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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
10章 嵐の前の
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赤の荒れ狂う長考

久しぶりに、胸の底から不愉快だと思った。


あの男の物言い――あれは冗談じゃない。


「引いてくれないかな」なんて、どの口が言う。

ふざけたことを、まるで慈悲深い助言みたいな顔して。脳裏でその場面を繰り返すだけで、指先まで血が上ってくる。


そして、嫌な感触が胸を這っていた。


……あいつはリシェの悪夢を。あの夢の中身を知っている。


俺が渡した襟巻きを使わなかった、とリシェは言っていた。だから、うなされなかったんだと――勝手に安心していた。


けれど。あの口ぶりは何だよ。


普段から悪夢の話を誰かに打ち明けて、思い出すことすら避けているんだ。わざわざリシェが、自分から「悪夢が怖いんです」とも、「こんな夢を見る」なんて言うことはない。


うなされて、それをあいつに慰められたのか。

添い寝……そんな馬鹿な。


サフィアが、そんなこと許すはずがない。サフィアは、王族に仕えた侍女としての矜持がある。リシェにも俺にも、アスティにだって、いつも誰よりそういう作法にうるさく言ってくる。

カイルをリシェの上官として信頼していても、そういった倫理的な線を容易に越えさせないはずだ。


そう信じているのに、それでも“もしかして”が頭の中に残る。


疑いは、毒だ。

毒だと分かっているのに、胸の奥に根を張ってしまう。


「お前のせい」


カイルの指摘が、胸の奥に突き刺さる。

悪夢は俺のせい――そう言われたようだった。俺がしたくてした怪我じゃない。けれど、一生連れ添って責任を果たすつもりだった。

その覚悟ごと、彼に踏みにじられたようで、心が軋んだ。


俺がリシェリアの悪夢そのものだと、あいつは思っているのか。


……消すか。カイルを。


簡単だ。

この世から消せば、これ以上煩わされることがない。

ダリオみたいに。もう名前も思い出せない蠅どもみたいに。


一瞬だけ、胸の奥の暗いところがその言葉を呟いた。


そうして、この国の危機とか全部放って出て行けばいい。俺はリシェだけを連れて、また二人でさすらう。あの頃みたいに。手を取って、風の匂いのする道をどこまでも歩いていけばいい。


…………だめだ。


だめだよな。


リシェがようやく寝られるようになったのに。

リシェがようやく笑って過ごしているのに。

あんなに痩せて骨っぽかった腕が、今はしっかりと肉がついて、健康そうに輝いているのに。

俺が全部ぶち壊すわけにはいかない。


我慢だ。

俺が我慢しなきゃいけない。

カイルたった一人の挑発に、乗ってどうする。俺が荒れれば、それだけでリシェの世界にまた影を落とす。そんなこと、絶対にできない。


……リシェに会いたい。


この胸の中の黒いものは、きっとあいつに触れればすぐに溶けていく。青い目を見れば、笑い声を聞けば、手の中に収めた細い指の感触があれば――すべてどうでもよくなるはずだ。


俺はそれだけを願いながら、拳を膝の上でぎゅっと握った。


「セラン? どうしたの?」


その声で我に返った。

柔らかくて、少し心配そうな響き。耳に触れた瞬間、胸の奥で暴れていたものが一瞬止まる。


「……リシェ」


口を開いたけれど、続く言葉が出てこなかった。

息を吸うと、木の粉の匂いと、自分の汗と、乾いた血の鉄臭さが混じる。どうやら日勤を終えてから、苛立ち紛れに八つ当たりをして、そのあとはずいぶん長い間、小屋の中で一人、膝を抱えていたらしい。

扉の板は叩き割られ、椅子は脚がねじれて転がっている。拳の痛みでようやく我に返った。


……やばい。


焦って見回した。

ここで預かっているテラリウム。壊していたら、さすがに洒落にならない。目の端で確かめ、目立った破損がないとわかって息を吐く。


……それでも、怒られる。

倉庫の備品を、感情任せに壊した。

任務や事故で壊したわけでもない。急に焦りがこみ上げ、情けなくなった。

 

