苦渋の凌ぎ手
久しぶりに、リシェリアとの勤務日が来た。
待ちかねていた。
朝から胸の奥がじわりと熱を帯びて、机に向かいながらも、彼女の気配を感じるたびに鼓動が少し早くなる。
笑顔のあいさつに、心がほどけていく。
会話のテンポ、内容、声――そのどれもが愛おしい。
外遊の間、昼夜ずっと彼女と同じ空間にいた時間は確かに幸福だった。だが今こうして、整えられた机と、決められた時刻、規則の中で彼女と共にあることの心地よさを再確認している。完成された日常というものが、どれほど素晴らしいか身に沁みていた。
午後の茶は、外遊先で手に入れた茶葉で話題のきっかけにしよう。日課はどんな事にしよう。また少し心を揺さぶるような主題はないか――その空気を破ったのは、一人の来訪の音だった。
「失礼致します。聖女様へ伝令です」
低く抑えられた声。
聞き慣れているはずの響きが、今日はどこか耳に刺さった。
「どうぞ」
リシェリアが了承し、扉が開く音がする。
机の前を人影が通り過ぎる気配だけを感じながら、俺は手元の作業に視線を落とした。
俺宛てではない。気に留める必要はない――そう言い聞かせる。
早く書面を片づけて、リシェリアの顔を見る時間を一刻も多くとりたい。
「こちらを確認ください。返事は不要とのことです」
その声が、なんとなく嫌な声だと思った。
口の奥で、舌が自然に動く。嫌悪の味が広がる。
「うん」
リシェリアが、いつもの丁寧な返しではなく、くだけた調子で返事をする。
それだけで室内の空気の色が変わったような気がした。
「……」
空気感の違いに、反射的に顔を上げる。
嫌な声に感じるはずだ。伝令はまた――セランだった。
深い赤の髪、金色の目。視界に入っただけで胸の奥がざわつく。
「……先日は酒の席にご参加いただきありがとうございました。ぜひまた、と同席していた兵士たちが言ってたよ」
セランが伝令の後、わざわざ雑談を話しかけている。
その軽い響きの奥に、薄く刃が隠されているのがわかる。
……そんな予定、聞いていない。
聖女の格式として、許されるものではない。
明らかに俺に聞かせるための意趣返しだ。胸の奥に冷たい鉛が落ちる感覚。
「こちらこそ、ってお伝えしてね。私もすごく楽しかったから。また……ああいうのに参加したいな」
朗らかに返すリシェリア。
その笑顔が、皮肉にも俺の胸を締めつける。
「あー。うん、まあアスティか、俺がいる時だけにしてくれ。酔っ払いを抱えて帰るのって……重いんだぞ」
その一言で、脳裏に映像が鮮やかに浮かんだ。
酔ったリシェリアを、腕に抱えて歩くセランの姿。
肩にしなだれる彼女の体、かすかに乱れた髪、頬の赤み――すべてが勝手に脳裏に映し出される。
息が荒くなるのを必死に抑えた。
いつの間にか、平語になっているセランを咎めるべきことすら頭から抜け落ちている。
セランがこちらを見て、あざ笑うような目をした気がした。
「う……それは、気をつけます」
リシェリアは反省の色を見せる。
その仕草が逆に俺の胸をざわつかせる。
「ほんじゃ」
セランがリシェリアに挨拶をして、こちらに向き直った。わざわざ礼の角度まで整えて。
「先日はご指導いただきありがとうございました。ご期待に添わぬよう努力してまいります」
一礼しながら、言葉の中に毒を含ませてくる。
“お前の言う通りになんてならない”――その意思が透けて見えた。
胸の奥で、何か硬いものがかちりと音を立てた。
「……ああ。終わったんなら退出してくれ」
挑発に乗ってたまるか。
呼吸を整え、声を低く落とす。
目だけで、決して引かぬと告げる。
「はい、失礼致します」
「ありがとね」
リシェリアがひらひらと、手をふる。
その笑顔を背に、セランは先日と違ってゆうゆうと出て行く。
……もう二度と来るな。
ここは俺とリシェリアの聖域なんだから。
不快な風が残っていた。
セランが去った後も、室内の空気はまだわずかに乱れていて、沈殿した埃のようなものが胸の内に落ちていた。
それでも――あのまま沈黙しているわけにはいかない。
このまま何も言わなければ、彼女が間違った方向に流れてしまう気がした。
俺は深く息を吸い、できるだけ平静を装って口を開く。
「リシェリア……兵士の飲み会になんか参加してはだめだよ」
声が思っていたより硬く出た。
いろいろ言いたいことは山ほどあった。
あんな男と同席することも、夜遅くまで席に残ることも、酔って抱えられるような無防備さも――全部、気に入らない。
だが、それを言えば、ただの嫉妬だと自分で認めることになる。
だから、口にできたのはこれだけ。
少し説教くさいが、聖女としての品位を守るための注意だと、自分に言い訳する。
「そもそも、どうしてそんな所に?」
できるだけ穏やかに問いかけたつもりだったが、リシェリアはあきらかに肩を落とした。
「そんな……アスティは良いと……」
叱られた子犬の様に、瞳を伏せてしょげている。
その仕草があまりにも可愛くて、胸が痛んだ。
本当は叱るなんてしたくない。
