変容する悪夢
「――――っ!」
枯れた喉から声にならない叫びを漏らし、飛び起きた。
水から上がったように息が苦しい。
……また、悪夢を見た。
外の空が、ゆっくりと白みはじめていた。
東の端にかすかな光が滲んで、夜を押しのけていく。
鳥の声もまだなく、世界の輪郭が曖昧なまま、静けさだけが濃く漂っていた。
寝直そうとしても、まぶたが閉じられない。
心臓が早鐘のように打って、鼓動が胸の奥で痛いほど響く。
冷えた手を胸に当てても、落ち着く気配はなかった。
この塔にセランを呼ぶなんて、できるはずがない。
規律の上でも、立場の上でも、絶対に。
けれど、もしも――今この暗い部屋の扉を叩いて、「大丈夫か」と低い声で呼んでくれたら、その一言でどれほど救われるだろう、と考えてしまう。
それでも、呼べない。
セランはもう、いつでも傍にいてくれた“お兄ちゃん”ではない。
私も、もう守られるだけの“妹”ではいられない。
侍女の誰かを起こして、灯りをつけてもらうことも、ためらわれた。
夜の気配を破ることが怖かった。
だから、ひとりで起き上がり、寝台の傍らに置いた水差しを手に取る。
陶器の器が汗ばんだ手から滑りそうになって、慌てて握り直した。
冷たい水が喉を通る。
それでも、内側の熱は少しも冷めない。
胸の奥がざわざわして、息がうまく整わない。
吐き気がする。
額を押さえて、しばらく俯く。
悪夢の残滓が、まだ視界の端で形を保っていた。
――ひとりで眠るのは、やはり苦手。
部屋の広さが、心に穴をあける。
誰かの寝息や、あたたかな腕の感触が恋しい。
生きているという、確かな温もりがほしい。
悪夢を乗り越えようと、何度も祈ったのに。
ほんの少し心が緩むと、過去が牙を剥いてくる。
そのたびに、わたしは小さな子供に戻ってしまう。
あの日――瓦礫の中で、泣きながらそれでも手を伸ばしていた。
血に染まった手で、初めて「癒し」を使った。
死にかけたセランの体を抱えて、泣きながら祈った。
何も知らなかったはずなのに、あの時だけはわかった。
どこを、どうすれば助けられるのか。
それは生まれて初めての「成功」だった。
でも、同時に――取り返しのつかない喪失でもあった。
ウルは、助からなかった。
白いしっぽが、もう動かなくなっていた。
小さな体を抱きしめたまま、冷たくなっていく感触を、わたしは今でもはっきり覚えている。
指の間から流れ落ちた毛の柔らかさも、息の消える音も。
セランが生きていることは、それだけで奇跡だった。
けれど、あの時の恐怖は、どんな奇跡でも拭えなかった。
何年経っても、夢の中であの瞬間が形を変えて追いかけてくる。
幼い私は、あの災いを“知っていた”。
来るとわかっていたのに、誰も信じてくれなかった。
“厄介な子”として、養父母は私を地下に閉じ込めた。
そしてその間に――災害は、本当に起きた。
町も、村も、海に呑まれた。
助けに来たセランとウルが、私を庇って傷を負った。
あの日から、私は“災いを呼んだ”と言われ、突き飛ばされた。
追われるようにして、ここに辿り着いた。
――それが、起きたことのすべて。
わかっている。
記憶だ。現実だ。
なのに今日の夢は、違っていた。
瓦礫の下にあったのは、
幼いセランじゃなかった。
背が伸びて、肩が広くて、大人になった――今のセランだった。
その血の色が、あの日よりも鮮やかで、
その沈黙が、あの日よりも深くて。
怖かった。
あまりにも、怖かった。
胸の奥が締めつけられて、息がうまく吸えない。
両手で顔を覆っても、涙が滲む。
どうか、あの夢の意味が、予知ではありませんように――。
窓の外に視線を落とす。
夜の残り香がまだ漂う庭は、かすかに霞がかかっていて、空と地の境が柔らかく滲んでいた。
小鳥の鳴き声が一声だけ。
もうすぐ人々が動き出す。
