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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
12章 大嵐
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答えの見つからない旅支度

急遽、飛び込んできたその外遊は、本来なかった予定だった。

それでも、理由を聞けば、『祭器の破損』なんて誰も悪くない仕方のないことで、周りの方たちが予定を繰り合わせて、送り出してくれることになった。


外へ出ること自体には、もう以前ほどの強い恐れはない。

初めての頃は、知らない場所、知らない人のすべてに体が強張っていたけれど、今はどう進むのかを覚えてきたし、私の前後には必ず誰かがいてくれる。それが心を支えてくれている。


それでも、急なことには違いなかった。

日常の業務の合間にも荷造りを慌ただしく進めるサフィアと、ゆっくり話すことができるのは、報告を兼ねた寝る前のお茶の時間くらいだった。


部屋の中には、畳まれた外出用の衣装と、旅装に合わせた小物が整然と置かれている。サフィアの手はいつも通り淀みなく動いているのに、どこか急いでいるように見えた。


「リシェリア様。随行できそうになく……ご不安も多いかと思うのですが、申し訳ありません」


サフィアが荷造りを進めながらすまなそうに頭を下げてくれていた。

 

そんなの、サフィアのせいじゃない。

 

急に城を不在にする私のために、参加予定だった面会や取次などの調整や、不在中の対応をサフィアが責任を持って引き受けてくれることになって、手がいっぱいになってしまったのだから。


「ご不在の間のお庭に関する指示や、テラリウムの管理についても、万事安心してお任せください」


「うん。あまり急に寒くなったりしなければ、どっちもあまり気にしなくていいからね」


むしろ、私が城を離れることで増える仕事の方がずっと多いはずだった。そう思うと、謝られるのは違う気がして、胸の奥がむずむずした。


「随行はラファが務めますが、全て引き継いでおります。お気兼ねなく、いつでも、何でもお申し付けくださいね」


サフィアは代わりの侍女の子の名前を挙げて、安心させるように微笑んでくれた。柔らかな表情だったけれど、その声の奥に、言葉にしていない心配があるのがわかった。

サフィアが暗に頼るように伝えたいのは、悪夢を見た時のことだろう。


……心配かけてるな。


私が夜にうなされていたことを、サフィアはいつも大げさに扱わない。

けれど、朝の寝具の乱れや、私の顔色や、茶器を持つ指先の力の入り方まで見ている人だ。隠しているつもりのことを、たぶん私より先に気づいている。だからこそ、その何気ない言葉が、余計に優しくて重かった。


「大丈夫だよ。もう外遊巡行にも随分慣れたもの。……それに、最近は、もうほとんどうなされていないでしょう? 心配しないで」


私は胸を張ってみせた。サフィアだって大変で、少しでも懸念を晴らしてあげたかった。

大丈夫だと見せるための仕草だったけれど、思い返せば事実、そうだ。


本当に、ここしばらく悪夢を見ていない。


……多分、私が自分の罪を思い出したからじゃないかと思う。


悪夢を直視するのは恐ろしいことだと思っていた。

けれど、見えないまま追いかけられるより、知ってしまった方が、眠りの中では少し静かになるのかもしれない。その代わり、少し日中に思い出しては、気鬱が続いている自覚はある。

何もしていない時に、ふと胸が沈む。誰かの言葉や、何気ない景色に、思い出したくないものが薄く重なる。


多分サフィアはそれに気がついているから、心配してくれている。


「……」


サフィアが困ったように曖昧な笑顔で言葉を噤んだ。

その沈黙が、言い分に説得力が足りないからだとわかって、私は少しだけ視線を逸らした。


「ね、それなら、私が旅の合間に読む本を選んでくれる? もう今のは読み終わるから」


今読んでいたのは、『月光の約束』――エリシアナが好きだという、市井で人気の恋愛小説で、サフィアが取り寄せてくれたもの。


王城の侍女リナと、正体のわからない青年レオン。そこに幼なじみのユリクが絡む、三角関係というものらしい。


「この巻は、行く前には読み終わりそう」


残りのページを見せながら、声をかけた。

本を話題にすれば、サフィアの顔が少し明るくなることを私は知っている。私がちゃんと日々を楽しめているように見えれば、サフィアも少し安心してくれるかもしれない。


「あら、お早いですね。承知しました。お戻りになるまでに、続きを用意しておきますね。それに、そうですね。旅の間に読むなら……」


サフィアが少し嬉しそうに、にこりと笑って考え始める。


……良かった。


私はサフィアも、こういう本が好きなのだと最近わかってきていた。読んだり感想を言うと嬉しそうだし、本のわからないところを聞くとすぐに教えてくれる。そのくらい読み込んでいるのがわかる。

