真っ黒な牽制の初手
先日まで続いた外遊が終わり、ようやく庁内の空気が落ち着きを取り戻しつつあった。
参加した所員は持ち回りで順に振替休を取っている。
特に中心的な役を担っていた俺とリシェリアは、どうしても日程が入れ違いに取らざるを得ない。
彼女が休みのときは俺が執務。俺が休みのときは彼女が報告整理。
――しばらく、忍耐だ。
とはいえ、一週間まるごと、昼も夜も共にいた。
彼女の息づかいを聞き、歩く足音を追い、同じ空気を吸い続けた日々。
今は寂しさと同時に、胸の奥に残る余韻が静かに疼く。
最後に馬車で触れ合ってから、もう四日。
それでも――あの時の温もりがまだ、手のひらのどこかに残っている。
彼女にはゆっくり休んでいてほしい。
聖女としての責務もあるが、年頃の少女としても体力を削る行程だったはずだ。
外遊の最後は、目の下に少しだけ影を落としていたのを、俺は見逃していない。
――けれど。もうそろそろ、彼女の顔が見たい。
そう思ってしまう自分を、どうにも抑えられなかった。
公務で不在の間に山のように積まれた書類を、今朝から怒涛の勢いで片づけた。
昼までに報告書を三十通。午後は面会の応接。
貴族、商家、市民。訴えは様々だが、特に重要な案件だけを取次に絞ってもなお、数は膨大だった。
「アーレンス様、次の面会まで三十分ほど空きがございます。お茶をお持ちいたしますので、少しお休みくださいませ」
取次補佐官が丁寧に言って退室する。
シン、と静寂が落ちた。
書類を置く音さえ吸い込まれるほどの、張り詰めた静けさ。
……休まらない。
深く息を吸い、応接椅子に身を預ける。
肩の力を抜いた瞬間、廊下から控えめに戸を叩く音が響いた。
「どうぞ」
声を投げると、扉の隙間から赤が覗いた。
入ってきたのは――セラン。
赤銅の髪が陽を吸い込み、金色の瞳がこちらを射抜く。
まるで野に放たれた獣。その目が一瞬だけ俺に触れて、すぐに逸らされた。
なんでこんなところに――祭祀庁にまでこの男が現れるのかと一瞬目を疑ったが、すぐ冷静に思い直す。
セランは誰かに付き従うわけでもない、城内に勤めるただの一兵卒。今までなかっただけで、確かにこういう出会いもあるに違いなかった。
「失礼いたします。次の来訪予定の方が来られなくなったと城門より知らせがあり伝令に参りました」
低く礼をし、報告を述べる。
「……わかった。少々まて」
俺は手元の書面に目を落とし、日程を考えるふりをした。
だが、意識の半分は別のことを見ていた。
リカリオは“赤いの”――セランに抜け駆けられないようにだけ気にしてろ、そう笑っていた。
赤い頭は、人目を引く。俺より高い背。いや、わずかではない。明確に厚みがある。
強靭で、若く、純粋な力をそのまま人の形にしたような体躯。
……嫌いだ。
俺は姿勢を崩さぬまま、あえてくつろいだ風を装って彼を見下ろす。
優越の形をとるための無意識の癖。
だが同時に、自分でも情けなく思う。
――俺だって、勝っているものはある。
身分。資産。知識。
それらは、自由を与える力だ。
それがなければ、セランのように頭を押さえつけられ、愛する女の隣に立つことさえ許されない。
それでも彼は、どんな理不尽にも噛みつくようにしてリシェリアの傍にいる。
目を盗んで、襟巻を渡したり。
触れるだけで満たされたような顔をする。
――入り込んでほしくない。
その想いが、喉の奥で形を持った。
「なあ。引いてくれないかな」
思考より先に、声が出ていた。
牽制。
……いや、願い。
アスティに「角を立てるな」と言われていたから、できる限り穏やかに口にする。
「お前にも、いずれちょうどいい相手が現れるよ」
「……は?」
鋭い声。わずかに苛立ちが混じる。
一瞬で、兵士としての仮面が崩れ去って、獣の本性を剥き出しにする。
沈黙。
俺は視線を外さずに続けた。
「リシェリアの悪夢は、これからは俺が。受け止める」
セランが息を呑む。
知られていることに気づいたのだろう。
「原因が、お前だという話なら――」
言葉を曖昧に濁す。
セランが被害者であることは、わかっている。だが、その姿が彼女の傷を開き続けるのなら、目を覆うことも必要なはずだ。
少しでも正直に、少しでも理性的に。
「……一緒にいない方がいい事もあると思う」
セランの顔に、影が落ちた。
怒りとも悲しみともつかぬ色が、金の瞳の奥に揺れる。
「知ったようなことを言うな。お前なんかに、何がわかる」
低い声。
獣が牙を隠したときの声。
俺は、敢えてその言葉に笑みを返した。
皮肉ではなく、覚悟の証として。
「リシェリア・アーレンスって名前、馴染みがいいと思わないか」
彼女に、そっと伝えた言葉。
戯れのように見えて――俺の中では本気だった。
「さすらう生活じゃなく、いつでも帰れる場所を。俺なら与えられる」
書面にペン先を走らせながら、静かに続ける。
「幸せにすると、約束する」
「……リシェの」
セランが吐き出すように言った。
「居場所はいつだって、俺の腕の中だけだ」
瞬間、空気が張り詰めた。
火花が散るような沈黙。
互いの視線がぶつかり、どちらも引かない。
その時、控えめに誰かが戸を叩いた。
入室をためらう気配のあと、補佐官が入ってきて、香り立つ茶の湯気が流れ込んだ。
張り詰めた緊張が否応なくほどかれていく。
「……予定の中止は承知した。こちらの候補日程を持っていってくれ」
俺は書面を渡し、声の調子を整える。
「承知しました。失礼いたします」
セランは礼をして、踵を返した。
外面は取り戻していたが、床に響く足音が、苛立ちをそのまま刻んで去っていく。
静寂が戻る。
「この後の予定は中止だ。応接の支度は片づけてくれ」
俺は補佐官に言い、目を閉じた。




