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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
12章 大嵐
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晴れた空の下の出立

空は爽やかな晴れだった。

天体観測塔から届いた気象予測では、祭祀庁の外遊隊の目的地である南部の地方都市ラトリエまでの往復の間、晴天で穏やかな日和が続くとされていた。

出立には申し分のない空模様で、城門前に差す光も柔らかい。


外遊隊の馬車列が、城門前に並んでいる。

銀灰色の装飾を施された馬車がいくつも連なり、馬蹄の音が石畳に低く響いていた。車輪の軋む音、職員たちが荷を確認する声、護衛の騎兵が馬を宥める小さな音。城門前の広い空間は、出立前の緊張と慌ただしさで満ちている。


その中で、一番中央に置かれた車体。

淡い白金色に塗られた聖女の馬車――そこに、私が乗る。


私の馬車は長い隊列の中心で、前方にまだ見ぬ景色が広がるわけではない。それが少しだけ残念だった。

もし前後に不審があれば、即座に前後から守れるよう配置されているのだと、以前説明されたことがある。


カイルは既に出立用の外套をまとい、行程表を片手に護衛隊長と短く言葉を交わしていた。

いつもの執務室にいる時より少し硬い顔をしている。外套の肩口も、手元の紙も、彼の立ち姿もきちんと整っているのに、表情だけが普段より疲れているように見えた。

実際、急に入った予定で、日常の業務との調整を、彼もずっと詰めてくれていたのだから無理もない。


私に気づくと、カイルは話を切り上げるように小さく頷き、こちらへ視線を向けた。

硬かった顔の中で、目元だけが柔らかくなる。


「今までよりは少し遠い分、無理のない行程にしてある。休憩も小刻みに予定されているけれど気分が悪くなったら、すぐに言うようにね」


その言葉だけで、少し息がしやすくなった。

カイルはいつもそうだ。様々な推測を事前に立てて、時にどうすればいいかを先に教えてくれる。


「はい。ありがとうございます」


「では、また後で」


少しだけ会話を交わした後、忙しそうに去るカイルを見送って、乗車を待つ間に他の隊列に目をやった。


私にとっては、もう何度目かの巡行。

最初の頃は、外へ出るというだけで胸の奥が硬くなっていたけれど、今は馬車列の組まれ方も、道中の流れも少しずつ覚えている。祈る場所があり、癒すべきものがあり、そこに暮らす人たちがいる。そのために城を出るのだと思えば、足がすくむほどではなくなっていた。


けれど、今回は細かなところが少しずつ違っていた。


まずセランと同行する、初めての外遊だった。

このことは、胸が少しだけ高鳴る。

いつだって彼は私を守ってくれる守護者だったし、セランから目を離さなくて済むことにも安心する。城を離れる時に、彼の様子を気にし続けなくていい。

だから、いつもよりも怖くない。


それでもここまでは、今までの構成と大きく違うわけではない。

聖女の馬車があり、祭祀庁の人たちがいて、護衛がつく。カイルが行程を整え、侍女が付き添い、私は決められた位置に乗る。


違うのは。


ひときわ艶のある黒い馬と、その上に揺れる黒い髪が見えた。

普段はここまで目を引く存在はない。王室の紋を額につけた、将官級の特別な馬。陽を受けた黒い毛並みは濡れた絹のように光り、周囲の騎馬よりも一段高く、静かにそこにいた。


アスティは軍装の上に外套を羽織り、馬上にいた。

旅装なのに、少しも重たく見えない。いつものように軽やかで、凛としていて、彼女の周囲だけ風の流れが違うようだった。目が合うと、アスティは馬を寄せて近づき、滑らかな動きで降りてきた。


「一緒に出かけるのは登城の日以来ね。やはりリシェリアみたいな可憐なお姫様がいる方がやる気が出るわ」


「アスティったら」


アスティこそが姫君なのに、たまにおかしなことを言う。

私はおかしくて笑ってしまう。城門前の緊張が少しだけほぐれて、胸の奥にあった小さな粒も、ほんの少し軽くなった気がした。


「こっちは行軍だから、馬車には同乗できないんだけど、休憩の時にはお茶でもしましょ。気楽にしててね」


そう言って、アスティは颯爽と隊列に戻っていった。

冗談めかした声だったけれど、その目はちゃんと私の顔色を見ていた。笑わせようとしてくれているのに、同時に私が疲れていないか、不安を隠していないかを見ている。そのさりげなさが、アスティらしかった。


