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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
10章 嵐の前の
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白い逆転の一手

「……いじめられてなんかねえから。ちょっと、やなことあっただけだよ」


口の中が乾く。できるだけ軽く言ったつもりだったけど、声がひどく掠れていた。

リシェは俺の言葉を聞いて、すぐには何も言わなかった。代わりに、壊れた扉を見て――パカパカ、と軽く押してみせる。


「そんなので扉壊さないでよ……」


呆れ声。ほんの少しだけ笑いが混じっているのが救いだった。


「悪かったよ」


肩をすくめる。情けない。まるで子供だ。

けれどリシェはそれを責めるような顔はしなかった。ただ扉を直そうとしながら、何気なく、ふとした調子で言った。


「ここ閉まらないと、また悪夢見そうな時に、セランに心臓の音、聞かせてもらえないじゃない」


……一瞬、時が止まった。

胸の奥が、どくん、と鳴る。


「ん。……あ、うん。効果……あった?」


まさかこの話題に繋がるとは思っていなかった。まるで不意に急所を突かれたような気分だ。

外遊に出る前のこと――リシェが俺の胸に額を当てて、心臓の音を数えていたこと。そのぬくもりと、安堵の吐息。そして、それをカイルにもさせたんじゃないかという焦燥。全部が鮮やかによみがえる。


カイルに、相談したのか?

その確認がしたくて、けれど言葉に出すのは怖かった。


「もちろん。おかげで頑張れたよ!」


リシェが笑った。それは、少しも作り物じゃない笑顔だった。嘘のない声。いつもの、光の差すような明るさ。

その一言だけで、胸の奥に溜まっていた澱が少しずつ溶けていくのがわかった。


「でもね、おじさまに会うのは、私あれ以来だったじゃない? ずーっと、心配してくださってたみたいで。カイルに話しちゃったらしいの……子供っぽいって思われたかも。恥ずかしかったなぁ」


言葉の流れの中で、さらりと。俺が聞きたかったことを、何でもないように口にする。

あ。ああ――そうか。リカリオのおっさんか。確かに、拾われた当初に泣き喚くリシェを何度も見てるんだった。外遊で顔を合わせて、きっとその時の話をしたんだろう。


……なんだよ。そういや。結構みんな知ってる事じゃねえか。

俺だけが焦って、ひとりで勝手に暴れて。拳を握りしめてまで、何を守ろうとしてたんだ。


馬鹿みたいだ。


リシェがまた笑った。その笑みが、壊れた扉の隙間から差し込む光みたいに、あたたかった。


「ああ。いいこと思いついた」


ぱん、と手を打つ音。

リシェが何か名案を思いついたときのあの顔をしている。目が少し細くなって、唇の端が上がる。危険な予感しかしない。


「ね、セランにも私がおまじないしてあげる」


……おまじない?

眉をひそめた俺をよそに、リシェは壊れた扉を見やって咳払いをする。


「ん、まぁ。扉がないから、見えちゃうと困るし、さすがに心臓の音は聴かせてあげられないから、別のね」


「え、いや、それは」


――それってつまり、俺の顔をリシェの胸に埋めるってことだよな?

いいのか? そんなの。

いや、だめだろ普通。

……でも、もし許されるなら。


瞬間的に頭の中に浮かんだ映像を振り払う。やばい。理性が飛ぶ。

ああ、早く扉直そう。窓も塞ごう。内側に灯りをつけて、外から覗けないようにしよう。そうすれば――人目を憚らず、抱きしめられる。


「じゃあ、目を閉じて」


はっ。

脳が一気にそちらの方向へ持っていかれた。


「いや、いいって」


それは、あれだろ。瞼にする“おまじない”ってやつ。


「い、いらねえよ。逆に眠れなくなるだろ」


「いいから」


反論の余地もなく押し切られる。


「……はい」


観念して、目を閉じた。

瞼の裏が暗く沈む。その奥で、リシェの気配が近づいてくる。息が頬を撫で、空気がわずかに揺れる。


「セランはいい子。頑張ってるの、ちゃんと見てるよ。元気出して」


ちゅっと、軽い音がして。


――唇に。


……。


ああああああああああ! また!

やられた!!


軽はずみがすぎるだろうが!

唇。もっと覚悟して、するとわかってからしたかったのに。は? なんで? え。……は?

今度こそ、ずれちゃったとか、間違いじゃなくて。

リシェが選んで、してくれたよな?


心臓が一瞬で跳ね上がる。

今度は即座に目を開ける。リシェはいたずらが成功した子供みたいな顔で笑って、逃げようとしていた。


「まてまて! 待てって!」


「あはは、怒ってるの? なんで?」


リシェの腰を捕まえる。笑いながらも、腕の中で逃れようとする。その仕草が、どうしようもなく可愛い。


「何してくれてんだよ!」


「ええ? 前しちゃった時はそれで喜んでたから、そっちのほうが好きなのかなって。それにこういう時、エナもよくしてくれたでしょ」


エナ。母を引き合いに出される。母さんがするのと一緒かよ!

って……俺らは親子でも兄妹でもねえんだよ!


