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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
12章 大嵐
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仄暗い雨の兆し

旅程の途中には多くの休憩時間が用意されている。

人間だけではなく――荷を引く馬も休ませる必要があるからだ。


行きの行程もまだ半ば。

それでも今回は規模が大きく、祭祀官団・随行部隊・補給班、それぞれがきちんと編成されていた。

統率が行き届いていて、今のところセランがこちらの視界に入り込んでくることもない。

 

……査察があると聞いているから、向こうも目立つ真似はしないだろう。


無視すると決めたばかりなのに、頭の裏ではどうしても気にしている。その程度の“安心材料”で心が落ち着くあたり、情けないものだと自分でも思う。


「カイル? お疲れですか?」


その声に、はっと顔を上げた。

隣では、リシェリアが茶杯を手にして座っていた。

天幕の下、仄暗い光の中でも、彼女の白い指先が際立って見える。

湯気がふわりと立ち上り、かすかに甘い香草の香りが漂った。


しまった。

 

せっかくの“補給”の機会――つまり、リシェリアと穏やかに言葉を交わせる時間だったのに。

ぼんやりして、無駄にしてしまっていた。


馬車も別なのだから、移動日はこうして同じ場所で過ごせる時間は、思っている以上に短い。かと言って、前回のように衆人環視の中、彼女の馬車にまた乗り込むことは……流石に出来ない。

もっと、この時間を大切にしないと。


「いや、ごめん。少し寝不足かもしれないな。大丈夫、移動が再開したら、車内で少し眠ることにする。それで、……何の話だった?」


自分でも苦しい言い訳だと思う。

けれど、リシェリアは気を悪くする様子もなく、優しく微笑んでくれた。


「ええ、空模様が怪しいですねって……話していたら、降ってきてしまいましたね」


彼女はそう言いながら、雨音に耳を澄ませるように、静かに目を閉じた。

長い睫毛が頬に影を落とす。


指摘の通りだった。ここ数刻で、空模様は急速に悪くなっていた。外を見ると、天幕の端から見える景色がぼやけていた。

小雨が降り始めていて、遠くの空は灰に溶けたような色をしている。

 

……予測では、ずっと快晴のはずだったのに。


「……まあ、通り雨だろう。この休みの間に止むかもしれないし、ゆっくりしよう。俺たちは馬車だからあまり気にしなくても大丈夫。歩兵は可哀想だけど、もともと春先の天気は変わりやすいからね」


「きっと、そうですね」


そうであって欲しい。せめて軽く済んでほしい。


小雨に閉じ込められた天幕の中で、リシェリアの吐息だけがやけに穏やかに感じられた。


一過性のものなら、どれほど良かっただろう。――だが、現実は違った。


願いと裏腹に、音が次第に強くなる。

規則的な雨の音に混じって、天幕を打つ水の粒の連打。

外の兵士や職員たちが、荷を守るために慌ただしく走り回っていた。

 

幕の外から聞こえる音が、徐々に深く、重く変わっていく。

滴が連なり、叩くように地を打つ。

土の匂いが濃くなり、風が湿り気を帯びて、冷たさを含んで流れ込んできた。


「お寛ぎのところ、失礼」


短く低い声とともに、アスティが天幕の布を払って入ってきた。

濡れた外套の裾を軽く払って、手短に状況を告げる。


「悪いけど、この先は強くなるばかりみたい。早めに出立する事を提案したい」


アスティは雨避けをせず来たようで、雨粒が頬に残り、頬骨のあたりが光って見えた。

リシェリアの侍女が慌てて拭き布を持って駆け寄る。

 

その表情はいつになく険しい。提案の形をとっているが、もはや決定事項なのだろう。


「承知した。すぐに出る支度をする」


俺は頷いて返し、ヘンリクに目配せをする。見やれば、彼はもうすでに片付け始めていた。

 

アスティの声に焦りはないが、言葉の裏にある確信が伝わってくる。


「先行させていた兵によると、既にラトリエの方は一昨日から雨だったらしい。川も増水してる」


ラトリエ――目的地の名が出た瞬間、心臓が一度、嫌な跳ね方をした。

……長雨か。


嫌な予感だった。

 

一瞬で、遠い記憶の泥臭さが甦る。

かつて家族を奪ったのは、まさしく激しい長雨の果てだったからだ。

長く雨は止まず、土地は隔絶され孤立した。それでも雨が弱った間隙に、両親と姉は馬車で館を出て行き、二度と帰らなかった。

地が緩み、斜面は崩れ、滑り落ちて馬車ごと、すべてを押し流していった。


ぞくりと、背筋に寒気が走る。

掌が冷たくなっていくのを、意識して拳を握りしめた。


「少し無理しても、都市に入ってしまった方が良いと判断した」


アスティの声が静かに落ちる。


彼女はその過去を知っている。

あの時、水害でかなりの被害を出した俺の領地に、隣領である彼女の実家、メイスン家が手を差し伸べてくれた。

支援を取りまとめてくれたアスティの父君は、俺の父の友人で、それ以降も多大な支援をいただいているのだから。

 

だから、今も一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、気遣わしい視線を寄越した。


けれど、それ以上は踏み込まない。

お互い、公務の最中だ。


「……この辺の地盤はしっかりしてるし、平地しかない。移動で崩れるようなことはないわ」


それは、俺を気遣っての言葉だろう。

淡々とした声音の奥に、かすかな優しさが滲む。


「ああ、把握してるよ。ありがとう。急ごう」


そう言って、俺は立ち上がる。

冷えた空気を吸い込むと、心拍が少しずつ落ち着いていった。


天幕の向こうでは、すでに隊列が出立する準備が始まっている。

リシェリアも、侍女に指示を出しながら外衣を整えていた。

衣の袖を留める手が少し震えているのが見える。


「祭祀の不備……大樹の傷みの、せいでしょうか?」


その言葉に、俺は我に返った。

そうだ。自分の過去などどうでもいい。

今は彼女を不安にさせてはいけない。


「それはない。事前に大樹の状態は確認してきただろう? 祠堂の破損は遺憾だけど、リシェリアの不備でも、大樹からの由来でもない。こんな空模様は……ただの天の気まぐれだよ」


落ち着いた声で答える。

自分でも、できるだけ穏やかに響くように意識した。


旅立ちの前、天蓋の調整も済ませてある。

ラトリエはそもそも後回しにする予定だった。

不測の災害とはいえ、これを“兆し”とは呼べない。


リシェリアの肩が、わずかにほぐれた。

その姿を見て、ほっと息をつく。


安心させたい――ただ、それだけだった。

励ますように、そっと背に手を添える。

その感触に、わずかに温もりが戻る。


この思いは、純粋だった。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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