何気ない始まり
本章少し長編になります
それは、何気ない任務のはずだった。
報せが届いたのは、春が近い、まだ寒さの残る午後だった。
窓の外では、枝先の蕾が陽光に照らされて微かにふくらみはじめている。
冷たい風の合間に、どこか湿り気を帯びた空気が混じるようになり、季節の境が近いことを感じさせた。
アデライナが執務室に現れたのは、ちょうど湯を入れ直したばかりの頃だった。
彼女は調査部からの報告書を手にしており、普段と変わらぬ落ち着いた声で口を開いた。
「支部からの連絡で、南部のある場所の祠堂で祭器の破損があったとのことで……」
その一文を読み上げる彼女の横顔を見つめながら、俺は内心で頷いた。
特に珍しい事態ではない。
むしろ、季節の変わり目はこうした細かな不調が目につきやすくなる時期だ。
木の縮みや石の緩み、それらが祠堂に影響を与えることもある。
もちろん、単なる経年劣化や小動物のいたずらであることも多いが。
「ふむ……それなら、先に回ってついでに奉納しようか」
書類に目を落としながら、俺は簡潔に答えた。
南部のその地は、もともと秋に巡る予定だった。
だが、祭器の破損となれば話は別だ。
祭器は触媒だ。地方支部では、一般職員が分霊樹へ奉納するために欠かせない。誰もがリシェリアのように潤沢な霊質を持ち、器具もなしに自由な奉納ができるというわけではない。
巡行路を繰り上げ、春の巡礼に先駆けて赴く形にすれば、憂いも祓え、不安も鎮まるだろう。
ついでに新たな祭器とともに分霊樹に奉納し、整えれば、以降の工程も一つ片付く。
「よろしいのですか。助かります」
アデライナが、かすかに安堵したような表情で言った。
俺は、ただ頷いた。
――また、リシェリアに違う景色を見せてあげられるな。
その思いが、頭の隅にふと浮かんだ。
それもまた、さして特別な感情というわけではなく、ただ、目を細めたくなるような春の陽だまりのような心地で。
その程度の、淡い、認識だった。
行程表を組み終え、訪問先の一覧を確認し、宿泊地や各祠堂での儀式の順番に目を通した。春の巡行にしてはやや長めの距離を移動する行程だったが、慣れたものだ。リシェリアの体力と相談しながら組んだ内容でもある。
最後に参加者の配置を確認したときだった。
送られてきた名簿を目で追っていた俺の手が、ぴたりと止まった。
そこに、――セランの名があった。
ほんのわずか、無意識に眉が動いたのが自分でもわかった。
この外遊は、城外の空気に浸る数少ない機会のはずだった。
神殿の外で、限られた時間だけでも、リシェリアの横に立つことが許される――そんなひとときのはずだった。
にもかかわらず。
なぜ、あいつの名前がある?
軍部の人員配置は俺の管轄外だ。
連携こそすれ、命令権限は異なる。
調査部や護衛担当の意向で編成されることもあるし、単純に空きのある者を選出しただけかもしれない。
けれど。
よりにもよって、あいつが。
この時期に。
この行程に。
書面を覗き込んでいたリシェリアが、ふと嬉しそうに声を上げた。
「セランが一緒。……それに、アスティも来るんですね、嬉しい」
……喉の奥が、ざらつく。
その声。
その響きが。
あたたかな日差しのような微笑とともに出た言葉に、理屈では割り切れない感情が内側から膨らんでくる。
……セランのこと、そんなに嬉しいのか?
護衛としての信頼?それとも、幼い頃からの情?
理由はどうであれ、俺ではなく、セランの名前に心をほどくその表情が――
妬ましい。どうしようもなく、醜いくらいに。
だが、彼女の口から出たもう一つの名前に、俺はわずかに瞬いた。
「こんな外遊にアスティが?」
声が自然に漏れた。
驚きだった。
アストリット・メイスン。
王族に連なる公女であり、軍幹部の一人でもある。
あの実力と立場で、式典でもない地方の巡行に同行するなど、まずない。
彼女のような存在は、平時でも王都に控えるべき人間だ。
なにか、あるのか?
この配置は、偶然ではないのか?
名簿を見つめる視線が、自然と鋭くなっていた。
その答え自体は、拍子抜けするほど安易で、そして納得のいくものだった。
数日後のこと。
アスティが俺の執務室に顔を出した。リシェリアのいない、俺だけの空間に。
扉が軽く叩く音とともに、彼女は肩の力を抜いた気配で入ってきた。
その手には簡易な資料と、片手には既に湯気の消えかけた茶杯を持っている。
「ああ。行き先……イェルス領近くで別用があってね。総長がどうしても出向けないから、代行でね」
窓際の椅子に腰掛けると、彼女は慣れた所作で湯を口に運びながら、やれやれと言いたげに吐息を漏らした。
「現地では半数以上は別行動。幕営も別で組む。あんたたちの護衛隊はちゃんと振り分けてあるから」
なるほど。
確かにそれなら筋は通る。
副総長の彼女が現地の軍事監督として派遣されることはおかしくない。
偶然とはいえ、同じ地方への赴き。行き帰りの道を共有するのもまた、合理的だ。
けれど、どこか釈然としないものがあった。
その曖昧な感情に蓋をするように、俺は窓の外へ視線を逸らした。
中庭が見えた。
やや離れた敷地では、赤い髪を揺らして動く人影。リシェリアとセラン、そして数名の職務者たち。
春めく光の下で、何かの植え替え作業だろうか。
俺の執務室の窓からは、彼女の執務室よりもその一角の方がよく見える。
……皮肉なことに。
聞かれたくないリシェリアはいない。
せっかくだから。
あいつのことを聞くなら、今しかない。
「……セランは、どっちに入る」
声のトーンを抑えながら、ただ外の光景を眺めているふりをして。
自分でも問いかけが不自然でないことを願いながら。
だが――
アスティは、こちらの腹の内などとうに見透かしていたようだった。
「セランは、次の下士官試験を受けるからね。練度や連携の査察があって。その一環で今回の遠征に組まれてる」
にやり、と笑う気配。
眉を少し上げて、茶杯を揺らしながら、揶揄うように俺を見つめてくる。
「もちろん、私もその監督の一人。現地では別行動させてもらうよ。……安心した?」
全て見通しているようなその態度。
こちらの動揺や劣情まで読み取っているような余裕。
その気配が、少し――いや、かなり鼻に付いた。
「……別に」
吐き出した声が、不貞腐れた子供のようで、自分でも嫌になる。
だけど、それ以上の言葉は出てこなかった。




