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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
1章 黒
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好奇心は虎の尾を踏む

私室に戻った。扉を閉め、外気の気配が途切れる。

卓上の燭台に火を点すと、蜜蝋の匂いが薄く満ち、紙束と羽根ペンが琥珀色に浮いた。

上衣を椅子の背にかけ、深く息を吐いてから――もう一度、視界を開いてみる。


さっきよりも、わずかに手応えがある。

力が薄く増したような、視界の縁が静かな燐光で縁取られるような感覚。

つい思ってしまう。俺にも、リシェリアのように何かが見えるのではないか、と。


何から試すか。

有機物。無機物。生き物――は、今この部屋にはいない。

どれだけのものを捉えられるのか、手近な順に試そう。


まず無機物。

机の板、金具、硯の石。

自然界に力は遍在していても、これらの内部に流れは見えない。

乾いた沈黙の塊。事前に何もまとっていない以上、知覚すべき「筋」そのものがないのだろう。

見えないものは、やはり見えない。


次に有機物。

夕餉の残りのパン、橙。

意識をそっと触れさせる――が、像は言語化を拒む。

筆で写せと言われれば、せいぜい抽象画の染みになる。

概念の枠組みが、人と樹木とでそもそも違っているのだと悟る。


パンに至っては、触れた途端、舌に乗せた苦汁のような即時の忌避が走った。

酵母、火、塩、人の手。幾段も手が入ったゆえの雑味か。

直感的に「今はやめろ」と体のどこかが告げ、すぐに感覚を引いた。

理解の階段を一気に飛ばすのは危険だ。


……それにしても、リシェリアはリンゴから風景を読み取っていた。

絵に起こす腕はなくとも、像は澄んでいた。

あれは何の差だ。


波長――なのか。

もしそうだとすれば、彼女と波長が合うとされる俺は、どこまで合わせられる。

対象が大樹なら、拾えるのか。


羽根軸を取る。

疑問、仮説、観察結果を一つずつ書き出す。

無機物は流路なし→不可。加工度が高い有機体は複数視野が混ざるため熟練してから再試。そのようなことを紙の上に並べる。

…楽しい。こういう作業のために、俺はここにいるんだ。


実証、実験、調査。順路を敷き、一歩一歩踏んでいく。

新しい主題を見つけたようで楽しみを感じた。



******


そんな試行錯誤をして更けてしまった夜半。寝る前の暗い部屋。

蝋燭の灯りも落とし、わずかな月明かりが窓越しに机の端を淡く撫でている。

静けさの中で、俺の思考は自然と今夜の彼女との会話をなぞっていた。


「安心してください。他人の心を覗くのは、想像してるより、ずっとずっと難しいです。まず、自分より力が強いものにはできないと思います。……特に生きてるもの同士だと意思があるので、こう。反発が多いというか。出来て、小動物くらいだと思います」

やってみたことがあるのは鳥くらいですけれど。と、手を翼の形にして付け加えた。

リシェリアはそう言いながら、両の手を前に出して、空中に泳がすような不思議な仕草をしていた。掌の軌跡は曖昧で、説明というより感覚の表現。

だが、彼女がまだ学び始めの途上にあり、言葉にできない感性を抱えていることだけは伝わってきた。

そこに、彼女自身が知らぬ秘密も隠されているのかもしれない。


「……その論調だと、例えば酔っ払いや眠っていたり、あとは死体とかはできるのか。もしくは、肉体の一部とか。」

できたら身元判明できて便利そうだと。

つい、学術的な興味から過激なことを口走ってしまった。

弁論会で思考を推し進めるように、論理の先を試しただけだったが……相手を考えなかった。


「……」


沈黙。答えが返ってこない。

気まずさが胸に広がり、しまったと思う。

妙齢の女性に、血なまぐさい推測を投げるべきではなかった。

顔を上げ、慌てて言葉を継ぐ。


「すまない。配慮がなかった」


彼女は嫌悪というより、胸を押さえ苦しそうにしていた。

まるで何かを悼むように――その仕草に、はっとする。


「そう、ですね……。御遺体にはできてしまうかもしれません。お体の一部だと難しいかと。寝ている方や酔われている方も可能性はあります……でも、試したことはありません」


声は小さく、どこか痛みに似ていた。

やはり、誰か近しい人を失った過去があるのだろうか。

自分だけが苦難を抱えてきたと心の奥で思い込んでいた浅はかさが、赤裸々に突きつけられた気がした。


「あ、ああ。勿論そうだろう。……嫌なこと言ってすまなかった」

流石に、謝った声は低く落ちる。


けれど彼女は――苦しそうにしながらも、確かに微笑んでみせた。

その笑みは強がりではなく、弱さを抱えたまま差し出された温もりのようだった。


思えば、俺は日々彼女を厳しく導き、時には詰め、嫌な役目ばかりを押し付けてきた。

だから、笑わせることなどなかった。

だが今夜は違った。くるくると変わる表情を目にした。

それは聖女としての顔ではなく、ひとりの娘の素の顔。


――もっと、ああいう顔を見たい。


桃が好きだと言っていたな。

今日苦しめたお詫びに、探して贈ってみるのも悪くない――そんな考えが灯った。


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