最初の事件
今日は、リシェリアが定刻に現れなかった。
彼女が人を待たせたのは、最初の一回だけだ。それも一応、『怪我した小鳥を助けたい』なんて理由があった。今ではリシェリアの勤勉さを疑う事はない。ならば何かあるとしか思えなかった。
窓の外を眺めても、庭にいる様子はない。
ここ数日、日中の庭で姿を見ることはほとんどなくなっている。……もっとも、俺の私室からは庭の全景が見えるわけではない。日勤の終わった夕刻以降なら、姿を見せているのかもしれないが。
体調不良などであれば侍女が必ず前触れをよこすはずだ。予定を勘違いして回廊の先にいるということもなかった。
報せがない以上、ただの遅刻とは考えにくい。
「……はあ」
短く息を吐く。
いずれにせよ、確かめに行くしかない。そう結論して、椅子を離れ扉を押し開けた。
回廊に出た途端、視線の先に動く影があった。
向かいの柱の陰で、リシェリアが誰かと話している。
……いや、袖を引かれている。
「おやめください。リシェリア様は御勤めがございます」
張りつめた声。彼女の侍女、サフィアのものだ。
その袖を掴んでいたのは、兵士の服装をした若い男。
柱越しに見え隠れする顔はまだわからない。だが、妙に粘りつく声が聞こえた。
「侍女は失せろ。リシェリア。……リーシュ。たまには息抜きにサボるのも大事だよ。少しだけ、一緒にいこう」
ぞっとするほど湿った調子。
あれが、リシェリアの縁者と噂に聞く兵士だろうか。
………サボれなどと。
血縁であろうと、許しがたい。
「あの。お気持ちは嬉しいですが……困ります。待っている方も、やるべきこともありますから」
困惑の響きを帯びたリシェリアの声。
親しい相手との談笑でも、痴話喧嘩ですらない。
明らかな揉め事だ。ならば尚更止めるべきだ。
近づく足取りを速めた。
「待たしておいたらいいんだ。……俺も待ってたんだよ?」
振り向いた男の顔がようやく見える。以前から軍務で見たことのある顔だった。下士官の……名前までは出ない。
「公務を放棄させようとは、聞き捨てならない。その手を離せ」
鋭く声を放ち、間に割って入った。
「どの立場で、聖女の歩みを止める?直ちに退くならば今回だけは目溢ししてやる」
こちらを睨みつけた男の表情は、瞬時に引きつった。
別の使用人だと思ったのか一瞬、怒鳴り返そうとしたが、一拍置いてから俺の衣を認め、身分が上であると理解したのだろう。即座に顔を伏せ、兵士の礼を取って廊下の端に退いた。
「し、失礼いたしました」
その瞬間、リシェリアと侍女の顔に安堵の色が浮かぶ。
侍女の肩はまだわずかに震えていたが、リシェリアは困惑を残しつつも蒼ざめることなく立っていた。
……意外と図太い。いや、胆力の賜物かもしれない。
「あまりにも遅いので確認しに来た。……とりあえず執務室へ入るように」
そう告げ、二人を前に立たせ、俺は後ろから歩調を合わせる。
しんがりとなり、護るようにして執務室へと導いた。
執務室の扉に手を掛ける前、念のため、後ろを目だけで見やった。
心得があるわけではないが、背後に剣でも掲げられていたら、庇わなければ――そう考えるだけで、背筋に冷たいものが走る。
先ほどの兵士は、まだ壁際に立ったままだった。
動いてはいない。だが、こちらをじっと、ねっとりと目で追っていた。
剣を抜かずとも、あの視線は不快だ。
視線を振り切るようにして、後ろ手で扉を閉じた。
「アーレンス様、お助けいただきありがとうございます」
リシェリアの声。振り返ると侍女の震える手を慰めながら目で礼をしていた。
その隣で侍女も、俺に深く頭を下げる。
侍女のサフィア――アスティの乳姉妹で、もともと顔見知りの使用人だった
俺は軽く手を挙げて応じた。
「気にしなくていい。……遅れた原因は理解した。サフィアも下がらずにしばらく部屋にいろ。……一体あれはどうした?」
視線を向けると、リシェリアは困ったように眉を寄せ、遠慮がちに口を開いた。
「……最近、よく場内で偶然お会いする方です。少し、お話が長くて」
「……うん?」
要領を得ない。俺はサフィアに説明を促した。
「はい。リシェリア様の熱心な信奉者というか……。はじめはお庭に日参して、邪魔をされましたので、出入りを控えるようお願いしたのですが。今度は出入り口で待ち伏せなさるようになりまして……」
やはり、そうか。
リシェリアに目を戻すと、当の本人はなぜか他人事のように、説明を興味深そうに聞いている。危機感を持っていない。
「君の話のことだと思うのだが……」
声を掛けると、リシェリアははっとしてこちらを見た。
そして、なぜか照れ笑いまで浮かべる。
「あ、そうですね。あまりに多いと……皆さんの予定も乱れるので、抑えていただきたいです」
不思議な感覚だった。
彼女は自分が迷惑を受けているという自覚が薄い。むしろ他人の予定が乱れることを心配している。
聖女ゆえの浮世離れか。それとも、年頃の女性である認識はないのか。
まあ、いまはそれでいい。
「とりあえず、俺がいれば奴は引くだろう。朝と夕の出退勤には俺が送迎する。士官部へ苦情を入れておく。…しばらくすれば諦めるはずだ」
そう言い切って、俺はリシェリアの私室までの送迎が加えた。
日々の日課に、また一つ面倒が増えたはずなのに、少しだけ気分は軽かった。
その夜。
『治安を預かる内勤の兵士が、重大な妨害に及んでいる』
その様に、あの男の容貌と特徴を仔細に記載して、苦情を書き連ねていた。
彼女たちの手前、平静は装っていたが、治安を守るはずの兵が、祭祀庁の業務を妨げるなど論外。しかも国事を行う聖女への教練を邪魔し付きまとうという、王国の威信を揺るがしかねない事態だ。
筆先を走らせる手は淡々としていたが、胸の奥では不快が渦巻いている。書面を整え軍幹部宛に送達した。
アスティの目にも必ず入るだろう。適切に処理するはずだ。
数日後、予想どおりの変化があった。
配置換えでもされたのだろう、城内であの男の姿を見かけなくなった。
あの粘つく視線を背に感じずに済むだけで、息がしやすくなる。
しばらくの間は、リシェリアの送迎を続けた。
朝と夕のほんの短い道のりに、彼女と交わす雑談が生まれる。
「今日は少し冷えますね」「花壇の色が変わりました」――些細なやり取りに過ぎないが、だがその積み重ねが、すこしだけ俺の心をやわらげた。
それでも。
日中の庭にリシェリアの姿は戻らなかった。
風に揺れる葉音だけが広がる庭は、どこかぽっかりと空く。
まだ、終わっていない。そんな確信めいた不安が募った。
この件は後の2章内で詳しく描写されます。




