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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
11章 机上の風雲
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浮ついた半歩、後ずさる半歩

この間の会議――

自分でも、久々に満足いく立ち回りができたと思った。

結論へ至る道筋を示し、場の流れを組み替え、恐怖に傾いた思考を引き戻した。

その光景を見つめていたリシェリアの目に、尊敬の色が宿っていた。

それは、明確に感じ取れるほどに。


今までよりも、半歩。

ほんの半歩だけ、距離が縮まった。

野生の鳥を、日々手ずから餌付けして、ようやく掌に留まってくれた――そんな喜びに似ている。


そうだ。これこそ、俺が求めていたもの。


前回の石室の件以来、週に一度は食堂で一緒に食事をとるようになった。

最初は逢瀬のように緊張したが、今では、自然な日常の一部になっている。


審議会での俺の振る舞いが、祭祀官たちの興味を引いたらしく、時折、他の職員たちも会話に混じるようになった。

 

それは正直、癪だ。

だがリシェリアが楽しそうに笑うから、俺はそれを拒めない。

彼女の声が弾むなら、多少の雑音くらい我慢できる。

……いや、むしろ、彼女の明るさが他の者たちを和ませ、

思考が固まった議論に新しい風を吹き込む。


人の輪に加わること。

今までなら避けてきたことだ。

だが、彼女と共にいることで、それも悪くないと思えるようになっていた。


家族を失い、当主としての責務に沈み、ただ静かに、生き延びるように過ごしてきた日々。

その俺の生活が、今はまるで嘘みたいに騒がしい。

……けれど、不思議と嫌ではない。


「リシェリア様。カイルのやつ、実は担当に選ばれた時こんな顔して、『面倒だ…』って言っていたんですよ」


同僚の一人が、わざと眉間に皺を寄せて言い出した。


よりによって、なんでその話を……。


「悪いやつではないですけどね、偏屈だし、ちょっと厳しいでしょう? よかったら今から変わりますよ」


笑いながら続ける。

揶揄いだと分かっているのに、顔が熱くなる。


「随分丸くなったものだ」

 

別の職員まで加わり逃げ場がなくなる。

あの時は確かにそう思っていた。面倒だと。

だが、今なら断言できる。

あの任命こそ、降って湧いた祝福だったと。

リシェリアでなければ、俺はこんな風に変われなかった。


「あの時は、集中したい研究が佳境で……」

どうにか搾り出した言い訳を口にする。

苦しい。だが、何か言わないと居た堪れない。


恐る恐る、彼女を振り返る。

気を悪くしていないだろうか――。


「そうだったんですね……申し訳なかったです。今からでも変えていただきますか?」

彼女は、申し訳なさそうにそう言った。

けれど、それが冗談だとすぐに分かった。

ほんの一瞬、俺にだけ向けて見せた笑み。

その微笑が、胸の奥を柔らかくする。


「リシェリア、気をつけたほうがいい。彼は彼で、君に自分の分の苦手な業務をやってもらいたいだけだ」

 

ようやく、軽口を返す余裕が戻る。


「わぁ……それでもカイルに教わるよりは、簡単かもしれませんよ」

リシェリアは、楽しそうに笑った。

鈴の音のように。


その笑みを見ながら、俺は指先が偶然触れたように装って、そっと彼女の手に触れる。

少しの驚きのあとで、彼女はその手を引かずにいてくれた。


「厳しいのは認めるけど、俺が楽をするためじゃない。君のためだよ」


他の人ではなく、俺を選んで欲しい。

心の中でそう念じながら、指を重ねてみる。それも跳ね除けられたりしない。

同僚たちの笑い声に紛れて、俺だけが密かに、その小さな前進を噛みしめていた。


そうしていつでも彼女をつい見つめていたから、わかった。

何かを考え込むように、時折遠くを見ていることに。


食堂からの帰り、次の公務に使う参考書を探しに図書室へ寄った時だった。

書棚に目を滑らせていたリシェリアが、ため息をついたのが聞こえた。


「どうかしたのかい?……また悪夢を?」

きっと俺の時計の音が慰めているはずだと思いたいが。


「あ……、いえ。最初の頃、カイルはやはり少し私を敬遠されていたんですね。私がそう感じていたのは、間違いではなかったんですね。私が未熟なばかりに大切なお時間をとってしまって……」


午後の光が書棚の木肌を透かし、紙の香が淡く漂っていた。

その静けさの中で、リシェリアの声が柔らかく響く。

けれどその言葉の芯には、ほんの棘がある。


「本当に……いや。その節は、すまなかった」


言葉にした瞬間、視界から文字が消えた。

本棚の背に並ぶ背表紙がぼやけて、まるで目が焦点を結ばない。

彼女にそう言われると、何故こんなにも痛むのだろう。


「対面してすぐヴェールをめくられた時は、きっと重大な何か確認があったのだと、あまり考えないようにはしていました」


――やめてくれ。

わざとからかっているのだと分かっていても、胸の奥を抉るような痛みが残る。

 

