地を踏みしめる一歩
もうすぐ、春だ。そんな匂いが風に混じっている。
空気の底にまだ冬の冷たさを感じるが、陽射しの角度も変わって、どことなく温度が緩む感じがする。
道の端には、名前の知らない草が小さく芽吹きはじめていた。
下士官試験も、まもなく迫っている。
階級が上がれば――今よりもっと、リシェのそばにいられるようになる。
俺にはこれしかないと、その一心で勤務の合間に勉強を重ねてきた。
遠征隊の一員として組み込まれたと知らされた。
と言っても、抜擢なんかじゃない。
日常勤務では見えない連携、馬術、野営、索敵。そういう外でしか試せない練度や判断力を見る場――つまり、事前の実地審査で、俺という兵士の評価の一環だ。
今まで、アスティの計らいで、リシェと長く離れる場外配備だけは免除されていたが、こればかりは、回避できない。
仕方ないこととして、割り切るつもりではあった。
けれど、俺にとっては幸運だった。
……それが、リシェの外遊と同じ日程で、同じ道を通るらしい。
まるで、大樹様のご褒美だ。
「ジェス、ごめんね。お庭のことはサフィアから指示を聞いてね。時期的にまだ大変なお世話はないけど、よろしくね」
リシェがジェスに不在を告げる。
小さく頭を下げる姿が、風に揺れる花のようで。
遠征前の緊張感も、どこか和らいでいく気がした。
「いえいえ、決まってることやるだけですし、大丈夫ですよ。それより、良かったですね。セランさん」
ジェスが、どこかにやけた顔でこっちを見る。
その視線の意味は、深く考えなくてもわかる。
「……まあ、な」
俺は、少しだけ目を逸らしながら応じた。
「ね。私もセランが一緒だから、安心」
その一言に、俺は顔を上げた。
リシェが、やわらかく微笑んでいた。
陽だまりのような光が、その横顔にふわりと差し込んでいた。
頬が紅潮しているわけでもないのに、不思議と、あたたかく見える。
……ここだけ、もう春が来たみたいだ。
「いや、実際には別の任務だからな?せいぜい、馬車の中から俺を見つけられるかもな、って程度。たぶん挨拶すらしねえよ」
一応、念のためにそう付け加えておく。
たまたま、遠征隊と聖女巡行が、同じ方角、同じ日程で行くだけの話だ。
行き先が重なっているから途中まで同道するが、現地でも俺は俺の任務がある。
帰りはそもそも別の日程で、最後まで一緒にいられるわけでもない。
それでも。
それでも――俺は、嬉しかった。
試験のための訓練だけじゃない。これは、今後に繋がる予行演習のようでもある。
望む未来を先に垣間見るようで、頑張るための動機を支えてくれる気がした。
それに、おまじないや、事前に抱きしめてやることよりも――何かあった時、駆けつけられる距離にいる。
目を見て、手を伸ばせば届くところにいられる。
それが、どれほどいいか。
「え、じゃあ宿所は一緒じゃないの!?」
リシェがなにやら目を丸くして言った。
どうやら、当然のように同じ宿に泊まると思い込んでいたらしい。
「一緒なわけあるか。俺たちは野営だ」
思わず苦笑が漏れる。
こっちは大所帯なんだ。馬と荷車、それに兵士が十数名単位で動く。
市民の宿を占拠するわけにはいかないし、そもそも軍の動きは、常に自立して成り立つことを求められる。
天幕を張り、炊事班が飯を作り、寝所も交代制で警護を兼ねながら取る。
「ええ。前の外遊……おじさま達は一緒だったよ」
リシェが小首をかしげながら言う。
前回、リカリオたちが同行したときの話だろう。
彼らは護衛が主目的で、随行の代表格。そもそも人数少数で精鋭だ。格が違う。
「規模も目的も何もかも違うだろが。……そりゃ同じ宿や控え部屋に泊まることもある。あれは貴人の護衛の一環だ。交代で不寝番が立つのは見た事あんだろ」
言ってから、なんだか妙に現実的な説明になった気がして、少し笑ってしまう。
