初めての共同作業
無事、この日を迎えられた。
まだ正式な儀ではなく、今日は事前に剥離された大樹の根の一部を触れるだけ。根がある祠へ赴く必要もなく、準備も最低限で済む。気負う必要はないし、日程を再調整しても良かった。
それでも予定に滞りないことは、気持ちが晴れやかだ。
祭祀庁舎内の会議室の一室に数名の関係者が入り、机上の道具を整えている。石造りの壁は朝の光を拒むように冷たく、窓辺から差し込む淡い光が埃を淡く舞わせていた。
俺は備品の包みを抱えて入室した。筆記具や、自分が使い慣れた私物を少し。調査は小規模でも、手に馴染んだものがなければ作業に集中できない。
ふと気配を感じ、視線を横に送る。
壁に寄りかかり、腕を組んでいたのはアスティだった。場違いなようで、しかし彼女はそこに当然のように居座っていた。
「や。」
軽い挨拶と共に、ひょいと片手を上げる。軍服の襟元を崩し気味にしながらも、眼差しは相変わらず冴えている。彼女の雰囲気には、壁のような防御を感じさせるものがなく、ただ無遠慮に入り込む強さがあった。
「リシェリアの様子を見に。どう?」
その声音に、俺は肩をすくめて答える。
「ああ。まあ、問題ない。」
一言で切り上げたつもりだったが、アスティは口角を下げる。
「……それだけ?」
苛立ちというより、不満を隠さない物言い。俺は眉を寄せ、返しを選ぶ。
「?任期開始までには間に合う。他に何が聞きたいんだ。」
それで話は終わるはずだった。が、ふと脳裏にあの言葉が浮かぶ。アスティが以前、ふざけたように忠告してきた戯言。まさか、それをまだ気にしているのか。
「まさかあの一目惚れがどう……」
皮肉を含めて言いかけた、その瞬間だった。
「おはようございます。」
澄んだ声が扉口から届き、空気が切り替わる。
俺は言葉を飲み込んだ。
リシェリアが入室してきたのだ。柔らかな衣の裾が翻り、朝の光を受けて彼女の髪がきらりと揺れる。部屋の空気が、彼女一人の到来でどこか清澄に澄んでいく。
「アスティ」
所員たちへ挨拶を終え、リシェリアが小走りに駆け寄る。その笑顔には無邪気さと親愛が溢れていて、彼女が向ける相手が自分ではないことに、なぜか胸の奥がざわついた。
「リシェリア、久しぶりになっちゃってごめんね。元気?」
アスティは両手を広げて大げさに迎える。その声色は普段の彼女からは想像もできないほど華やかで、耳に甘ったるく響いた。
二人が顔を寄せ合い、再会を喜ぶ言葉を交わし始める。
その場に立ち尽くした俺は、無意識に視線を逸らした。
見慣れぬ調子の声、過剰に明るいやり取り。
そのすべてが、自分の居場所を奪うように響いてくる。
居心地の悪さが、胸の奥でじわじわと募っていった。
……今この部屋の最高権者は俺だ。
この場を統べ、指揮を執るべきは俺であり、本来ならば私語ひとつ許されないはずだ。もっと祭祀は静謐であるべきで、余計な華やぎや軽口は場を濁らせる。早く終わらせて、アスティをこの場から追い出すのが最善だ。
俺は二人の再会の空気を切り捨てるように背を向け、淡々と他の所員に指示を飛ばす。
「大樹の根片はそこに。……記録は順に。配置図を机の左に並べろ。」
筆記官が慌ただしく動き、羊皮紙の上に墨を走らせる。重い椅子が軋み、会議室の空気がようやく祭祀らしい緊張感を取り戻していった。
「そろそろ始めても良いだろうか。」
準備が整った頃合いを見計らい、二人に割り入って声をかける。声はわざと硬く、議事の進行以外は拒むように。
「アーレンス様。失礼しました、おはようございます。今日もよろしくお願いします。」
リシェリアはアスティに向けていた柔らかな笑みを引っ込め、きっちりとした礼に戻った。――だが、その声音にわずかな翳りがあるように聞こえる。昨日の自分の発言が彼女の胸に残っているのかもしれない。余計なことを言ったと、今さらながら悔やまれる。
「リシェリア、頑張って。」
アスティが軽く肩を叩くように送り出す。その声音は、他者を励ます者のそれでありながら、なぜか横槍を入れられたような気分にさせられる。
……アスティも他の者もいる。だから昨日の詫びも、脈絡のない励ましもできない。胸の奥に言葉がつかえて、もどかしい。
「ああ。今日は緊張せず、君のペースでやってもらっていいから。気負わずに。」
それがせめてもの配慮のつもりだった。
「はい。」
リシェリアは静かに着座し、机の上に手を伸ばした。そこには昨日と同じ、大樹から切り離された根の一部。だが彼女の周囲に漂う光は、昨日よりも濃く見えた。瞼を下ろす前、氷の結晶を宿したように瞳が淡く変わる。その瞬間、俺の胸に冷たく清冽な感覚が走る。
……まだ視界を切り替えていないのに、見える。
知覚を始めたのだ。部屋の空気が一段と明るさを増し、リシェリアを包む光も厚みを増していく。
――多い。
いつもより、明らかに。
彼女は触れぬように手をかざし、大樹の奥を視ていた。しばしの沈黙ののち、顔を上げてこちらに向かい、細い手を差し出してくる。
「アーレンス様。」
「ああ。」
意を得たとばかりに、反射的にその手をとり、そっと握った。
リシェリアの肩が小さく跳ね、驚きが走る。
同時にアスティの視線が、明らかにその手元に注がれた。
――あ。
とる必要のないのに手を、握ってしまった。
昨日のあれは、単純に力を通すために触れただけだったのだろうに。なのに、何となく自然なものだと錯覚して……触れてしまった。
顔に熱がこみ上げる。羞恥が頬を灼く。
だが、今さら手を外せばさらに不自然だ。まるでやましいことを隠すようになってしまう。
だから当然のような顔で、そのまま進めるしかない。
くそ。あとで弁解しないと。
だが今は――見えたものを、描かなければ。




