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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
11章 机上の風雲
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大胆不敵な実証

カイルの声は、妙に静かだった。

けれどその静けさは、刃よりも鋭い。


「“死”。……大層な名ですが。まさか、このままそう呼ぶつもりじゃないでしょうね」

彼はわずかに片眉を上げ、冷ややかに笑う。

アデライナがすぐに応する。


「ええ、勿論。属性が対極……反対であるということだけです。調査部では便宜上『虚質』と呼称することになりました。」


「承知しました。それで、この『虚質』の何がそんなに怖いのか。――誰か、教えてくれる方は?」


その問いが、部屋の空気をひときわ冷たくした。

沈黙。

誰も、呼吸を乱さない。

衣擦れひとつ起きない。


カイルはゆっくりと首をめぐらせ、左右の列を見渡した。

その動作が挑発的なほど落ち着いていて、視線で詰問しているようだった。

それでも、誰も答えない。

沈黙は長く、重く、やがて部屋全体が音を失ったように思えた。


「総長。――大祭祀官。」

カイルが言葉を切って、最上席に向かって顎を上げた。

あの、冷ややかな眼差し。

「いかがですか?」


総長――グラント様も、大祭祀官様も動かない。

お互いの視線だけが、空気の中で鋭く交わった。

火花のような、目に見えない衝突。


「霊質は、命を漲らせる源とされている」

やがて、静寂を破るように、大祭祀官様が重々しく口を開いた。

「その蠢く闇が相反するというのなら、触れれば“さわり”があるのではないかと考えることも、おかしくはないであろう」


息を飲む気配が、一斉に走る。

“触れる”――その言葉が、どういう意味を持つか、誰もがわかっていた。


カイルはそのまま小さく頷いた。


「なるほど。では、試してみましょう」

そう言って、当然のように一歩前へ進む。


――そして、振り返る。

私に。


「リシェリア。漏れないようにだけ、塞いでおいてほしい」


その声は、冷静で、どこか穏やかだった。

まるで、いつもの書庫で頼みごとをするみたいに。

けれど、部屋の中の全員がその一言に息を止めた。


私は、動けなかった。

あの黒いもの――あの闇の中に漂っていた気配。

それが何であれ、私の中の“知覚”が拒んでいた。

近づけば、飲まれる。

そう直感でわかっていた。


「……いけません」

それでも、声を出す。止めなければ、と。


カイルは軽く首を振った。

「大丈夫」


その言葉に、ほんの少しだけ柔らかな色が混じる。

彼の瞳が、私の方を見ていた。

不思議と、少しだけ呼吸が戻る。


――次の瞬間。


「まあ、もし問題ありそうなら、すぐに指を落としてしまえばいいだろう。治してくれる君がいる。」


さらりとした口調。

あまりにも平然と、恐ろしいことを言う。


「指……落と――!?」

思わず声を上げかけた私の唇に、彼の人差し指がそっと触れた。


静かに。


低く、小さく。けれど絶対的な制止。

その指先は冷たくて、わずかに震える私の息を感じていた。

喉が鳴る。言葉が出ない。


「聖女に防護していただきますが、それでもご不安な方がいれば――防護の異能を扱える方は重ねてください」


その声に、数人の祭祀官たちが慌てて手を上げた。

次々に淡い光が重なり、瓶の周囲が淡く光を帯びる。

幾重もの結界が、層のように重なっていく。


私は両手を胸の前に組み、目を閉じた。

漏れないように。

溢れないように。

この闇が、彼を呑み込まないように。


「では――実証しましょう」


カイルの声。

冷たく、落ち着いて。

そのまま瓶を持ち上げ、蓋を外す。


暗い空気が、部屋にひと筋流れ込んだ気がした。

あの虫――“死”の象徴。

その黒い闇の中へ、彼は指をゆっくりと差し入れた。


あの、闇の中に。


カイルは、ためらいなど一片も見せずに指を瓶の奥深くまで差し入れた。

その瞬間、内部の羽虫――あの黒い影が、ひゅるりと震え、まるで生きた怨嗟が絡みつくように彼の指にまとわりついた。


見ているだけで、息が止まりそうだった。

あれは形を持つ影だ。

羽ばたくでもなく、蠢くでもなく、ただ「そこにある闇」。

冷たさではなく、感情のない無が触れたような――そんな質感が、空気を通じて伝わってくる。


カイルは逃げなかった。

そのまま、ひと呼吸。

瓶の中からそれをそっとつまみ上げた。

指先の白さに、闇が張り付く。


「触感はなし。温度も、質量も違和感も。触れても何も感じません」


淡い光のもとに掲げて、彼は冷静に観察するように回した。

裏返し、光に透かし、掌の上で転がす。

まるでただの昆虫でも眺めているかのように状況を実況していく。


「照明の下にあるだけで、薄らいでいくのが見えます」


「カイル……もう、いいんじゃないですか」

声が震えていた。

外気に晒されている今、何もしなくてもいずれは霧散するはず――それでも、怖い。

私が少し力を与えれば、あれは消してしまえる。もう、消してしまいたい。


あの黒は、夢の中で見た“死”そのものの色をしていた。

瓦礫の下の闇。血溜まりの底で蠢いた、あの影。

見ているだけで、胸がぎゅっと縮こまる。


カイルは私を見ず、ただ静かに言葉を重ねた。

「この通り、直に触っても、すぐには何か起きるわけではありませんね」

声には余裕があった。

「このまま放置すれば霧散することは、すでに確認済みです。――私の見立てでは、この後も何の問題もありません」


周囲の神官たちがざわめきを押し殺すように見守る中、カイルはゆったりと肩の力を抜いた。

あまりに落ち着きすぎていて、それが逆に不気味だった。


そして――軽い調子で言った。


「たとえば、このように……呑み込んでしまったとしても」


え。


その一言が落ちた瞬間、時間が止まった。

皆に見えるように、それを、掲げるように――顔を上げて口を開けた。

何を言っているのか理解するより早く、カイルはそれを口に放り込む。


小さく、唇の端が動く。

飲み込むような喉の音。

本当に――飲み込んだ。


「アーレンス様!?」

アデライナの声が、部屋の静寂を裂いた。


「正気か!」「触れるな!」

ざわめきが一気に爆ぜる。

誰かが叫び、別の誰かが祈りの文句を唱え始めた。

一瞬、結界の光が揺れた。


私は息をするのも忘れ、ただ見ていた。

カイルは何事もなかったように、静かに目を閉じて、

ほんの少しだけ笑った。


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