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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
1章 黒
15/73

初めての共同作業

無事、この日を迎えられた。

まだ正式な儀ではなく、今日は事前に剥離された大樹の根の一部を触れるだけ。根がある祠へ赴く必要もなく、準備も最低限で済む。気負う必要はないし、日程を再調整しても良かった。

それでも予定に滞りないことは、気持ちが晴れやかだ。


祭祀庁舎内の会議室の一室に数名の関係者が入り、机上の道具を整えている。石造りの壁は朝の光を拒むように冷たく、窓辺から差し込む淡い光が埃を淡く舞わせていた。


俺は備品の包みを抱えて入室した。筆記具や、自分が使い慣れた私物を少し。調査は小規模でも、手に馴染んだものがなければ作業に集中できない。


ふと気配を感じ、視線を横に送る。

壁に寄りかかり、腕を組んでいたのはアスティだった。場違いなようで、しかし彼女はそこに当然のように居座っていた。


「や。」


軽い挨拶と共に、ひょいと片手を上げる。軍服の襟元を崩し気味にしながらも、眼差しは相変わらず冴えている。彼女の雰囲気には、壁のような防御を感じさせるものがなく、ただ無遠慮に入り込む強さがあった。


「リシェリアの様子を見に。どう?」


その声音に、俺は肩をすくめて答える。

「ああ。まあ、問題ない。」


一言で切り上げたつもりだったが、アスティは口角を下げる。


「……それだけ?」


苛立ちというより、不満を隠さない物言い。俺は眉を寄せ、返しを選ぶ。


「?任期開始までには間に合う。他に何が聞きたいんだ。」


それで話は終わるはずだった。が、ふと脳裏にあの言葉が浮かぶ。アスティが以前、ふざけたように忠告してきた戯言。まさか、それをまだ気にしているのか。


「まさかあの一目惚れがどう……」


皮肉を含めて言いかけた、その瞬間だった。


「おはようございます。」


澄んだ声が扉口から届き、空気が切り替わる。

俺は言葉を飲み込んだ。


リシェリアが入室してきたのだ。柔らかな衣の裾が翻り、朝の光を受けて彼女の髪がきらりと揺れる。部屋の空気が、彼女一人の到来でどこか清澄に澄んでいく。


「アスティ」


所員たちへ挨拶を終え、リシェリアが小走りに駆け寄る。その笑顔には無邪気さと親愛が溢れていて、彼女が向ける相手が自分ではないことに、なぜか胸の奥がざわついた。


「リシェリア、久しぶりになっちゃってごめんね。元気?」


アスティは両手を広げて大げさに迎える。その声色は普段の彼女からは想像もできないほど華やかで、耳に甘ったるく響いた。


二人が顔を寄せ合い、再会を喜ぶ言葉を交わし始める。

その場に立ち尽くした俺は、無意識に視線を逸らした。


見慣れぬ調子の声、過剰に明るいやり取り。

そのすべてが、自分の居場所を奪うように響いてくる。

居心地の悪さが、胸の奥でじわじわと募っていった。


……今この部屋の最高権者は俺だ。

この場を統べ、指揮を執るべきは俺であり、本来ならば私語ひとつ許されないはずだ。もっと祭祀は静謐であるべきで、余計な華やぎや軽口は場を濁らせる。早く終わらせて、アスティをこの場から追い出すのが最善だ。


俺は二人の再会の空気を切り捨てるように背を向け、淡々と他の所員に指示を飛ばす。

「大樹の根片はそこに。……記録は順に。配置図を机の左に並べろ。」

筆記官が慌ただしく動き、羊皮紙の上に墨を走らせる。重い椅子が軋み、会議室の空気がようやく祭祀らしい緊張感を取り戻していった。


「そろそろ始めても良いだろうか。」

準備が整った頃合いを見計らい、二人に割り入って声をかける。声はわざと硬く、議事の進行以外は拒むように。


「アーレンス様。失礼しました、おはようございます。今日もよろしくお願いします。」

リシェリアはアスティに向けていた柔らかな笑みを引っ込め、きっちりとした礼に戻った。――だが、その声音にわずかな翳りがあるように聞こえる。昨日の自分の発言が彼女の胸に残っているのかもしれない。余計なことを言ったと、今さらながら悔やまれる。


「リシェリア、頑張って。」

アスティが軽く肩を叩くように送り出す。その声音は、他者を励ます者のそれでありながら、なぜか横槍を入れられたような気分にさせられる。


……アスティも他の者もいる。だから昨日の詫びも、脈絡のない励ましもできない。胸の奥に言葉がつかえて、もどかしい。


「ああ。今日は緊張せず、君のペースでやってもらっていいから。気負わずに。」

それがせめてもの配慮のつもりだった。


「はい。」

リシェリアは静かに着座し、机の上に手を伸ばした。そこには昨日と同じ、大樹から切り離された根の一部。だが彼女の周囲に漂う光は、昨日よりも濃く見えた。瞼を下ろす前、氷の結晶を宿したように瞳が淡く変わる。その瞬間、俺の胸に冷たく清冽な感覚が走る。


……まだ視界を切り替えていないのに、見える。

知覚を始めたのだ。部屋の空気が一段と明るさを増し、リシェリアを包む光も厚みを増していく。


――多い。

いつもより、明らかに。


彼女は触れぬように手をかざし、大樹の奥を視ていた。しばしの沈黙ののち、顔を上げてこちらに向かい、細い手を差し出してくる。


「アーレンス様。」


「ああ。」

意を得たとばかりに、反射的にその手をとり、そっと握った。


リシェリアの肩が小さく跳ね、驚きが走る。

同時にアスティの視線が、明らかにその手元に注がれた。


――あ。


とる必要のないのに手を、握ってしまった。

昨日のあれは、単純に力を通すために触れただけだったのだろうに。なのに、何となく自然なものだと錯覚して……触れてしまった。


顔に熱がこみ上げる。羞恥が頬を灼く。

だが、今さら手を外せばさらに不自然だ。まるでやましいことを隠すようになってしまう。


だから当然のような顔で、そのまま進めるしかない。


くそ。あとで弁解しないと。

だが今は――見えたものを、描かなければ。

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