赤の荒れ狂う長考
久しぶりに、胸の底から不愉快だと思った。
あの男の物言い――あれは冗談じゃない。
「引いてくれないかな」なんて、どの口が言う。
ふざけたことを、まるで慈悲深い助言みたいな顔して。脳裏でその場面を繰り返すだけで、指先まで血が上ってくる。
そして、嫌な感触が胸を這っていた。
……あいつはリシェの悪夢を。あの夢の中身を知っている。
俺が渡した襟巻きを使わなかった、とリシェは言っていた。だから、うなされなかったんだと――勝手に安心していた。
けれど。あの口ぶりは何だよ。
普段から悪夢の話を誰かに打ち明けて、思い出すことすら避けているんだ。わざわざリシェが、自分から「悪夢が怖いんです」とも、「こんな夢を見る」なんて言うことはない。
うなされて、それをあいつに慰められたのか。
添い寝……そんな馬鹿な。
サフィアが、そんなこと許すはずがない。サフィアは、王族に仕えた侍女としての矜持がある。リシェにも俺にも、アスティにだって、いつも誰よりそういう作法にうるさく言ってくる。
カイルをリシェの上官として信頼していても、そういった倫理的な線を容易に越えさせないはずだ。
そう信じているのに、それでも“もしかして”が頭の中に残る。
疑いは、毒だ。
毒だと分かっているのに、胸の奥に根を張ってしまう。
「お前のせい」
カイルの指摘が、胸の奥に突き刺さる。
悪夢は俺のせい――そう言われたようだった。俺がしたくてした怪我じゃない。けれど、一生連れ添って責任を果たすつもりだった。
その覚悟ごと、彼に踏みにじられたようで、心が軋んだ。
俺がリシェリアの悪夢そのものだと、あいつは思っているのか。
……消すか。カイルを。
簡単だ。
この世から消せば、これ以上煩わされることがない。
ダリオみたいに。もう名前も思い出せない蠅どもみたいに。
一瞬だけ、胸の奥の暗いところがその言葉を呟いた。
そうして、この国の危機とか全部放って出て行けばいい。俺はリシェだけを連れて、また二人でさすらう。あの頃みたいに。手を取って、風の匂いのする道をどこまでも歩いていけばいい。
…………だめだ。
だめだよな。
リシェがようやく寝られるようになったのに。
リシェがようやく笑って過ごしているのに。
あんなに痩せて骨っぽかった腕が、今はしっかりと肉がついて、健康そうに輝いているのに。
俺が全部ぶち壊すわけにはいかない。
我慢だ。
俺が我慢しなきゃいけない。
カイルたった一人の挑発に、乗ってどうする。俺が荒れれば、それだけでリシェの世界にまた影を落とす。そんなこと、絶対にできない。
……リシェに会いたい。
この胸の中の黒いものは、きっとあいつに触れればすぐに溶けていく。青い目を見れば、笑い声を聞けば、手の中に収めた細い指の感触があれば――すべてどうでもよくなるはずだ。
俺はそれだけを願いながら、拳を膝の上でぎゅっと握った。
「セラン? どうしたの?」
その声で我に返った。
柔らかくて、少し心配そうな響き。耳に触れた瞬間、胸の奥で暴れていたものが一瞬止まる。
「……リシェ」
口を開いたけれど、続く言葉が出てこなかった。
息を吸うと、木の粉の匂いと、自分の汗と、乾いた血の鉄臭さが混じる。どうやら日勤を終えてから、苛立ち紛れに八つ当たりをして、そのあとはずいぶん長い間、小屋の中で一人、膝を抱えていたらしい。
扉の板は叩き割られ、椅子は脚がねじれて転がっている。拳の痛みでようやく我に返った。
……やばい。
焦って見回した。
ここで預かっているテラリウム。壊していたら、さすがに洒落にならない。目の端で確かめ、目立った破損がないとわかって息を吐く。
……それでも、怒られる。
倉庫の備品を、感情任せに壊した。
任務や事故で壊したわけでもない。急に焦りがこみ上げ、情けなくなった。
「手。出して」
リシェの声が静かに落ちてくる。
言われるままに差し出した手のひら――皮膚は裂け、拳には木の棘がいくつも刺さっていた。血が乾いて固まり、節々に沁みる。
「悪い……。手は舐めときゃ治るから」
いつもの癖で軽く笑ってみせるけれど、リシェは反応しない。
ただ黙って、俺の手を両手で包み込んだ。
冷たい指先が触れた瞬間、じんわりと熱が広がっていく。青白い光が、掌の上にふっと浮かび、皮膚の裂け目がゆっくり閉じていく。棘が抜け、血が止まる。
