石室に湧いた虫の正体
外遊から戻って、半月ほど。
報告書や視察先の礼状などの応対も一段落して、ようやく静かな日常が戻った矢先の事だった。
祭祀庁調査部のアデライナ・フォーゲル祭祀官の署名で、カイルと私へ『特異審議会』への招集が届いた。
アデライナは、エリシアナの聖女担当官の任務を終えた後、元々在籍していた祭祀庁の調査部門の籍に戻っている。あの細やかな見識と慎重さは、この部署に必要な才能なのだろう。
そこには彼女らしい筆跡で、ただこう記されていた。
「以前石室で採取された『虫』についての調査報告」
短い一文に、嫌な胸騒ぎがした。
あの瓶。氷で封じた後、遮光と密封され祭祀庁の奥深くに預けられていたもの。
調査が完了するには、もっと時間がかかると思っていた。
けれど、彼女が知らせてきたということは、何か答えが見つかったんだ。
***
その日の夕刻、私はカイルとともに、祭祀庁の最上層――普段はほとんど使われていない秘議室の前にいた。
そこは、儀式用の部屋とも議会室とは違う。
光が入らぬ設え。重い扉の内側に、音を吸い取るような厚い布壁。
外界から完全に隔絶されている。
「聖女リシェリア、その担当官アーレンス。参上いたしました」
「入れ」
重苦しい扉がゆっくり開き、入室すると、すでに大祭祀官様が奥席にあり、総長の姿もあった。
その隣には高等祭祀官たち――普段はそれぞれの支部や部門を司る重職の人々。
視線を集められるだけで、息が詰まるようだった。
カイルも、私の隣でいつもの落ち着きが見えなかった。
指先の動きが、いつもより少しだけ硬い。
彼でさえ緊張するのだと知って、かえって事態の重さを思い知らされた。
案内された席は、中央の手前。
まるで、法廷で今から裁かれるみたいだと、頭の裏側でそんなことを思った。
「では揃いましたので――調査部より代表して、私アデライナ・フォーゲルがご報告いたします」
やがて、アデライナが一歩進み出た。
淡い色の瞳が、一同を見渡す。
手にしているのは、例の虫瓶――もう、氷の封印は解かれている。
「この虫の正体は、便宜上、ありていに言えば『死』です」
一瞬、部屋の空気が止まった。
誰も息をしていないのではないかと思うほどに。
アデライナの声は穏やかだったが、言葉は鋭く胸を刺した。
“死”――あまりに単純で、あまりに根源的。
けれど、それが一番、恐ろしい。
彼女は続けた。
「正確には……私たちの力の依拠。『霊質』と呼ぶこれが生命の源であると仮定した時の、その反対側に位置するものです」
滅び。終わり。破滅。
どんな言葉でも、しっくりくる。
生に対する“もう片方”――その存在。死。
ああ、良かった。
胸の奥で、思わずそう安堵した。
あの時、カイルが瓶の封を破った瞬間、中の虫が跳ねて、彼の顔に向かって飛んだ。
反射的に手を伸ばして止めたけれど、もし、あの時彼が叫んで口を開けていたら――
もし、それを吸い込んでいたら――
そう思うだけで、今も背筋が冷たくなる。
私の知覚を通して見ると、あの虫の周囲は、闇そのものだった。
光を吸い取るような、黒い濃霧。
“向こう側”が、見えない。
生き物の形をしているのに、生の気配がない。
「そんなものが……大樹の根に、羽虫のように?」
誰かが呟く。
ざわめきが広がる。
「石室が汚染されているのか?」
「除去はどうする」
「人体に影響は?」
次々に声が重なり、議場の空気がざらつく。
神官たちの囁きが重なって、まるで冷たい波が押し寄せるよう。
議論というより、怯えに似た響き。
その時、ひときわ低い声が割って入った。
「……魔女が、災いを呼んだのではないのか?」
誰が言ったのか、わからなかった。
耳の奥でだけ響いた気がした。
その言葉が空気を刺して、私の心臓を小さく握り潰すように鳴った。
ヒヤリと、背の内側を氷が這ったような感覚が走った。
――やっぱり、私なのだろうか。
悪いものを、この国に呼び寄せてしまったのは。
胸が、ひとつ鳴って沈む。
――出て行かなければ。
そう思った。
この国は、これまでどんなに私を包んでくれた場所だったか。
まっすぐ逸らさず見てくれた視線、何気ない毎日の挨拶、真心でしてくれたおもてなし。
それを汚すのなら、……迷惑をかける前に身を引かなければ。
「わ、私……」
唇が震えて、思わず言葉がこぼれた。
弁明でもなく、ただの謝罪でもなく、“わたしのせいかもしれない”と、認めたくなるような衝動。
けれど、次の瞬間。
私の腕を、誰かの手がそっと押さえた。
指先が強くも優しくもなく、ただ「止まれ」と命じるように。
――カイルだった。
彼は、いつのまにか音もなく、静かに立ち上がっていた。
普段の柔らかい声色とは違う、冷えた金属のような、低い声音で言った。
「随分と、夢見がちな者が祭祀官にいるようですね」
会議の空気が、一瞬にして変わった。
張り詰めた沈黙。
ざわつきが凍りつくように止む。
そのまま、彼は視線を上げずに続けた。
「ああ、名乗らなくて結構です」
「同胞の誰が愚かなのかに、興味はありません」
その言葉は、刃よりも静かで、確実に痛かった。
けれど――その痛みの矛先は、私ではない。
守られている。
そう気づいた瞬間、胸の奥で何かがじんと熱を帯びた。
カイルは私のほうを見ない。
ただ、会議の空気そのものを制するように立っていた。
沈黙の中、誰も次の言葉を出せなかった。
――“魔女”と呼んだ声は、すでに消えていた。