「手。出して」


リシェの声が静かに落ちてくる。

言われるままに差し出した手のひら――皮膚は裂け、拳には木の棘がいくつも刺さっていた。血が乾いて固まり、節々に沁みる。


「悪い……。手は舐めときゃ治るから」


いつもの癖で軽く笑ってみせるけれど、リシェは反応しない。

ただ黙って、俺の手を両手で包み込んだ。


冷たい指先が触れた瞬間、じんわりと熱が広がっていく。青白い光が、掌の上にふっと浮かび、皮膚の裂け目がゆっくり閉じていく。棘が抜け、血が止まる。

静かな時間だった。


「手は治してあげるけど――扉と椅子は自分で治してね」


少しだけ呆れた声。

怒っているわけではない。けれど、ちゃんと見透かされている。


「ああ」


それしか言えなかった。

リシェも何かを察したようで、それ以上は何も聞かない。


沈黙が落ちる。

手は綺麗に戻ったのに、胸の中のざらつきは消えない。リシェに会えば、全部治ると思っていたのに。暴れた衝動が収まった分だけ、今は罪悪感が重くのしかかってくる。


“悪夢は俺のせい”――あの野郎の言葉が、今も心の奥に刻まれて離れない。拳を開けば、あの声がまだ残響している気がする。


「セランも、何か嫌なことがあったんだね」


リシェがぽつりと呟いた。

俺の顔を見上げるその瞳が、あまりにも穏やかで。その優しさが、刺すように痛い。


「……まあな」


それ以上は言わなかった。

カイルの戯言も、悪夢の話も――これ以上、リシェの前で口にしたくはなかった。


それでも、どうしても聞きたいことがあった。

心のどこかで、聞かずにいられなかった。リシェはどこまで俺を選んでくれるのか――確かめたかった。


「例えばさ」


喉の奥が少し震えた。

言葉を出した瞬間、心の底で何かがざわつく。


……誘わなくても、俺を選ぶだろうか。

そんな希望と怖さがないまぜになっていた。


「俺は、ここ出て行くって言ったら、どうする」


リシェが、静かに瞬きをした。


「出て行きたいの?」


そのまっすぐな目が、俺の奥を覗き込む。

何を見ようとしているのか。わかっているくせに、まるで子供に問いかけるように。


視線を逸らした。

……このまま見ていたら、俺の欲がすべてばれてしまう気がした。


「……」


返事がない。

その沈黙がやけに長く感じた。焦れたように、リシェが小さくため息をつく。


「わかった。いつ出るの?」


あっさりとした声だった。


「アスティにお別れと、ごめんくらいは言いたい」


その言葉に、息が詰まった。

まるで当たり前のように、荷物をまとめる算段を始める。信じられないほど自然で、信じられないほど普通だった。


「……いっしょに、来んの」


やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「駄目なの?」


リシェは眉を少し上げて、困ったように笑った。


「お前はそれでいいのかよ」


喉の奥から出た声は、自分でも情けないほど低く濁っていた。


アスティだけじゃない。

サフィアも、ジェスも、そして――カイルも。

お前の今の生活を支えてる人たち全部。

それを、簡単に捨てるのかよ。


リシェは少しだけ考えるように目を細めた。


「あ、一人で生きたいとか、他に一緒に行きたい人がいてお邪魔なら……国境まで一緒に行かせて。そこからは仕方ないから、別々に行くよ」


淡々と。

俺の覚悟を試すように。


「……そんなこと、ありえねえよ」


一拍置いて、低く答えた。


「でも、そういう時は……お前は残るべきじゃねえの」


リシェはすぐに首を振った。


「私だってセランをいじめる場所に残りたくないよ」


あっけらかんとした声だった。

そのあとで、リシェは俺の顔を覗き込むようにして、少し眉を下げた。


「その様子だと……いじめられたんでしょ。かわいそうに」


あやすような言い方。

まるで子供に言ってるみたいな調子。


やめろ。

そう言いたいのに、喉がうまく動かない。


「聖女をやる条件だもん。それを守ってくれないなら、ここにいる約束も守りたくない」


リシェが得意げに言う。


「……なにそれ。知らないけど」


初めて聞く話だ。

何のことだ。条件と、約束?


「私のセランを大事にしてくれるなら、聖女してあげますって、アスティと約束した」


は?


そんなことを、アスティに言ってたのか!?


くそ。一瞬、頭が真っ白になった。


「……恥ずかしいことするなよ」


顔が熱くなる。本当に子守でもされてるのか。思わず顔を上げて、リシェを見る。彼女は小さく笑っていた。

やさしいけど、からかうみたいな笑い。


「そんなこと言っても、セランの方が出て行くの嫌そうじゃない」


あっけらかんとした口調で言って、頬杖をつく。その目は、どこか呆れていて、どこかやさしい。その笑みが、胸の奥に刺さった。


否定したくても、何も言えなかった。

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