静かな時間だった。
「手は治してあげるけど――扉と椅子は自分で治してね」
少しだけ呆れた声。
怒っているわけではない。けれど、ちゃんと見透かされている。
「ああ」
それしか言えなかった。
リシェも何かを察したようで、それ以上は何も聞かない。
沈黙が落ちる。
手は綺麗に戻ったのに、胸の中のざらつきは消えない。リシェに会えば、全部治ると思っていたのに。暴れた衝動が収まった分だけ、今は罪悪感が重くのしかかってくる。
“悪夢は俺のせい”――あの野郎の言葉が、今も心の奥に刻まれて離れない。拳を開けば、あの声がまだ残響している気がする。
「セランも、何か嫌なことがあったんだね」
リシェがぽつりと呟いた。
俺の顔を見上げるその瞳が、あまりにも穏やかで。その優しさが、刺すように痛い。
「……まあな」
それ以上は言わなかった。
カイルの戯言も、悪夢の話も――これ以上、リシェの前で口にしたくはなかった。
それでも、どうしても聞きたいことがあった。
心のどこかで、聞かずにいられなかった。リシェはどこまで俺を選んでくれるのか――確かめたかった。
「例えばさ」
喉の奥が少し震えた。
言葉を出した瞬間、心の底で何かがざわつく。
……誘わなくても、俺を選ぶだろうか。
そんな希望と怖さがないまぜになっていた。
「俺は、ここ出て行くって言ったら、どうする」
リシェが、静かに瞬きをした。
「出て行きたいの?」
そのまっすぐな目が、俺の奥を覗き込む。
何を見ようとしているのか。わかっているくせに、まるで子供に問いかけるように。
視線を逸らした。
……このまま見ていたら、俺の欲がすべてばれてしまう気がした。
「……」
返事がない。
その沈黙がやけに長く感じた。焦れたように、リシェが小さくため息をつく。
「わかった。いつ出るの?」
あっさりとした声だった。
「アスティにお別れと、ごめんくらいは言いたい」
その言葉に、息が詰まった。
まるで当たり前のように、荷物をまとめる算段を始める。信じられないほど自然で、信じられないほど普通だった。
「……いっしょに、来んの」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「駄目なの?」
リシェは眉を少し上げて、困ったように笑った。
「お前はそれでいいのかよ」
喉の奥から出た声は、自分でも情けないほど低く濁っていた。
アスティだけじゃない。
サフィアも、ジェスも、そして――カイルも。
お前の今の生活を支えてる人たち全部。
それを、簡単に捨てるのかよ。
リシェは少しだけ考えるように目を細めた。
「あ、一人で生きたいとか、他に一緒に行きたい人がいてお邪魔なら……国境まで一緒に行かせて。そこからは仕方ないから、別々に行くよ」
淡々と。
俺の覚悟を試すように。
「……そんなこと、ありえねえよ」
一拍置いて、低く答えた。
「でも、そういう時は……お前は残るべきじゃねえの」
リシェはすぐに首を振った。
「私だってセランをいじめる場所に残りたくないよ」
あっけらかんとした声だった。
そのあとで、リシェは俺の顔を覗き込むようにして、少し眉を下げた。
「その様子だと……いじめられたんでしょ。かわいそうに」
あやすような言い方。
まるで子供に言ってるみたいな調子。
やめろ。
そう言いたいのに、喉がうまく動かない。
「聖女をやる条件だもん。それを守ってくれないなら、ここにいる約束も守りたくない」
リシェが得意げに言う。
「……なにそれ。知らないけど」
初めて聞く話だ。
何のことだ。条件と、約束?
「私のセランを大事にしてくれるなら、聖女してあげますって、アスティと約束した」
は?
そんなことを、アスティに言ってたのか!?
くそ。一瞬、頭が真っ白になった。
「……恥ずかしいことするなよ」
顔が熱くなる。本当に子守でもされてるのか。思わず顔を上げて、リシェを見る。彼女は小さく笑っていた。
やさしいけど、からかうみたいな笑い。
「そんなこと言っても、セランの方が出て行くの嫌そうじゃない」
あっけらかんとした口調で言って、頬杖をつく。その目は、どこか呆れていて、どこかやさしい。その笑みが、胸の奥に刺さった。
否定したくても、何も言えなかった。