本棚から選ぶ時も、ただ人気のものを渡しているわけではない。私が読みやすいもの、難しすぎないもの、でも少しだけ世界が広がるものを考えてくれているのだと思う。


「うん。出立の日までで大丈夫だからね」


私は本を閉じ、掌の上で軽く撫でた。

表紙は何度も開いたせいで、手に馴染み始めている。けれど、そこに書かれている感情は、まだ私の中には馴染んでいなかった。


娯楽本に、私にはそこまでの熱意はないけれど……サフィアが嬉しそうにしてくれるから、読書は続けている。

けれど――実はあまり、内容は理解できていない。実務書や教本のように答えが書いてあるわけでもないから。


“なぜこの人物は泣いているのか”、“どうしてそういう選択をしたのか”――読者に考えさせるものらしいけれど、私はその「考える」部分が苦手だ。


何が正しいのか、どう思うべきかという基準が、あまりわかっていないからなのだと思う。

物語の人たちは、傷ついているのに近づいたり、好きなのに離れたり、優しい人を悲しませたりする。その理由が、文字の中には書かれているようで、書かれていない。


「この巻はいかがでしたか」


寝具を整えながら、サフィアがお決まりの問いかけを放つ。


……うん。


そして感想を求められるのも、苦手。

答えがある質問ではないから。


私は本の角を指で撫でながら、少し考えた。

好きか嫌いかと聞かれれば、嫌いではない。綺麗な描写もあるし、架空の王城や夜会の世界は、今私がいるこの場所と似ているようで面白い。けれど、登場人物の気持ちに踏み込もうとすると、急に足元が曖昧になる。


「そうだね。レオンが出てきた王宮の庭園の描写が綺麗で好き。でも、秋の花が夏に描かれていたのは何か理由があるのか気になったな」


言葉を選びながら、できるだけ正直に答えた。


「……そうですね。わざわざ描かれている場合は、何かの伏線や暗喩という意味で使われることもありますね。色や効能、花言葉。前回から時間が本当に経っているという意味かもしれません。全く何も関係ないこともありますね。そういった種明かしは後の描写を待ちましょう」


「なるほど」


それは単なる矛盾なのか、意図的なものなのか。

物語の中での“違和感”は、現実でも予兆を見抜く訓練になるかもしれない――そう思えば、無駄ではない気がした。

現実でも、人の言葉や表情には、あとから考えると意味があったのだとわかることがある。小さな違和感を見落とさなければ、もっと早く気づけることもあるのかもしれない。


サフィアが少し苦笑しながら、私にさらに問いかけた。


「たとえばこの巻の初めには、ユリクからとうとう恋の告白があったと思いますが、そちらは、どう思われました?」


また、出てきた。


最近よく出てくる言葉、“恋”。

この言葉を聞くたびに、私は心が少し止まる。

 

物語だけじゃない、現実の恋のことを、この間はジェスにも訊いてみた。

恋の症状って何かとか、恋人は何をするのかとか、私とセランと恋人だと思ったのはなぜか、とか。

話をまとめると、その時は、カイルの方がずっと恋をしているみたいだと思った。


人の話を聞けば、その輪郭が少しは見えるのではないかと思った。けれど、わかりそうになるたびに、別のわからないものが増えてしまっている。


「そうね。ユリクは優しいし、いい人だと思う。どうして断るのかな」


ユリクはずっとリナの近くにいた。

困った時には助けて、寂しい時には気づいて、リナが無理をしている時にもちゃんと見ていた。だから、条件だけで考えるなら、断る理由があまりないように見える。安心できる相手を選ぶ方が幸せなのではないかと、私は思ってしまう。


サフィアは大抵の謎や状況は解説してくれるのに、こういう話はあまり教えてくれない。


「どうしてだと思われますか?」


「……リナは、レオンの方が好きって、地の文で読み取れる。それに、レオンもリナのこと好き、でいいんだと思う」


そこまでは、たぶん間違っていない。

リナがレオンの言葉にだけ動揺することも、レオンが不器用に彼女を助けようとすることも、文章の中で何度も示されている。だから二人の心が向かい合っているのは、読み取れる。

けれど、読み取れることと、納得できることは少し違った。


「それで、リシェリア様はどんな結論がいいと思われますか?」


ふいに、サフィアの目が輝いて、僅かに前のめりに乗り出した。

その勢いに、私は少し瞬きをした。いつもの控えめなサフィアと違って、物語の話をする時の彼女は、胸の中に火を灯したみたいに生き生きしている。


「あ、えっと……でも、恋人になれない理由がもう示唆されてるから、離れたほうがいいんじゃないかなって思ったな」


私の言葉に、サフィアは何とも言えない表情になった。

まるで、返す言葉を選んでいるような――あるいは、選べずに沈黙したような。


その顔を見た瞬間、私は自分の答えがきっと、物語を読む人が期待するものではなかったのだと気づいた。

私には、理由があって近づけないなら、近づかない方がよいように思えた。恋が、自分や他人、周りを傷つけることもあるなら、なおさら。


「……ごめん、それも次の巻に理由が書かれてるのかもしれないから、わからないよね。私が思っただけだから許して」


私は慌てて笑ってごまかした。

けれど胸の奥に、ほんの少しひっかかる。

サフィアの心配を払拭したかったのに。違う意味でがっかりさせてしまったかもしれない。

 

「いえいえ、大丈夫ですよ。そうやって自分なりに楽しんでいただくことこそ、娯楽なんですから」


「ん。旅の間にも、楽しく考えてみるね」


そうしよう。

恋物語のことを考えてみることの方が、罪のことを反芻しているより、ずっと、きっと。……気が紛れる。

『祠堂の破損』→『祭器の破損』

記載ミス修正しました

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