ただ、あの赤い男のことを思い出すと、理性がぎりぎりのところで軋む。
「警護の皆様に、外遊任務をねぎらう打ち上げをするというのをアスティが提案していて。ちょうど居合わせたので、参加の許可いただいたんです……外遊の延長の様で、楽しかったです。」
彼女は小さくうなずきながら説明する。
その声は罪のない響きで、まるで春先の風のように柔らかい。
……居合わせた。
セランもそこにいたのなら、庭でだろうか。
想像するだけで、胃の奥がじりじりと焼ける。
あいつが隣で笑っていたのか。
あの視線で、またリシェリアを見ていたのか。
外遊の同行者たちだけならまだしも、他の者まで混ざっていたのなら、統制が取れているとは言い難い。
それでも――アスティが主導だと聞いた瞬間、反論の言葉が喉に貼りついた。
彼女が許可したのなら、俺が口を挟むのは筋違いになる。
アスティはリシェリアの後見であり、全てを掌握している存在。
その判断に楯突くわけにはいかない。
「……ばれないようにしてあったんだろうね」
それだけ言うのが精一杯だった。
穏やかに装った声が、自分でも驚くほど冷たく響く。
「それはもう」
リシェリアが何度もこくこくと首肯する。
白銀の髪がゆるく揺れて、頬の赤みがちらりと覗く。
その無邪気な姿に、俺は息を詰めた。
――まったく。どうしてこんなに、守りたくて仕方ないのだろう。
あの時――馬車を一緒に降りた後。
リシェリアが庭に直行するとは思わなかった。
外遊の疲れも残っていたはずなのに、いつもと同じようにまず自然へ足を向けてしまうその習慣が、彼女らしいといえば彼女らしい。
だが、それを予想できなかった自分を責めた。
各自荷物が多いからといって、その場で解散せず、彼女の部屋の前まで送っていればよかった
担当官としても、それが正しかった。
悔やんでも遅いが、喉の奥に苦い後悔が残る。
「アスティが許しているなら……気を付けていたなら、これ以上はうるさくは言わない」
声に出した瞬間、リシェリアの肩がわずかに下がった。
安堵か、それとも気まずさか。
俺自身も、自分の言葉の温度を測りかねていた。
本音ではもっと言いたいことがある。
けれど、彼女を子ども扱いするような言い方はもう通じない。
聖女としての自覚を持つ彼女にとって、俺の小言などはもう立場的にも余計なのだ。
だから、今は理屈ではなく――感情で訴えるしかない。
俺の監督下なら、たとえセランが同席したとしても、見えないところで何かをされるよりはずっといい。
外遊帰りの夜、酒がまわって頬を染める彼女を思い浮かべる。
ふらついた足取りで笑う姿。
介抱すると言って、肩を貸し、その体温が腕を通じて伝わる……。
――ダメだ、想像するだけで喉が渇く。
一瞬、甘い幻想に囚われて、自分に苦笑した。
「ただ、俺も外遊の仲間として共に過ごしたのだから。声かけてくれたらよかった。それなら不安もないし、一緒に行きたかったと思うよ」
静かに言葉を選んだ。
事務的な響きに包んだつもりでも、リシェリアには伝わってしまうかもしれない。
本音は、“ご一緒したかったのはリシェリアとだけ”なのだから。
「あ、それはそうですね。」
リシェリアの青の瞳が、わずかに揺れた。
申し訳なさそうな色を帯びながらも、その目の奥には素直な反省が宿っている。
やはりこの人は、叱るよりも心に寄り添う言葉のほうが響く。
彼女の気質を知り尽くしている自分が、少し誇らしかった。
「今度その様な催しがありましたら、必ずお声かけします」
そう言われた瞬間、彼女の表情にほっとした光が差す。
許された安堵と、仲間として認められた嬉しさが同居したような、柔らかい微笑。
その表情を見られただけで、報われる気がした。
「カイルも、ずいぶん柔らかくなりましたよね。以前だったら、そのような会には参加したいだなんておっしゃらなかったと思います」
リシェリアが頬に手を当て、目を細める。愛でるような、慈愛の目。
見透かすようでもあり、包み込むようでもある。
その視線に一瞬、息を奪われた。
……それは、君のせいなんだよ。
リシェリア。
俺が柔らかくなったのは、君がここにいるからだ。
君といたいから。君の世界のすべてを見ていたいから。
そんな言葉、口に出せるはずがない。
けれど自分の沈黙の裏に、それがはっきりとある。
「そういえば、いつの間にかセランともお話されていたんですね。驚きました」
――その一言で、心臓がひやりと止まった。
あの天使のような微笑みのまま、彼女はさらりと続ける。
「カイルと、セラン。私、実は二人はお話が合うんじゃないかと思っているんです」
……リシェリア。
それは、絶対にありえないよ。
一生、仲良くなんてなれるはずがない。
互いに相手の喉元を狙っている獣だ。
カツン。
「失礼致しました」
俺の背後で、茶を用意していた侍従のヘンリクが、珍しく匙を取り落としていた。
おそらく、俺の顔がどうしようもなく凍りついたのを見たのだろう。




