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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
10章 嵐の前の
136/141

変容する悪夢

「――――っ!」


枯れた喉から声にならない叫びを漏らし、飛び起きた。

水から上がったように息が苦しい。


……また、悪夢を見た。


外の空が、ゆっくりと白みはじめていた。

東の端にかすかな光が滲んで、夜を押しのけていく。

鳥の声もまだなく、世界の輪郭が曖昧なまま、静けさだけが濃く漂っていた。


寝直そうとしても、まぶたが閉じられない。

心臓が早鐘のように打って、鼓動が胸の奥で痛いほど響く。

冷えた手を胸に当てても、落ち着く気配はなかった。


この塔にセランを呼ぶなんて、できるはずがない。

規律の上でも、立場の上でも、絶対に。

けれど、もしも――今この暗い部屋の扉を叩いて、「大丈夫か」と低い声で呼んでくれたら、その一言でどれほど救われるだろう、と考えてしまう。


それでも、呼べない。

セランはもう、いつでも傍にいてくれた“お兄ちゃん”ではない。

私も、もう守られるだけの“妹”ではいられない。


侍女の誰かを起こして、灯りをつけてもらうことも、ためらわれた。

夜の気配を破ることが怖かった。

だから、ひとりで起き上がり、寝台の傍らに置いた水差しを手に取る。

陶器の器が汗ばんだ手から滑りそうになって、慌てて握り直した。


冷たい水が喉を通る。

それでも、内側の熱は少しも冷めない。

胸の奥がざわざわして、息がうまく整わない。


吐き気がする。

額を押さえて、しばらく俯く。

悪夢の残滓が、まだ視界の端で形を保っていた。


――ひとりで眠るのは、やはり苦手。

部屋の広さが、心に穴をあける。

誰かの寝息や、あたたかな腕の感触が恋しい。

生きているという、確かな温もりがほしい。


悪夢を乗り越えようと、何度も祈ったのに。

ほんの少し心が緩むと、過去が牙を剥いてくる。

そのたびに、わたしは小さな子供に戻ってしまう。


あの日――瓦礫の中で、泣きながらそれでも手を伸ばしていた。

血に染まった手で、初めて「癒し」を使った。

死にかけたセランの体を抱えて、泣きながら祈った。

何も知らなかったはずなのに、あの時だけはわかった。

どこを、どうすれば助けられるのか。


それは生まれて初めての「成功」だった。

でも、同時に――取り返しのつかない喪失でもあった。


ウルは、助からなかった。

白いしっぽが、もう動かなくなっていた。

小さな体を抱きしめたまま、冷たくなっていく感触を、わたしは今でもはっきり覚えている。

指の間から流れ落ちた毛の柔らかさも、息の消える音も。


セランが生きていることは、それだけで奇跡だった。

けれど、あの時の恐怖は、どんな奇跡でも拭えなかった。

何年経っても、夢の中であの瞬間が形を変えて追いかけてくる。


幼い私は、あの災いを“知っていた”。

来るとわかっていたのに、誰も信じてくれなかった。

“厄介な子”として、養父母は私を地下に閉じ込めた。

そしてその間に――災害は、本当に起きた。


町も、村も、海に呑まれた。

助けに来たセランとウルが、私を庇って傷を負った。

あの日から、私は“災いを呼んだ”と言われ、突き飛ばされた。

追われるようにして、ここに辿り着いた。


――それが、起きたことのすべて。

わかっている。

記憶だ。現実だ。


なのに今日の夢は、違っていた。


瓦礫の下にあったのは、

幼いセランじゃなかった。

背が伸びて、肩が広くて、大人になった――今のセランだった。


その血の色が、あの日よりも鮮やかで、

その沈黙が、あの日よりも深くて。


怖かった。

あまりにも、怖かった。


胸の奥が締めつけられて、息がうまく吸えない。

両手で顔を覆っても、涙が滲む。

どうか、あの夢の意味が、予知ではありませんように――。


窓の外に視線を落とす。

夜の残り香がまだ漂う庭は、かすかに霞がかかっていて、空と地の境が柔らかく滲んでいた。