朝が始まる。
みんなが起きて動き出したら、いち早く庭へ降りよう。
それまでに身支度を整えて、表情を平静に戻して。
そして――セランが来るのを待つ。
彼の足音を。声を。
そして、胸に耳をあてて、心臓の鼓動を聞かせてもらわないと、どうにも心が鎮まらない気がした。
確かに「生きている」音を、この手で確かめないと。
それまでは――
枕もとの傍机に手を伸ばす。
上段の小さな引き出しを開けると、薄い布で包まれた銀の時計が静かに光を反射した。
カイルが貸してくれたもの。
無駄のない線、飾りの少ない造り。けれどどこか温かみのある銀色。
壊さないように、指先でそっとねじを巻く。
ひとつ、ふたつ。
かすかな抵抗のあと、ふっと軽くなった瞬間――時計が息を吹き返す。
耳を寄せると、細やかな駆動音が響いた。
ちいさく、けれど確かに生きている音。
チ、チ、チ、チ……
それはまるで、時間そのものが脈を打っているみたいだった。
カイルは言っていた。
「音に集中すれば、雑念は消える」
その言葉を思い出しながら、時計を抱くようにして耳を寄せた。
精緻な機械の鼓動に合わせて、数を数える。
一つの音が鳴るたび、ひとつ息を吸って、吐く。
数え、数え、数えながら――
世界の音が少しずつ遠のいていく。
怖さも、焦りも、全部、銀の音の中に沈んでいく。
今はただ、この音だけを考えよう。
何も思わないように。
何も感じないように。
……庭に降りられる時間が来るまでは。
この静かな音を、聴いてやり過ごすしかない。
私は、あの時までは――あんな大きな怪我を治したことなんて、一度もなかった。
日々できるのは、小さな擦り傷や、寒さでひび割れたあかぎれくらい。
せいぜい、犬の爪が引っかいた痕とか、じゃれて噛まれた小さな傷。
血がにじむ程度の、手当てをすればすぐ塞がるようなものばかり。
癒すというよりも、「痛くなくしてあげる」程度のことしか、できなかった。
だから、あの日のことは、あまりに異常だった。
瓦礫の中で、あの時の私は泣くことしかできなかったはずなのに――
血でぬめったセランとウルの体を抱えながら、ただ、必死に「助かって」と繰り返していた。
目を閉じて、治るようにただ祈っていた。
どう念じればいいのかも知らなかった。
そのうち、抱きしめていた腕の片側で、セランの息が戻った。
指先が、かすかに動いた。
その瞬間だけが、今でも強く焼きついている。
それからの私は、癒しだけは熟達しようと決めた。
日々の怪我は、慎重に観察しながら治した。
セランが狩ってきた獣や魚の解体を率先して慣れた。
人の体、血の流れ、骨の形、神経の位置。知覚しながら構造を探った。
本が読める時は逃さなかったし、医者が話している時は、聞き逃さないよう耳を澄ませた。
どんな手段でもいい、もう二度と、あの時みたいに失わないように。
……今なら、あの時と同じ規模の怪我でも、それなりに対処できる。
血の匂いにも、骨のずれる感触にも、もう動じない。
落ち着いて、必要な場所を探し、正確に癒せる。
時間さえ稼げれば、間に合わせてみせる。
だけど――
あの時、どうやって治したのか。
それだけは、今もわからない。
意識はなくて、ただ、闇の中で祈っていただけだった。
どうして助かったのか。どうして力が出たのか。
あの時の「仕組み」も「感覚」も、何ひとつ覚えていない。
だから、夢に出てこないのだろうか。
あの瞬間だけ、どうしても思い出せない。
癒せたという確信が、今もどこかに欠けている。
セランが目を開けた時の安堵を覚えているのに――
“どうやって助けたか”を知らないことが、ずっと胸の奥をざらつかせている。
きっと私はまだ、あの時の不安を越えられていない。
だから、何年経っても夢を見る。
あの血と、あの瓦礫と、あの音を。
そして――また、祈ってしまう。




