがつかない。
「橋は落ちきってるけど、対岸が近い浅瀬が残っている。馬だけはまだ渡れる」
声を張るにも、風が邪魔をする。
それでも、その緊迫感だけは充分に伝わった。窓の外、雨の向こうに濁流が木片や泥を巻き上げ、うねるように流れているのが見える。その勢いは、まるで大地そのものが荒く呼吸しているようだった。
アスティの後ろで、斥候が渋い顔で報告する。
「……それも、時間の問題です。まもなく難しくなるかと」
斥候の声は雨音にかき消されそうになりながらも、確かな焦りが滲んでいた。
アスティは振り返りもせず、短く頷く。
「すぐあんたらを乗せる人員で迎えに来させるから、今のうちに最小の荷にまとめて、すぐ出られるようにしておいて。残りは防水布をかけてここへ残置する」
アスティの声が鋭く響いた。
的確で、迷いがない。今この場で必要なことだけを選び、不要な躊躇をすべて切り落としている。
「わかった」
俺も頷くしかなかった。
すでにアスティは、こちらを向いていない。外へ次の指示を飛ばし、雨の中を走る兵たちに声を張り上げ、手勢を動かしている。
アスティはさらに矢継ぎ早に指示を飛ばす。
声を張り上げるたび、雨を裂くような響きが広がっていく。
「祭祀官たちと最低限の荷は、兵と相乗りで先に出す! 護送隊を組め! 残りは私と共に、荷の残置と橋の応急をしてから追って合流する!」
声が風に混じってもなお、よく通る。
その勢いは圧倒的で、俺が返答する間もないほどだった。俺の返答など、もう聞いてはいない。軍人としての顔に切り替わったアスティは、命令を畳みかけながら現場全体を掌握していく。
その姿は凛として美しいほどだが、今はそれを見ている余裕はなかった。
「……よし」
ラトリエには祭祀庁隊が先行し、アスティは遅れてくる。現地ではこちらが主導しなければならない。
それなら、この嵐の中でも、理性を保つことだけが俺の役目だ。
俺は同乗の祭祀官たちに向かい、短く指示を出した。
「新しい祭器だけは抱えていく。各自、最低限の荷に絞れ」
濁流の轟音の中で、それでもその荷を失うわけにはいかなかった。
皆の顔に緊張と覚悟が浮かぶ。祭器は単なる道具ではない。これを失えば、ラトリエで待つ祠堂も、そこに祈る者たちも、救えなくなる。
外では冷気と湿気の中で、全員の動きが急に慌ただしくなる。残す荷を選び、布を掛け、紐を締め直す音。馬を引く声。誰かが泥に足を取られ、すぐ別の誰かが支える気配。嵐の中で、隊列はかろうじて秩序を保っていた。
その時――アスティの声が再び、雨を切り裂いた。
「レフォード! セラン! お前らは護送隊に入り、聖女と侍女を乗せて市内に進め! 最優先、いけ!」
その名が耳に届いた瞬間、胸の奥に鋭い何かが走った。
……セラン。
雨音の中で、その名だけが際立って響いた。
濁流と風の唸りの中でも、俺の鼓動だけがはっきりと聞こえる。視界がわずかに揺れる。
――どうして、あいつなんだ。
即座に答えは出る。
馬術。身体能力。悪天候下での判断。リシェリアを抱えても乱れない安定性。彼女が抵抗せず身を預けられる相手。任務として考えれば、最適に近い。
だからこそ、余計に胸の奥が軋んだ。
馬車の中で、乗り換えの準備が整うのを待っていた。
外は、嵐という言葉がふさわしいほどの雨。帆布を叩く音が、鼓膜を震わせる。空気は湿り、冷え、息をするたびに喉の奥が冷たく焼けた。
薄暗い窓の隙間から、後方の様子を見やる。
最優先で避難させる対象――リシェリアの馬車が、雨の向こうに見えた。
その周囲に、人影が走った。
雨に濡れた地面が跳ね、馬の蹄が泥を打つ。その中に、一際目を引く赤い影。
マント越しでもわかる。――セランだ。
嵐の中でも、迷いがない。
馬の手綱を軽やかに操り、濁流を避けるように身を翻して、リシェリアの馬車の前へと寄せた。動作は速く、正確だった。
まるで、言葉を交わす必要もないほど呼吸が合っているように見えた。
馬車の内側から扉が押し開けられたその瞬間、セランが手綱を引き、同時に身体を寄せて受け止める。
微笑みも、柔らかな言葉も、そこにはない。
ただ――互いの存在を当然のように理解している動きだった。
一切の無駄も、ためらいもない。
セランは片腕でリシェリアを軽々と引き寄せ、鞍の前に座らせた。その動作は流れるようで、雨の中でさえ静謐だった。
防水マントを彼女の肩ごと包み込み、風を遮るように覆う。
リシェリアは躊躇いも怯えもみせず、そのまま自然に身を預けた。
次に、侍女が別の兵に相乗りで乗せられる。
合図ひとつ、ためらいなく。
彼らは街へ向かって駆け出していった。
泥と水しぶきが跳ね、すぐに彼らの姿は霧雨の中に溶けた。
遠ざかる馬蹄の音だけが、かすかに残る。
――わかっている。
これは任務だ。
必要な措置で、正しい判断だ。
現場の指揮官であるアスティが最も安全な策を考えて取ったにすぎない。何一つ、間違っていない。
……それでも。
胸の奥が、焼けるように痛い。
理屈では理解していても、心は納得していない。
濡れた帆布の向こう、見えなくなった彼女の姿を追うように、俺は静かに拳を握りしめた。




