心の接触
彼女を知覚する。心を読む――そんなことはあまりに禁忌で、息が詰まった。
喉がひりつくほどの沈黙の後、やっと声を押し出す。
「それは……やっていいことじゃないだろう。それに……できるとも思えない」
たとえ許されたとしても、俺の感覚はそこまで深部に触れたことは一度もない。
他人の奥底を覗くなんて、不遜の極みだ。
だが彼女は、落ち着いた声音で否を打ち消した。
「大丈夫だと思います。見てもらいたいものだけを、浮かべるので。それを見ていただきます」
安らぎを含む微笑み。
庭で新芽が芽吹いたとき、光を浴びてほころぶ彼女の顔が重なる。
その柔らかさは、こちらのために用意された安心の合図だった。
「試すだけでも、お願いしてもいいでしょうか?」
胸に詰まるものがあった。喉が狭まり、返答は自然と漏れていた。
「試すだけ……なら」
差し伸べられた彼女の手。
俺は恐る恐る、そのすぐ近くに自分の手をかざす。触れはしない。
けれど、空気を隔てて伝わる温もりを確かに感じた。
何かが見えるような気配……だが形にはならない。
やはり俺には無理か、と諦め顔の彼女を待った。
しかし彼女は瞼を閉じ、眉をわずかに寄せる。
まるで何かを探る小動物のように、愛らしくも真剣な面差し。
やがて、ひらめいたように口元が動いた。
「失礼します」
「!」
予告もなく、細い指が俺の手を掴んだ。
唐突な接触に体が強張り、反応が追いつかない。
「え……」
その瞬間、熱が走った。
指先から流れ込む何かが、波となって腕を駆け上がり、肩を越え、顎を抜け、頭の奥まで撫でていく。
内側を優しく梳かれていくような感覚に、思わず目を閉じ、そして開いた。
夕闇に沈んでいた部屋が揺らめき、淡い光を帯びて見えた。
世界そのものが、かすかな燐光で縁取られている。
「できました。見えると思います」
リシェリアの声は、ほんの少し誇らしげだった。
視線を落とす。繋がれた手。その一点から確かに感じるものがある。
これは……。
「ああ……果実……桃か?」
「はい。私の好きな食べ物の一つです。……アーレンス様の体内でちょっと、詰まっていたところがありましたので。先ほど、"通して"おきました。おそらく。前より見やすくなったと思います」
そう告げた瞬間、像はふっと途切れる。切断されたかのように、彼女からの像はもうない。
それでも――俺の世界は変わっていた。
見渡せば、あらゆるものが嘘のように鮮明で、深奥まで透けて見える。
そして、彼女の身を包む力が淡い燐光となって漂っているのも。
力を使う意思を閉じると、ゆらめいていた世界は静かに収束し、見慣れた視界が戻ってきた。
現実の光景に戻ったことに安堵を覚えると同時に、胸の奥にはどっと疲労が広がった。
短い時間であったはずなのに、未知のことが立て続けに起きすぎたせいだ。
「今のは、私の見たものを水面に浮かせるような感じにしているので、アーレンス様が心配しているようなことはありませんから」
リシェリアの声は落ち着いていて、余計な不安を先回りして払うようだった。
私心を覗いてしまうことはない――彼女の弁は柔らかく、けれど確かな響きを持っていた。
「……これなら明日は大丈夫そうだ」
胸中で納得しつつ、試しにリシェリアが思い浮かべた果実を紙に素描してみる。
切り分けられた桃。淡い果肉を受けとめる少し深い器には、四葉の透かしの意匠が刻まれていた。
単なる器ではないのだろう。何か、彼女にとって思い出を含むものかもしれない。
「さすが。お上手ですね」
彼女は絵を覗き込み、目を細めて懐かしそうに微笑んだ。
その横顔に、一瞬、どんな記憶がそこに宿っているのかを知りたいと衝動が過った。
心の奥を覗きたい――危うい誘惑。
……確かに禁忌だ。
庭で彼女を見ていた時ですら、罪悪感を伴ったというのに。
もし本当に心の深部を覗けてしまったら、人間にとってそれは抗いがたい悪しき誘いになるだろう。
出来なくてよかった、と心底思う。
「……問題なさそうでよかった。ありがとう。では、明日予定通りに実行しよう」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
「アーレンス様こそ、ありがとうございます。今後お手を煩わせてしまいますが、よろしくお願いいたします」
深々と礼を述べるリシェリア。
その姿を目にしながら、胸の奥に残っていた硬い塊がふっと和らいでいく。
彼女が起こした波とともに、確かにつかえていたものが取れた。
退出する足取りは、軽かった。




