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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
1章 黒
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リシェリアに出来ないこと

ストーカー事件の数日後くらいです

「アーレンス様。明日の予備調査とは何をするのでしょうか」


暮れかけた室内に残る微かな蝋燭の光。その柔らかな明かりの下で、リシェリアが静かに問いかけてきた。

本日の教練を終え、道具を片付ける間際のことだ。


そういえば、本番でもないので当日でいいかと、特に説明をしていなかった。

おそらく何も言わずとも彼女ならやれるだろう、と半ば信じていたからでもある。

けれど、こうして問う姿勢は悪くない。むしろ俺は、そういう前へ進もうという気概を好ましく思う。


「そうだな。大したことはしない。大樹の破片の情報から、読み取ったものを資料にする作業だ。難しくないと思う。見えたものを地図に記したり、絵にして……」


言いながら、気安く考えすぎていたかもしれないと思う。

自然物の情報は言語で記すには限界があり、イメージとして残す方が確実だ。

だから「絵を描く」という手段がもっとも合理的だった。

だが、その答えは予想を裏切るものだった。


「え……。いえ。あの。困りました……出来ません」


リシェリアの声音は戸惑いそのもの。

澄んだ響きが、却って切実さを帯びて耳に刺さった。


「な」


思わず妙な声が洩れる。想定の外すぎた。


「わたし、絵を描けません。もし多少描けたとしても……とても目を閉じたままでは」


言われて初めて、俺は彼女の瞼の存在を意識した。

いつも祈るように伏せられた睫毛。その姿を、俺は美しいとしか見てこなかった。

だがそれは単なる習慣ではなく、もし異能を扱うために必要不可欠な姿勢だったのか。


……しまった。

彼女は平民の出だ。芸術など基礎教育に含まれるはずがない。

貴族の子弟なら幼い頃から筆と絵筆に慣れ、多少は描写できる。

祭祀を志す平民も、必要ならそれなりに学んでいただろう。

だが彼女は、ほんの最近まで素人同然だった。


今さら急に描けるようになるはずもない。

就任までの短い時間で補えるものでもない。


……ならば。俺がやるしかない。


「……俺が書き写す。君にはなるべく言葉で伝えてもらう」


自分の声が、思ったより冷静に響いていた。

しかしリシェリアは不安げに眉を曇らせる。


「できますでしょうか。見たことのないものだとお伝えできる自信がありません」


その後、試しに食堂から持ってきたリンゴの産地を読み取る、といった軽い演習を行ってみた。

だが結果は惨憺たるものだった。


彼女が判別できるのは、せいぜい知っている樹木や鳥の種類。

植生を拾い、地形を見て土地を特定する――そうした精度には程遠い。


赤い果実を手にして、彼女が困惑した顔をするたびに、俺は内心で冷汗をかいた。

彼女と出会ってから初めての難題が、こうして立ち塞がった。


「すまない。俺の手落ちだ。もう、遅い。明日は延期にする」


声に出してみれば、思っていた以上に素直な言葉だった。

彼女を困惑させたのは俺の準備不足にほかならない。

それに、窓外はすでに藍を深め、蝋燭の灯りだけが机の影を伸ばしている。

夕餉の時間を過ぎてしまった今、これ以上は無理を重ねるだけだ。


明日の調査は延期にするしかない。

日程の調整と、関係者への詫びを数人に入れれば済むことだろう。

面倒はあるが、致命的ではない。そう自分に言い聞かせ、解散を告げようと息を吸った。


そのときだった。


「すみません。もう一つだけ。協力をお願いできますでしょうか」


リシェリアは、しばし思案していたのだろう。

いつも閉じている瞳をわずかに開けて、青の光をこちらに向けてきた。

蝋燭に照らされたその眼差しは真っ直ぐで、静かながらも揺るぎがない。

俺は不意に胸を衝かれた。


「アーレンス様は、知覚がお出来になるんですよね」


彼女は問うた。

侮るでもなく、哀れむでもなく。

まるでそれもまた、彼女の力と同じ重みを持つものだと扱うように。

俺が最も小さな力しか持たないことを知っているはずなのに。


「君のできることにしたら大したことじゃないけども」


思わず、謙遜の皮を被った言葉が出てしまう。

卑下する気持ちを抑えきれず、声がわずかに苦い。

それでも彼女は変わらず、こちらを見つめていた。


「私を……私の心が見てるものを。知覚してもらえませんか」


囁きに近い声だった。

それでも、その一言は部屋の空気を大きく揺らしたように感じられた。

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