リシェリアに出来ないこと
ストーカー事件の数日後くらいです
「アーレンス様。明日の予備調査とは何をするのでしょうか」
暮れかけた室内に残る微かな蝋燭の光。その柔らかな明かりの下で、リシェリアが静かに問いかけてきた。
本日の教練を終え、道具を片付ける間際のことだ。
そういえば、本番でもないので当日でいいかと、特に説明をしていなかった。
おそらく何も言わずとも彼女ならやれるだろう、と半ば信じていたからでもある。
けれど、こうして問う姿勢は悪くない。むしろ俺は、そういう前へ進もうという気概を好ましく思う。
「そうだな。大したことはしない。大樹の破片の情報から、読み取ったものを資料にする作業だ。難しくないと思う。見えたものを地図に記したり、絵にして……」
言いながら、気安く考えすぎていたかもしれないと思う。
自然物の情報は言語で記すには限界があり、イメージとして残す方が確実だ。
だから「絵を描く」という手段がもっとも合理的だった。
だが、その答えは予想を裏切るものだった。
「え……。いえ。あの。困りました……出来ません」
リシェリアの声音は戸惑いそのもの。
澄んだ響きが、却って切実さを帯びて耳に刺さった。
「な」
思わず妙な声が洩れる。想定の外すぎた。
「わたし、絵を描けません。もし多少描けたとしても……とても目を閉じたままでは」
言われて初めて、俺は彼女の瞼の存在を意識した。
いつも祈るように伏せられた睫毛。その姿を、俺は美しいとしか見てこなかった。
だがそれは単なる習慣ではなく、もし異能を扱うために必要不可欠な姿勢だったのか。
……しまった。
彼女は平民の出だ。芸術など基礎教育に含まれるはずがない。
貴族の子弟なら幼い頃から筆と絵筆に慣れ、多少は描写できる。
祭祀を志す平民も、必要ならそれなりに学んでいただろう。
だが彼女は、ほんの最近まで素人同然だった。
今さら急に描けるようになるはずもない。
就任までの短い時間で補えるものでもない。
……ならば。俺がやるしかない。
「……俺が書き写す。君にはなるべく言葉で伝えてもらう」
自分の声が、思ったより冷静に響いていた。
しかしリシェリアは不安げに眉を曇らせる。
「できますでしょうか。見たことのないものだとお伝えできる自信がありません」
その後、試しに食堂から持ってきたリンゴの産地を読み取る、といった軽い演習を行ってみた。
だが結果は惨憺たるものだった。
彼女が判別できるのは、せいぜい知っている樹木や鳥の種類。
植生を拾い、地形を見て土地を特定する――そうした精度には程遠い。
赤い果実を手にして、彼女が困惑した顔をするたびに、俺は内心で冷汗をかいた。
彼女と出会ってから初めての難題が、こうして立ち塞がった。
「すまない。俺の手落ちだ。もう、遅い。明日は延期にする」
声に出してみれば、思っていた以上に素直な言葉だった。
彼女を困惑させたのは俺の準備不足にほかならない。
それに、窓外はすでに藍を深め、蝋燭の灯りだけが机の影を伸ばしている。
夕餉の時間を過ぎてしまった今、これ以上は無理を重ねるだけだ。
明日の調査は延期にするしかない。
日程の調整と、関係者への詫びを数人に入れれば済むことだろう。
面倒はあるが、致命的ではない。そう自分に言い聞かせ、解散を告げようと息を吸った。
そのときだった。
「すみません。もう一つだけ。協力をお願いできますでしょうか」
リシェリアは、しばし思案していたのだろう。
いつも閉じている瞳をわずかに開けて、青の光をこちらに向けてきた。
蝋燭に照らされたその眼差しは真っ直ぐで、静かながらも揺るぎがない。
俺は不意に胸を衝かれた。
「アーレンス様は、知覚がお出来になるんですよね」
彼女は問うた。
侮るでもなく、哀れむでもなく。
まるでそれもまた、彼女の力と同じ重みを持つものだと扱うように。
俺が最も小さな力しか持たないことを知っているはずなのに。
「君のできることにしたら大したことじゃないけども」
思わず、謙遜の皮を被った言葉が出てしまう。
卑下する気持ちを抑えきれず、声がわずかに苦い。
それでも彼女は変わらず、こちらを見つめていた。
「私を……私の心が見てるものを。知覚してもらえませんか」
囁きに近い声だった。
それでも、その一言は部屋の空気を大きく揺らしたように感じられた。




