大胆不敵な実証
カイルの声は、妙に静かだった。
けれどその静けさは、刃よりも鋭い。
「“死”。……大層な名ですが。まさか、このままそう呼ぶつもりじゃないでしょうね」
彼はわずかに片眉を上げ、冷ややかに笑う。
アデライナがすぐに応する。
「ええ、勿論。属性が対極……反対であるということだけです。調査部では便宜上『虚質』と呼称することになりました。」
「承知しました。それで、この『虚質』の何がそんなに怖いのか。――誰か、教えてくれる方は?」
その問いが、部屋の空気をひときわ冷たくした。
沈黙。
誰も、呼吸を乱さない。
衣擦れひとつ起きない。
カイルはゆっくりと首をめぐらせ、左右の列を見渡した。
その動作が挑発的なほど落ち着いていて、視線で詰問しているようだった。
それでも、誰も答えない。
沈黙は長く、重く、やがて部屋全体が音を失ったように思えた。
「総長。――大祭祀官。」
カイルが言葉を切って、最上席に向かって顎を上げた。
あの、冷ややかな眼差し。
「いかがですか?」
総長――グラント様も、大祭祀官様も動かない。
お互いの視線だけが、空気の中で鋭く交わった。
火花のような、目に見えない衝突。
「霊質は、命を漲らせる源とされている」
やがて、静寂を破るように、大祭祀官様が重々しく口を開いた。
「その蠢く闇が相反するというのなら、触れれば“さわり”があるのではないかと考えることも、おかしくはないであろう」
息を飲む気配が、一斉に走る。
“触れる”――その言葉が、どういう意味を持つか、誰もがわかっていた。
カイルはそのまま小さく頷いた。
「なるほど。では、試してみましょう」
そう言って、当然のように一歩前へ進む。
――そして、振り返る。
私に。
「リシェリア。漏れないようにだけ、塞いでおいてほしい」
その声は、冷静で、どこか穏やかだった。
まるで、いつもの書庫で頼みごとをするみたいに。
けれど、部屋の中の全員がその一言に息を止めた。
私は、動けなかった。
あの黒いもの――あの闇の中に漂っていた気配。
それが何であれ、私の中の“知覚”が拒んでいた。
近づけば、飲まれる。
そう直感でわかっていた。
「……いけません」
それでも、声を出す。止めなければ、と。
カイルは軽く首を振った。
「大丈夫」
その言葉に、ほんの少しだけ柔らかな色が混じる。
彼の瞳が、私の方を見ていた。
不思議と、少しだけ呼吸が戻る。
――次の瞬間。
「まあ、もし問題ありそうなら、すぐに指を落としてしまえばいいだろう。治してくれる君がいる。」
さらりとした口調。
あまりにも平然と、恐ろしいことを言う。
「指……落と――!?」
思わず声を上げかけた私の唇に、彼の人差し指がそっと触れた。
静かに。
低く、小さく。けれど絶対的な制止。
その指先は冷たくて、わずかに震える私の息を感じていた。
喉が鳴る。言葉が出ない。
「聖女に防護していただきますが、それでもご不安な方がいれば――防護の異能を扱える方は重ねてください」
その声に、数人の祭祀官たちが慌てて手を上げた。
次々に淡い光が重なり、瓶の周囲が淡く光を帯びる。
幾重もの結界が、層のように重なっていく。
私は両手を胸の前に組み、目を閉じた。
漏れないように。
溢れないように。
この闇が、彼を呑み込まないように。
「では――実証しましょう」
カイルの声。
冷たく、落ち着いて。
そのまま瓶を持ち上げ、蓋を外す。
暗い空気が、部屋にひと筋流れ込んだ気がした。
あの虫――“死”の象徴。
その黒い闇の中へ、彼は指をゆっくりと差し入れた。
あの、闇の中に。
カイルは、ためらいなど一片も見せずに指を瓶の奥深くまで差し入れた。
その瞬間、内部の羽虫――あの黒い影が、ひゅるりと震え、まるで生きた怨嗟が絡みつくように彼の指にまとわりついた。
見ているだけで、息が止まりそうだった。
あれは形を持つ影だ。
羽ばたくでもなく、蠢くでもなく、ただ「そこにある闇」。
冷たさではなく、感情のない無が触れたような――そんな質感が、空気を通じて伝わってくる。
カイルは逃げなかった。
そのまま、ひと呼吸。
瓶の中からそれをそっとつまみ上げた。
指先の白さに、闇が張り付く。
「触感はなし。温度も、質量も違和感も。触れても何も感じません」
淡い光のもとに掲げて、彼は冷静に観察するように回した。
裏返し、光に透かし、掌の上で転がす。
まるでただの昆虫でも眺めているかのように状況を実況していく。
「照明の下にあるだけで、薄らいでいくのが見えます」
「カイル……もう、いいんじゃないですか」
声が震えていた。
外気に晒されている今、何もしなくてもいずれは霧散するはず――それでも、怖い。
私が少し力を与えれば、あれは消してしまえる。もう、消してしまいたい。
あの黒は、夢の中で見た“死”そのものの色をしていた。
瓦礫の下の闇。血溜まりの底で蠢いた、あの影。
見ているだけで、胸がぎゅっと縮こまる。
カイルは私を見ず、ただ静かに言葉を重ねた。
「この通り、直に触っても、すぐには何か起きるわけではありませんね」
声には余裕があった。
「このまま放置すれば霧散することは、すでに確認済みです。――私の見立てでは、この後も何の問題もありません」
周囲の神官たちがざわめきを押し殺すように見守る中、カイルはゆったりと肩の力を抜いた。
あまりに落ち着きすぎていて、それが逆に不気味だった。
そして――軽い調子で言った。
「たとえば、このように……呑み込んでしまったとしても」
え。
その一言が落ちた瞬間、時間が止まった。
皆に見えるように、それを、掲げるように――顔を上げて口を開けた。
何を言っているのか理解するより早く、カイルはそれを口に放り込む。
小さく、唇の端が動く。
飲み込むような喉の音。
本当に――飲み込んだ。
「アーレンス様!?」
アデライナの声が、部屋の静寂を裂いた。
「正気か!」「触れるな!」
ざわめきが一気に爆ぜる。
誰かが叫び、別の誰かが祈りの文句を唱え始めた。
一瞬、結界の光が揺れた。
私は息をするのも忘れ、ただ見ていた。
カイルは何事もなかったように、静かに目を閉じて、
ほんの少しだけ笑った。




