悪夢は白いだ罪の記憶
私は中庭を見下ろす昼の図書室の閲覧席にいた。
私室で人の気配がないのは、なんだか呼吸が出来ない気がした。
夜では悪夢の反響に打ちのめされそうだった。
ここなら静かで邪魔も入らない。……それに書物でできた知性の壁が、カイルの理性のように崩れそうな心を支えてくれそうだと思った。
あの日、カイルが会議で見せた姿――その思考が場を変えていくさまを、私は息を呑んで見つめていた。
誰もが恐怖に呑まれかけていた空間を、彼は言葉と論理だけで少しずつ切り分け、名前を与え、正常な形へ戻していった。混乱は消されたのではなく、細かく解かれ、並べ直されていったのだ。
それは、今までカイルが日課のように私へ向けてきた問いかけと同じだった。
「なぜ、そう思った?」
「どこが怖い?」
「もう少し切り分けて考えてみよう」
喜びや楽しさは、形を与えて大きくしてくれる。不安や悲しみは、呑み込みやすい大きさまで分けてくれる。私はそれを、ただ自分のための優しさだと思っていた。
けれど、あの会議で分かった。
カイルは同じことを、“みんな”に対してしていたのだ。
恐怖に覆われた思い込みを、一つずつ外していく。曖昧な不安を言葉にして、見える場所へ置く。そうするだけで、人の考えはあんなにも変わっていく。
人の思考というものが、こんなにも脆く、柔らかいものだなんて。
私は、今までそれを見るのが怖かった。考えるほど何かを壊してしまいそうで、嫌なことを思い出すのが苦しくて、不安が募るたびに“考えない”ことで自分を守ってきた。
けれど、カイルは違う。
恐れずに見つめる。
理解しようとする。
そして、真正面から立ち向かう。
その強さに、胸の奥で静かに熱が灯った。
私にも、あんなふうにできるだろうか。
あの夢に。あの過去に。
瓦礫と血と、闇に覆われた記憶。
触れるたびに息が詰まって、心が凍る。
でも……もう逃げたくない。
できなくてもいい。
ほんの少しだけ、でも前に進みたい。
「……私の、恐怖を紐解いて、みよう」
何年も私を苛んできた悪夢の入口に、私は初めて、自分の足で立ってみることにしたのだ。
だから、少しだけ覚悟を決めて。昼の間に私は1人になる時間を作った。
音にするのは怖い。図書室は私語厳禁でもある。
薄い帳面と筆を前に置いて走り書きを始める。
『夢』
私が何を恐れているのか。
私の夢はいつも、あの波にたくさんのものが奪われたあの日だ。
『天災』
私自身は、実際には大波に呑まれたわけじゃない。
地下室のワイン倉庫で、わたしは揺さぶられていただけで、地上に出た頃には全て終わった後だったから。
……本当に怖い思いをしたのは地上にいた人たちのはず。
私は幸運だった。
地下で怪我もなくやり過ごせていて、助けに来てくれる人すらいた。
セランとウル――ウルガ。
私の自慢のお兄ちゃんと相棒。
犬の鼻で探り当てて、手で引っ張り出してくれた私の騎士たち。
この世界で心から信じる家族。
腕の中に抱かれた瞬間、胸の底から救われるような安堵があった。
『天災。予感通りに起きたけれど、私も無事だった。助けに来てもらえて嬉しかった』
……周りは酷かった。悲しかった。
けれど、私が今も夢に見るほど怯えているものは、まだここじゃない。
次に進む。
『セランの大怪我とウルの死』
地下から外に出た途端、大地が再び唸りを上げた。
崩壊した街並みがさらに砕け、地鳴りが響き渡る。振り返る間もなく、私の大切な二人が瓦礫に呑み込まれた。
喉が裂けるほどに、叫んだ。
「神さま……!守って、お願い!」
この頃は、神様というのは私にとって、なんとなく異能を与えてくれた何かくらいだった。それでも、力をくれた大いなるものに向かって、持っている力のすべてを振り絞り、心の底から縋った。
……でも当時はまだ、異能は満足に使えていなかった。
周囲には人々の悲鳴が渦巻き、わたしの耳をかき乱した。
「子供と犬が潰されたぞ!」
「だれか助けてやれ!」
生き延びた大人たちが駆け寄ってくれて、一緒に瓦礫を退けてくれた。だけどその目に映ったものはあまりにも無惨だった。
願いは、少しだけ届いていた。
全部は守れなかった。
セランとウルを、それぞれ半分だけ守っていた。
恐ろしかった。
セランも、ウルも。
半身は綺麗で、残り半分は……酷いものだった。
でも肉も骨も崩れた赤い塊の中で、まだ必死に生きていた。
「セラン!ウル!」
慌てて駆け寄った。夢中で集めた。
意識はないけどまだ動いてる。生きてる。
なのに、真っ赤に染まった地面で、大人たちは顔を歪めて変なこと呟いていた。
「可哀想に。こりゃ……もう。……駄目だな」
――駄目?