あの時の俺は、本当に愚かだった。

警戒と焦りと、不可解な感情で自分を塗り固めていた。ただ、彼女を見極めようとして――見誤った。


「……返す言葉がないよ。何度でも跪く」


俺は探していた書物を棚に戻し、振り返ってリシェリアの前に膝をついた。静かな書庫の空気が、息づかい一つで震える。

木の床がひやりと膝を刺す。


「あ、いえ、冗談ですから。大丈夫です。からかっただけですよ。立ってください。ね?」


慌てた声が降ってくる。

リシェリアは目を丸くして、慌てて手を伸ばす。

焦りと優しさが入り混じった仕草に、思わず息をのむ。


その手を、取ってしまった。


白く繊細な指先。

軽く触れただけで、心が熱を帯びる。


「カイル……もういいですから」

制止の声が震えている。

けれど俺は、止まれなかった。


「リシェリア。……何度でも許しを乞うよ。俺が浅はかだった」


彼女の指を包み込むように両手で握る。

手のひらの中の温もりが、今にも溶けてしまいそうで。失いたくなくて、強く握った。


あの時は、取るに足らない存在だとただ侮っていた。

彼女が他人の興味を引く何かを知りたくて、好奇心が礼儀を乗り越えてしまった。今となっては、自分が恥ずかしい。


「大樹が君のために……俺を選んでくれたのに」


その言葉を零すと、リシェリアのまつ毛が揺れた。

青い瞳が、驚きに震え、そして迷いを孕む。


「今は君に会えたことを感謝している。担当でいさせてくれてありがとう」


それは祈りにも似ていた。

この想いが彼女の記憶に残るように。

ゆっくりと、薬指に唇を寄せる。


柔らかい感触。

その瞬間、リシェリアの肩が小さく跳ねた。

息が、微かに詰まる。


青い瞳が――戸惑いを映して、わずかに揺れる。

次の瞬間。


逃げるように、彼女の足が後ずさる。

背が、書棚に当たる。


どん、と重い音。

その勢いに書棚が軋み、並んでいた本が一斉に傾いた。


「リシェリア!」


名前だけが先に口をついで出た。

次に、考えるより先に、身体が動いた。

腕を伸ばし、崩れ落ちる本から庇うように彼女を引き寄せ――肩を抱いて反転した。

視界が回転する。


「!!」


鈍い衝撃と共にドサ、ドサドサ――と、重みを帯びた本が背中と肩に降り注ぐように次々と落ちてくる。

硬い背表紙が床を打つ音。紙の束がばらける。


「うぐ……」

息が詰まるような痛み。だが、間に合った。


「痛た……リシェリア、大丈夫?」


「は、はい。庇ってくださったので……」

耳のすぐ近くで、小さく震える声がした。

その息が首筋をかすめ、体温を残して消えていく。


「あの……」


気づけば、俺は彼女を腕の中に閉じ込める形でいた。

落ちる本を少しも触れさせないように、背中を抱え、体を密着させて。

微かに震える肩の上下が、呼吸のたびに胸の奥に伝わってくる。

顔と顔の距離は、息一つで触れ合いそうなほど近い。


「うん」

俺は、何を聞かれようとしているのか分からないふりをして相槌を打った。

そうでもしなければ、理性が保てなかった。


柔らかく香る髪。

甘い、少し花のような匂い。

――いい匂いだ。


ずっとこのままでいたい。

華奢で、壊れそうで、でも確かに俺の腕の中にいる。

大きくはない俺の体でも、守るように包み込める。

それが、ただ嬉しかった。


「……そろそろ……片付けないと」


リシェリアの声が、困ったように優しく響く。

終わりの合図のようだった。


「そうだね」


口ではそう言いながらも、体は動かない。

まだ離れたくなかった。

今この瞬間の温もりを、脳裏に焼き付けておきたかった。


そのとき、リシェリアの口から、ふっと小さな息が漏れた。


――はぁ。


話が通じない俺に困って吐いた息だったのだろう。

けれど、どこか甘く。俺を惑わす音色をしていた。


「!」


背筋を電流のような震えが走る。


あ、まずい――。


理性が警鐘を鳴らす。だが体は正直だった。

腕の中の柔らかさ、熱、香り。

それらすべてが、一瞬でよくないものを呼び起こす。

この距離ではきっと気づかれてしまう。


「ごめん、呆けていた」


そう言いながら、急いで彼女から身を離す。

しゃがみこんで散らばった本を拾うふりをする。

視線を逸らすことで、どうにか理性を繋ぎ止めた。


「か、片付けよう」


言葉が乾いて聞こえた。


……危なかった。ほんの一瞬のことだったのに。


甘く、抗いがたく、美しい誘惑。

ここが密室だったら――

そんな想像が頭を掠めた自分自身に呆れ、心の中で打ち消した。


背中がずきりと痛み、現実が戻ってきた。


「う、その前に……背中に癒しを頼めるかな」


「あ、ふふ。そうですね。……庇ってくれてありがとうございました」


リシェリアは穏やかに笑った。

その笑顔に救われる。

さっきまでの気まずさも、胸を焼くような衝動も、

すべてが、まるで何でもなかったかのように。

俺だけが、その一瞬の熱を、まだ胸の奥に残していた。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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