リシェの中では外遊も遠征も、どうも似たような華やかで穏やかな旅のように見えているらしい。
けれど兵士側にとっては実際、緊張の連続だ。
不測の事態が起きれば、眠る時間すらなく動くこともある。
「ジェスも知ってた?」
リシェが隣のジェスに問いかける。
ジェスは少しだけ肩をすくめて、気まずそうに笑った。
「ええ。身分が従士になれば違いますけどね。そうなれば基本は主に同行することになるかと思います」
「そうなんだ……残念。セランも早く従士になってよ」
甘ったれた声で言われて、思わず動きが止まる。
まさかとは思うが――悪夢にうなされたら、俺が寝所まで慰めに来いとでも言うんじゃないだろうな。
……いや、ありそうで怖い。
「従士になっても、お前に仕えるわけじゃねえんだが」
つい突っ込んでしまう。……リシェは軍人ではない。
従士が付き従うのは軍人だ。騎士見習いのようなもので、騎士の世話をしながら、その振る舞いを学ぶための身分。
「まあ順当にいけば、リカリオのおっさんのような――アスティの派閥の誰かの下につく事になるだろうな。主を選ぶ余地が出てくるのは、騎士になってからだ」
そもそも大前提として、軍属は騎士を含め皆、大樹と王に仕えている。そのうえで政治だの派閥だの、面倒な力関係が絡んでくる。
どちらにせよ、従士なんかじゃ聖女に専属で付き添える身分ではない。
晴れて騎士になった時には、もちろんリシェに仕えるつもりでいるが、少しだけ悪戯心が湧いた。
「強くて有名な騎士になりゃ、金やら待遇やら選び放題で、色んな貴族から引き合いがあるって話だ。リカリオのおっさんなんて、アスティが何を差し出したのかって噂されてうんざりしたって話だぜ」
わざとらしく、首を傾げて思案する姿勢をとる。
「俺はどんな主を選ぼうかなあ?」
リシェが小さく唇を尖らせて、頬をぷくりと膨らませた。
「浮気者だ……」
リシェの口からそんな単語が出るとは、思っていなかった。
その仕草が、無防備で――思わず笑ってしまう。
「……意味わかって使ってんのか?」
苦笑しながらそう言うと、リシェはきょとんとした表情を浮かべた。
たぶん最近、サフィアが読ませているという娯楽小説に出てくるような言葉なんだろう。
――まったく。教育方針に難ありだと思う。
「だって。……聖女には、愛と忠誠を誓う”赤と黒の騎士”がいるはずじゃないの」
「リ、リシェリアさん!?……え、それ」
隣のジェスが、ぎょっとしたように目を瞬かせてリシェと俺を交互に見た。
当の本人に”赤と黒”の噂が認知されているということは知らなかったのだろう――無理もない。
自分が誰と愛し合うかなんてことを、顔も知らない奴に予想され、金を賭けられ、あまつさえ意に沿うほうに誘導されようとしていた……そんなことを、笑って話すなんて思わないだろう。
「あ、ジェスは知らない?降誕節のころに、町でそんな可愛い話があってね。……待ってて。まだそのチラシが小屋にあると思うから」
嬉しそうに踵を返して小屋に駆け込んでいく。
リシェリアが遠ざかったのを見ながら、俺はジェスに釘を刺しておく。
「安心していい。あいつが知ってんのは、城内でやってた下らねえ賭けの種じゃなくて、子供が聞くようなおとぎ話みたいな奴だ。……そんな感じで話合わせておいてくれ」
「……あ。はい、勿論!」
明らかにほっとした顔で、ジェスが胸を撫でさすっていた。
……”赤と黒”。
こっちはこっちで、あの名前が話に出たせいで、当時の嫌な気持ちを思い出してしまった。
人の口に戸は立てられない。俺とリシェの仲が、普通に誰かの会話に上がることはこれからもあるんだろう。
……やっぱり、浮かれていては駄目だ。
真面目にやって、少しでも点を稼がなければいけない。そして名を上げて、誰から見ても隣に立つに恥じない資格を手に入れよう。
そして、半端な覚悟で、リシェに手を伸ばす愚かなやつがいたらすぐに噛みつけるように。