そんなの、駄目なんて駄目に決まってる。
まだ動いてる。
「お嬢ちゃん。また揺れるかもしれん。おじさん達と逃げよう」
「あの子はもう助からん。拾った命を無駄にするな」
「この娘はワイズのとこのだろ。助けておけば礼金をもらえるかもしれん」
「行こう。おいで」
大人たちは次の波に怯えて、助からない命より生きてる命が大事だって言って。私を、あの子達から引き剥がして遠ざけて置いていこうとしたんだった。
だめ。
だめ、だめ、だめ。
行かない。
いやだ。どうして。
行かないで。
セラン。ウル。
「はなして!」
渾身の力でもがいて大人から逃げ、ぬかるむ地面で転げながら、二人のもとへ必死で戻った。
震えているふたつの体を集めて抱いて、涙で視界がぐにゃぐにゃに歪む中で、再び祈った。
全部の力を使い果たしたらどうなるのかわからない。空っぽになっていい。それでも、構わなかった。
「わたしの全部なくなってもいいから……!」
そう叫びながら、願う。自分の命を燃やすように祈った。
固く閉じた瞼の奥、頭の中で必死にふたりの輪郭を描く。
難しくないはず。彼らの体に、崩れる前のあるべき二つの正しい形を思い出してもらうんだ。
大丈夫、私がちゃんと正解を知ってるから。
笑顔も、足も、耳の形や毛並みだって何から何まで、全部覚えてるから。
だから元の形に戻ろう。
途中までは上手くいっていた。
だけど、足りなかった。
流れてしまった血は戻せない。空気に触れたり変わってしまった細片も。
今もどんどん減っていってる。
頼りない光のようにかすかに見えるはずの気配が、少しずつ薄れていく。指の間から零れ落ちていく砂のように、どんどん、いなくなってしまうのがわかる。
あ……。
だめ。行っちゃだめ。
掻き集めても、掻き集めても、足りない。
お願い。お願いだから、逝かないで。
もっと、もっと。
集めて、集めて、集めて、集めて、集めて。
お願い、お願い、お願い……!
