仄暗い雨の兆し
旅程の途中には多くの休憩時間が用意されている。
人間だけではなく――荷を引く馬も休ませる必要があるからだ。
行きの行程もまだ半ば。
それでも今回は規模が大きく、祭祀官団・随行部隊・補給班、それぞれがきちんと編成されていた。
統率が行き届いていて、今のところセランがこちらの視界に入り込んでくることもない。
……査察があると聞いているから、向こうも目立つ真似はしないだろう。
無視すると決めたばかりなのに、頭の裏ではどうしても気にしている。その程度の“安心材料”で心が落ち着くあたり、情けないものだと自分でも思う。
「カイル? お疲れですか?」
その声に、はっと顔を上げた。
隣では、リシェリアが茶杯を手にして座っていた。
天幕の下、仄暗い光の中でも、彼女の白い指先が際立って見える。
湯気がふわりと立ち上り、かすかに甘い香草の香りが漂った。
しまった。
せっかくの“補給”の機会――つまり、リシェリアと穏やかに言葉を交わせる時間だったのに。
ぼんやりして、無駄にしてしまっていた。
馬車も別なのだから、移動日はこうして同じ場所で過ごせる時間は、思っている以上に短い。かと言って、前回のように衆人環視の中、彼女の馬車にまた乗り込むことは……流石に出来ない。
もっと、この時間を大切にしないと。
「いや、ごめん。少し寝不足かもしれないな。大丈夫、移動が再開したら、車内で少し眠ることにする。それで、……何の話だった?」
自分でも苦しい言い訳だと思う。
けれど、リシェリアは気を悪くする様子もなく、優しく微笑んでくれた。
「ええ、空模様が怪しいですねって……話していたら、降ってきてしまいましたね」
彼女はそう言いながら、雨音に耳を澄ませるように、静かに目を閉じた。
長い睫毛が頬に影を落とす。
指摘の通りだった。ここ数刻で、空模様は急速に悪くなっていた。外を見ると、天幕の端から見える景色がぼやけていた。
小雨が降り始めていて、遠くの空は灰に溶けたような色をしている。
……予測では、ずっと快晴のはずだったのに。
「……まあ、通り雨だろう。この休みの間に止むかもしれないし、ゆっくりしよう。俺たちは馬車だからあまり気にしなくても大丈夫。歩兵は可哀想だけど、もともと春先の天気は変わりやすいからね」
「きっと、そうですね」
そうであって欲しい。せめて軽く済んでほしい。
小雨に閉じ込められた天幕の中で、リシェリアの吐息だけがやけに穏やかに感じられた。
一過性のものなら、どれほど良かっただろう。――だが、現実は違った。
願いと裏腹に、音が次第に強くなる。
規則的な雨の音に混じって、天幕を打つ水の粒の連打。
外の兵士や職員たちが、荷を守るために慌ただしく走り回っていた。
幕の外から聞こえる音が、徐々に深く、重く変わっていく。
滴が連なり、叩くように地を打つ。
土の匂いが濃くなり、風が湿り気を帯びて、冷たさを含んで流れ込んできた。
「お寛ぎのところ、失礼」
短く低い声とともに、アスティが天幕の布を払って入ってきた。
濡れた外套の裾を軽く払って、手短に状況を告げる。
「悪いけど、この先は強くなるばかりみたい。早めに出立する事を提案したい」
アスティは雨避けをせず来たようで、雨粒が頬に残り、頬骨のあたりが光って見えた。
リシェリアの侍女が慌てて拭き布を持って駆け寄る。
その表情はいつになく険しい。提案の形をとっているが、もはや決定事項なのだろう。
「承知した。すぐに出る支度をする」
俺は頷いて返し、ヘンリクに目配せをする。見やれば、彼はもうすでに片付け始めていた。
アスティの声に焦りはないが、言葉の裏にある確信が伝わってくる。
「先行させていた兵によると、既にラトリエの方は一昨日から雨だったらしい。川も増水してる」
ラトリエ――目的地の名が出た瞬間、心臓が一度、嫌な跳ね方をした。
……長雨か。
嫌な予感だった。
一瞬で、遠い記憶の泥臭さが甦る。
かつて家族を奪ったのは、まさしく激しい長雨の果てだったからだ。
長く雨は止まず、土地は隔絶され孤立した。それでも雨が弱った間隙に、両親と姉は馬車で館を出て行き、二度と帰らなかった。
地が緩み、斜面は崩れ、滑り落ちて馬車ごと、すべてを押し流していった。
ぞくりと、背筋に寒気が走る。
掌が冷たくなっていくのを、意識して拳を握りしめた。
「少し無理しても、都市に入ってしまった方が良いと判断した」
アスティの声が静かに落ちる。
彼女はその過去を知っている。
あの時、水害でかなりの被害を出した俺の領地に、隣領である彼女の実家、メイスン家が手を差し伸べてくれた。
支援を取りまとめてくれたアスティの父君は、俺の父の友人で、それ以降も多大な支援をいただいているのだから。
だから、今も一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、気遣わしい視線を寄越した。
けれど、それ以上は踏み込まない。
お互い、公務の最中だ。
「……この辺の地盤はしっかりしてるし、平地しかない。移動で崩れるようなことはないわ」
それは、俺を気遣っての言葉だろう。
淡々とした声音の奥に、かすかな優しさが滲む。
「ああ、把握してるよ。ありがとう。急ごう」
そう言って、俺は立ち上がる。
冷えた空気を吸い込むと、心拍が少しずつ落ち着いていった。
天幕の向こうでは、すでに隊列が出立する準備が始まっている。
リシェリアも、侍女に指示を出しながら外衣を整えていた。
衣の袖を留める手が少し震えているのが見える。
「祭祀の不備……大樹の傷みの、せいでしょうか?」
その言葉に、俺は我に返った。
そうだ。自分の過去などどうでもいい。
今は彼女を不安にさせてはいけない。
「それはない。事前に大樹の状態は確認してきただろう? 祠堂の破損は遺憾だけど、リシェリアの不備でも、大樹からの由来でもない。こんな空模様は……ただの天の気まぐれだよ」
落ち着いた声で答える。
自分でも、できるだけ穏やかに響くように意識した。
旅立ちの前、天蓋の調整も済ませてある。
ラトリエはそもそも後回しにする予定だった。
不測の災害とはいえ、これを“兆し”とは呼べない。
リシェリアの肩が、わずかにほぐれた。
その姿を見て、ほっと息をつく。
安心させたい――ただ、それだけだった。
励ますように、そっと背に手を添える。
その感触に、わずかに温もりが戻る。
この思いは、純粋だった。