「子供扱いしやがって!」


「でも、元気になったじゃない」


「……」


――そりゃ、なるさ。そんなことされたら。


「あー。そうだな。元気をもらったし、俺もお礼させてもらわないとな。同じように」


じゃあ、この流れで俺からもしていい。してしまおう。いいはずだ。


「ええ……大丈夫。お礼なんていらないよ」


「遠慮すんなって」


今度は逃さない。

軽く顎を掴んで、膨れた頬をつぶす。

本気を出せば、もう絶対に。


「扉がないからだめ。怒られちゃうよ」


リシェは諦めたように息をつく。横目で壊れた扉を見て、言い逃れる言葉を呟いた。


「たった今、お前からしたんだろ。……ちゃんと見えないようにするから」


俺は真顔で返す。これは理屈として正しい。俺は悪くない。壊した扉を立て掛け直し、せめて衝立にしてみせる。


「もーぉ。わがまま。仕方ないな……どうぞ」


リシェが目を閉じた。

なんでも受け入れるように、柔らかな笑みを浮かべて。その姿に、胸の奥が熱くなる。


リシェの唇が、目の前にある。

息を飲んだ。

好きだ……リシェ。

カイルになんて、やらない。絶対に。


唇を奪ってもいい。

リシェからしてくれて、今は俺も許されている。


急に動悸が上がる。もう、触れそうなほど近い。

でも――。


「……どしたの?」


あまりの遅さにリシェから怪訝そうな問いが聞こえた。


嫌だ。まだ取っておきたい。

これを、ただの親愛や慰めの口付けにはしたくない。

リシェと、心も体も全部で繋がった時に……したい。


そう、無性に思った。


だから、俺は頬にした。

ほんの少し残った未練を消すようにわざとらしく、音を鳴らした。


「ん」


そしてそのまま、リシェの顔を胸元に抱き寄せる。

リシェも小さく体を傾け、俺の肩に顔をすり寄せてきた。まるで犬が互いを嗅ぎ分けるように、静かに呼吸を交わす。


そのぬくもりの中で、焦りはすっかり消えていた。

リシェから“おまじない”をもらったから。

もう、何も急ぐ必要はなかった。


――リシェはどう見ても、俺を好きだろうが。

誰が見てもわかるだろ。笑い方、あの目の奥の光、呼ばれた時の声の弾み。

それをどう勘違いしたら、カイルは「割り込める」と思えるんだよ。頭がいいくせに、肝心なところが見えていないじゃないか。それとも、それでも巻き返せるとでも思ってんのか。


……まさか。

リシェ、ほいほい他のやつにも口付けして……ないよな?

胸の奥が急に重くなる。唇を噛んで、息を吐いた。


ジェスだって、うっかりするとリシェを見てデレデレしてる。

いや、あいつはまだそんなことはない。俺はあいつを信じている。信じてはいるが――考えると嫌な感情がじわじわと上がってくる。


「カイルは、悪夢のことなんか言ってたのか」


精神が落ち着いてきたので、なんとか探っておく。言葉はあくまで軽く、指先はリシェの髪に触れながら。

銀の髪をすくうと、さらさらと指の間を滑り落ちて、光の粒が散るみたいに見えた。その感触が好きだ。


「えっと、うん。眠れないなら少し甘いミルク飲むとか、お風呂をゆっくり浸かるとか……時計の音を聴くといいんだって……心臓の音に近いからって」


リシェが耳を赤くして、目を伏せた。

子供っぽいと自分で思っているのか、恥じらっているのが伝わってくる。胸の奥で小さく、愛しさと苛立ちが同時に揺れる。


「時計? そんな高いもの持てるわけないだろ」


思わず声が低くなる。

最後のだけ、異質だ。心音は俺が聴かせ続けるのだから、それで十分だろう。リシェを包む暖かさも、心を安心させるのも――俺一人で事足りるはずだ。


「あ、うん。貸してくれた」


「げぇ。お貴族様かよ」


「カイルは貴族だよ……?」


「……それ、絶対に壊すなよ」


脳裏に嫌な絵が浮かぶ。

壊したって言って借金のかたにリシェをモノにする気じゃないだろうな。だとしたらやることが汚い。心の奥に黒いものが滲む。


「それはもちろん。構造なんてわからないもの」


リシェは淡々と答える。

小さな手が、借り物を大切に扱おうとする仕草を見せる。その姿を見て、ようやく少し呼吸が落ち着いた。


「使わなくて済むよう、今聴いていきな」


自分でも驚くほど柔らかな声が出た。

ちゃんと気をつけているリシェを、褒めるように撫でる。指先で髪をすくい、後ろへ流す。


「うん」


素直な返事。

胸の奥で、何かがようやく解けていく。まあ、これで大体知りたいことは知れた。


……そもそも、悪夢ですら俺のせいなら。

本当は違う。

大波が悪い。

誰も悪くない。

あの災害が悪いのに、俺のせいにされてたまるか。

そう心の中で吐き捨てる。


それでも、もしリシェが恐怖を忘れられないほどに、失うことを恐れるのが俺自身なのだとしたら。

俺は近くにいて、失われないことを示し続けるしかない。

それが、俺にできる唯一のことだ。


リシェ、ありがとうな。


謝らない。

あの時、命を繋いでくれて。

悪夢にうなされるほど愛してくれて。

そのすべてに、ただ感謝を込めればいいんだ。

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