頭が痛かった。心臓が苦しかった。息を忘れていたのかも。はり裂けそうになるほど集中していた。
だから、現実にどんな光景が広がっていたのか、私は知らない。
私がどう決めたのか――覚えていない。思い出せない。…………でも、結果だけは知っている。
目を開けた時、取り戻していたのはセランだけだった。
潰される前の、寸分違わぬ私の知るセランの体。
そして……ウルは、冷たい体を残して、もういなくなっていた。
セランの胸は上下していたけれど、目は閉じたまま。呼吸の気配すら薄く、手を握っても反応がなくて。
……その時は失敗したのだと思っていた。
わたしは泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて。
声も枯れるほど、嗚咽で胸を掻きむしるように泣き続け、……いつのまにか、セランが起きて私を抱きしめてくれていた。
「リシェ。俺は生きてる。生きてるよ」
その声にようやく少しだけ現実を取り戻せた。
『セランの大怪我とウルの死。辛くて悲しかった。怖かった。それでも全部は失わなかった』
ここまでは、……大丈夫。辛いけど受け取られる。
じゃあ、私は何が怖いの。
『目覚め』
あの時、セランの生きている温もりにすがりながらも、まだ私は震え続けていた。視線の先に、まだ怖いことがあったから。
小さい私は手の中のウルを見ていた。
さっき、瓦礫から掘り出した時よりも、……ウルが少ない。ウルの体が減っていることに。
――私はきっと、してはいけないことをしてしまった。
現在の私も、もう気づいた。私が震えていて、今もまだ、この記憶に苛まれているのは……恐怖なんかじゃなくて。
罪の記憶だ。
『目覚めたのは本当にセラン?』
2つの命は助けられない。1人だって命の源が足りない。ならせめて1人だけでも助けることを願った。
どちらかを選んだ。
違う。
……足りないなら、足せばいい。
私はその後ずっとただ恐慌に呑まれていた。言葉にできる余裕なんて一欠片もなかった。世界がひっくり返って、心臓が耳の奥で爆ぜるみたいに鳴って、視界も呼吸もぐちゃぐちゃに乱れていた。
あの時のセランは、そんな私の代わりに周りを見渡し、何をすべきかを理解して、動いてくれた。彼のその在り方は、幼いのに大人よりずっと強くて、現実を掴み取ろうとする意志に満ちていた。
わたしはただ、その姿を震えながら見ていた。頭にあるのは、ひとつだけだった。
本当にこの子はセランなのか。
彼はわたしの知っているセランで、問題はないのか。
なんとか村に戻れたとき。
埃と血と涙でぐちゃぐちゃの私達を、家族が抱きしめてくれた。その温もりの中で、ようやくわたしは「セランだけは引き止められた」と信じ込むことにした。
そうしなければ、立っていられなかった。
そして胸の奥で、ウルに感謝と別れを告げた。
――ありがとう、ごめんね。さよなら。
おそらく。……セランの怪我を癒すのに足りない分を、ウルから借りてしまったのだと思う。
彼の命にはきっと、ウルが混じり合った。
そう思ってしまうだけの根拠がある。セランはこれ以降、前よりずっと感覚が鋭くなった。足も目も耳も普通の人よりずっといい。嗅ぎ分ける鼻は特に人間離れしている。
セランは、ウルが自分の中で共に生きてくれているのだと受け止めたみたいだったけど、私は違う。
それを罪の証だと思う。
『私は命を冒涜した。許されてはいけない。忘れてはいけなかったのに。だから、夢が怖い。思い出すのが怖かった』
そこまで殴り書きをして、我に帰った。
「だめ。こんなこと……紙に残せない」
走り書きを誰にも見られないように、慌ててぐちゃぐちゃに丸めた。……すぐここを出て燃やそう。手が震えていた。
だけど、わかった。
悪夢がいつも同じ場面を再演していたのは、私が思い出さないといけなかったから。
最近見た大人のセランの姿の夢は、きっと警鐘だ。罪を忘れたままで、いつか同じことをするのを防ぐためなのかもしれない。
一呼吸をした。
明るい外には鳥の囀りがして、回廊で誰かの話し声が遠くに聞こえる。
分解した夢――紛れもない過去の罪は、苦しくて胸が重い。整理したとしても過去は変えられない。今のセランの人生を生きてもらうしかない。
このことは、これからも決して――死ぬまで口にはしない。セランが誰にも疎外されずにすむように。事実が彼を苛まないように。
これはわたしの罪であり、わたしだけが抱え続ける罰だから。
それでも、夢への不安や恐怖は――薄らいでいた。また悪夢を見たとしても、背けずに見つめようとすら思えた。
立ち向かう勇気をくれたのは、カイルだった。
けれど、紙を握り潰した手の中には、まだ消えない震えが残っていた。
ワイズは町でのリシェリアの養親の姓です。