小鳥の鳴き声が一声だけ。

もうすぐ人々が動き出す。

朝が始まる。


みんなが起きて動き出したら、いち早く庭へ降りよう。

それまでに身支度を整えて、表情を平静に戻して。

そして――セランが来るのを待つ。


彼の足音を。声を。

そして、胸に耳をあてて、心臓の鼓動を聞かせてもらわないと、どうにも心が鎮まらない気がした。

確かに「生きている」音を、この手で確かめないと。


それまでは――


枕もとの傍机に手を伸ばす。

上段の小さな引き出しを開けると、薄い布で包まれた銀の時計が静かに光を反射した。

カイルが貸してくれたもの。

無駄のない線、飾りの少ない造り。けれどどこか温かみのある銀色。


壊さないように、指先でそっとねじを巻く。

ひとつ、ふたつ。

かすかな抵抗のあと、ふっと軽くなった瞬間――時計が息を吹き返す。


耳を寄せると、細やかな駆動音が響いた。

ちいさく、けれど確かに生きている音。


チ、チ、チ、チ……


それはまるで、時間そのものが脈を打っているみたいだった。


カイルは言っていた。

「音に集中すれば、雑念は消える」


その言葉を思い出しながら、時計を抱くようにして耳を寄せた。

精緻な機械の鼓動に合わせて、数を数える。

一つの音が鳴るたび、ひとつ息を吸って、吐く。

数え、数え、数えながら――


世界の音が少しずつ遠のいていく。

怖さも、焦りも、全部、銀の音の中に沈んでいく。


今はただ、この音だけを考えよう。

何も思わないように。

何も感じないように。


……庭に降りられる時間が来るまでは。

この静かな音を、聴いてやり過ごすしかない。


私は、あの時までは――あんな大きな怪我を治したことなんて、一度もなかった。


日々できるのは、小さな擦り傷や、寒さでひび割れたあかぎれくらい。

せいぜい、犬の爪が引っかいた痕とか、じゃれて噛まれた小さな傷。

血がにじむ程度の、手当てをすればすぐ塞がるようなものばかり。

癒すというよりも、「痛くなくしてあげる」程度のことしか、できなかった。


だから、あの日のことは、あまりに異常だった。

瓦礫の中で、あの時の私は泣くことしかできなかったはずなのに――

血でぬめったセランとウルの体を抱えながら、ただ、必死に「助かって」と繰り返していた。


目を閉じて、治るようにただ祈っていた。

どう念じればいいのかも知らなかった。

そのうち、抱きしめていた腕の片側で、セランの息が戻った。

指先が、かすかに動いた。


その瞬間だけが、今でも強く焼きついている。


それからの私は、癒しだけは熟達しようと決めた。

日々の怪我は、慎重に観察しながら治した。

セランが狩ってきた獣や魚の解体を率先して慣れた。

人の体、血の流れ、骨の形、神経の位置。知覚しながら構造を探った。

本が読める時は逃さなかったし、医者が話している時は、聞き逃さないよう耳を澄ませた。

どんな手段でもいい、もう二度と、あの時みたいに失わないように。


……今なら、あの時と同じ規模の怪我でも、それなりに対処できる。

血の匂いにも、骨のずれる感触にも、もう動じない。

落ち着いて、必要な場所を探し、正確に癒せる。

時間さえ稼げれば、間に合わせてみせる。


だけど――

あの時、どうやって治したのか。

それだけは、今もわからない。


意識はなくて、ただ、闇の中で祈っていただけだった。

どうして助かったのか。どうして力が出たのか。

あの時の「仕組み」も「感覚」も、何ひとつ覚えていない。


だから、夢に出てこないのだろうか。

あの瞬間だけ、どうしても思い出せない。


癒せたという確信が、今もどこかに欠けている。

セランが目を開けた時の安堵を覚えているのに――

“どうやって助けたか”を知らないことが、ずっと胸の奥をざらつかせている。


きっと私はまだ、あの時の不安を越えられていない。

だから、何年経っても夢を見る。

あの血と、あの瓦礫と、あの音を。

そして――また、祈ってしまう。


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