いつもと違うことのもうひとつ。

祭器を納めた箱が、私の馬車の後ろにあった。荷馬車に積まれる他の荷よりも丁寧に縄を掛けられ、揺れないように固定されている。破損した祭器の換えのものだと聞いているけれど、厚い布に覆われたその箱は、ただの荷物よりもずっと慎重に扱われていた。


今回の外遊が、ただの巡行ではないことを、その箱が静かに示しているようだった。


セランは、さらに後ろの方に配置されているらしかった。

私の馬車のすぐ側ではない。列の後方、遠目に全体を見ながら動く位置。普通に座っていればすぐには目に入らない距離に、遠征隊の兵たちが並んでいる。

ここからじゃ全然見えない。


……行く前に会っておきたかったな。ちゃんと一緒に行くという事を目で確認しておきたい。

庭にいる時のように、声を掛けに近づいても来てくれない。

ほんの少し、残念。同行するっていうから、もっと近くにいるのだと思っていたのにな。


けれど警護の配置には意味がある。私が勝手に近くがいいと思うことと、セランがそこで役目を果たすことは別なのだと、頭ではわかっている。

ようやく馬車に乗り込む段になって、馬車の段に足を掛け、少し高くなった視線でもう一度振り返った。


警護の兵士たちが一斉に背筋を伸ばし、こちらへ視線が集まった。

いつもより視線の数の多さに、気配を肌で感じて、少しだけ緊張する。


……聖女としての私が見られている。恥ずかしい振舞いはしないようにしないと。


なるべく、一人ひとりに目を向けるようにして、小さく一礼する。

今日から道中を守ってくれる人たちだ。私のためだけではなく、祠堂の為、そしてその先で暮らす人たちのために同行してくれる。そう思えば気が引き締まった。


顔を上げた時、ふと、いるはずの位置に赤い髪を探す。

春の陽射しを受ければ、きっとすぐにわかると思った。


黒や茶の髪、兜の影、馬の首、揺れる旗。その隙間を、視線だけで辿っていく。

列の後方。遠く、騎兵たちの肩越しに、赤い色が見えた。


いた。


距離があるのに、すぐにわかった。

セランは弓と荷を背に、ほかの兵と同じように列に立っていた。陽を受けた赤い髪が、風の中でわずかに揺れている。城の中で見る時よりも、彼は騎兵の列の中にいる方がいくらか自然に見えた。


遠いけれど、ちゃんといる。よかった。


たまたまなのか、私が探していることに気づいたのかはわからないけれど、遠いけれど、確かに視線が重なった。

ほんの少しだけ顎を引いてくれた。


大丈夫だ、そう言われた気がした。


遠目に、セランの口元も少し緩んだように見えた。

それを見て、私は小さく頷き、馬車に乗り込む。


ラファが先に乗り込み、すぐに身を引いて場所を空け、内側から手を差し出してくれていた。


「リシェリア様。そろそろお乗り込みください」


「あ、ごめん。お待たせ」


足元に気をつけて車内へ入り、柔らかな座面に腰を下ろすと、外の光が窓越しに薄く差し込んでくる。革と木材と、旅支度の布の匂いがした。いつもの城の部屋とは違う、移動するための空気。


「聖女様が俺に微笑んだ」

「いや、俺にだろ」


聞こえてしまって、私とラファは少しだけ目を瞬かせて見合わせた。


「……私、笑ってた?」


「そうですね、何か見えましたか? 嬉しそうにしておられましたよ」


「そっか。空が高くて気持ち良かったからかもしれない」


そんなことした記憶になかったけれど、表に出てわざわざ訂正することでもないか。曖昧に理由をつけて誤魔化しておく。

こういう時、どう振る舞えばいいのかは、まだカイルに教わっていない。


私は窓の外をもう一度見た。

後方にいたセランの赤い髪は、もう兵士たちと馬車の影に紛れて見えない。

カイルは一つ前の馬車。アスティは最後方。

それぞれが、それぞれの必要な場所について、いよいよ外遊が始まる。


春を予感する風の中に、ほんの少しだけ、雨の匂いがした。


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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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